日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№20 ~ ヒットメーカーだった70年代のディラン

2008-05-03 | 洋楽
ボブ・ディランと言う人ほど、60~70年代の音楽シーンに影響を及ぼした人もいないかもしれないですね。

60年代には民族音楽的フォーク・ソングをプロテスト・ソングとして活性化、物言う音楽家として日本でも吉田拓郎や岡林信康をはじめ多くのアーティストから教祖的にあがめられました。60年代半ばにして、フォークからロックへの転身、さらには70年前後のルーツロックへの回帰などは、音楽シーンに一大ブームを巻き起こしたのでした。

そしてその後、彼の70年代は、ヒットメーカーとしての10年でした。特にザ・バンドとの共演盤 74年の「プラネット・ウエイブス」に始まる「血の轍」「欲望」と、3作立て続けの全米No.1アルバムを送り出した70年代中盤は、まさに彼の全キャリア中セールス的にはピークと言える時期でもありました。

この3作、どれも発売当時はかなり話題になり、本当によく売れました。今では75年の「血の轍」が、70年代の最高傑作と言われることが多いのですが、当時の売れ方やインパクトからすれば70年代を語るに欠かせないのは断然「欲望」、と思います。

№20「欲望/ボブ・ディラン」

このアルバムを語る上で欠かせないのは、なんと言ってもA1「ハリケーン」という曲の持つエネルギーです。黒人解放を叫び殺人犯の濡れ衣を着せられた世界ランカーの黒人ボクサー、ルービン・ハリケーン・カーター。彼の冤罪を世に問い、その釈放を求めた強力なプロテスト・ソングです。前作「血の轍」の「愚かな風」で繰り広げた痛烈な政治批判に続く、テンションの高さは特筆ものです。

ハリケーン・カーターとの出会いがあって、この曲があり、この曲があってこのアルバムとあの伝説の放浪のライブ・ツアー「ローリング・サンダー・レビュー」があったのです。「ローリング・サンダー」=「落雷」ですからね。ディランの怒りぶりが半端でないことが分かろうかと思います。「ハリケーン」はアメリカ、日本ともにシングルとしてもかなりヒットしました。ディランの怒りの訴えの効果もあり、彼はその後釈放されるのですが、それはさらに10年以上も後のことでした。

日本で「ハリケーン」以上に売れ彼の最大のヒットとなったのが、A4「コーヒーもう一杯」。哀愁漂うメロデイを一層引き立たせる、スカーレット・リベラ女史のバイオリンの音色が印象的なナンバーでもありました。ちなみに、このスカーレット・リベラ女史、街角でバイオリンを演奏するストリート・ミュージシャンだった彼女を通りがかりのディランが見初めてバンドに入れたとか。彼女なくして、ローリング・サンダー・レビューにおける独特のディラン一座ムードや個性的なバンド・アンサンブルは生まれていなかったと思います。その意味では、彼女は70年代のディランを語る上では欠かすことのできない関係者のひとりです。

収録曲の話に戻ると、離婚危機にあった夫人(当時)への想いを切々と歌ったB4「サラ」、南米風でリズミカルなA3「モザンビーク」、ディラン的バラードの傑作A5「オー、シスター」、スカーレットのバイオリンが冴えるB2「ドゥランゴのロマンス」など、作品づくりにおいて好調さをうかがわせる楽曲がズラリと並んでいます。

こうした楽曲の明瞭さがかえって、ディランとしてはややポップな感じが強い印象につながり、後々「血の轍」に70年代代表作の座を譲る結果になってしまったのかもしれません。ただリアルタイムでの実感を思い出すと、「ハリケーン」が世に与えたリリース当時の強烈なインパクトは忘れ難く、「欲望」こそ70年代ディランの代表作にふさわしい作品であると確信しています。