日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

GW特集  ~ 「センス」を考える5

2008-05-06 | マーケティング
音楽の世界で「センス」のお話をすると、やはりディランにかなう人はいないのなとか思うわけで…(3日に「欲望」を“100枚”で取り上げたのはそんな“思い”からです)。

「思いつき」と「計算」のミクスチュアとしての「センス」は最高の領域にあるなと思うのです。だからこそ、時代に影響を与え続けたのは当然で…。まぁ、この人の「センス」に関しての私見は、<70年代の100枚>や「音楽夜話」をご覧いただくとして、今日は「ローリングストーン日本版」の最新号の特集「ボブ・ディラン解体新書」の編集「センス」にしびれたので、雑誌の「センス」のお話です。

そもそも雑誌文化っていうのは、アメリカあたりからやってきたもので、作り様の「センス」においてモノマネ文化の日本の雑誌がかなうわけはないのです。出版社側もモノマネではどこまでいってもかなわないと気がついたのか、海外の雑誌の日本版というものが、70年代あたりから続々出されるようになります。代表格は「PLAY BOY」や「PENTHOUSE」。特に「PLAY BOY」は、私が高校時代の75年に日本語版が発刊され、発売日当日あっと言う間に売り切れて書店店頭から姿を消すという“伝説の事件”をも巻き起こしたのでした。

同誌のスタイルは、プレイメイトのヌード写真(猥褻な臭いの無さも特徴です)に加えてファッション、スポーツ、有名人のトピックや、著名な作家による短編小説などを掲載。さらには政治的な問題についてリベラルな見解を表明している点もあって、かなりポイントが高かったわけです。当時の薄っぺらな日本の雑誌にはない、「できる男の見本」的な存在だったのです。後追いの「PENTHOUSE」も若干軽めですが、基本コンセプトは同様です。余談ですが、大関青年は当時、MADE IN USAに負けない「センス」の良い雑誌を作りたいと、雑誌編集者を志していたのです(数年後には、日本の出版界に対し幻滅し、見事に夢打ち砕かれる訳ですが…)。

私が「センス」を感じた米国雑誌の特徴は、「硬軟取り混ぜ」のカッコよさ、すなわちスタイリッシュなバランス感覚だったのだと思います。今回シリーズで取り上げてきた「センス」というものの定義として、「発想」と「計算」の産物であるとしてきましたが、この「バランス感覚」こそがその理想形に近いのかもしれないと思います。

古くはカーター大統領がフリートウッド・マックの「ドント・ストップ」をテーマ曲にしたり、最近ではスティービー・ワンダーがオバマ候補支持を表明したり、「硬軟取り混ぜ」が当り前の文化として根付いているアメリカなればこその「センス」なのかもしれません。政治と国民生活の距離感から言えば、自分たちの投票で大統領を選出する国のミクスチュア感覚の対日本人比較での優位性は絶対的に存在する訳で、我々は決して手にしえない「センス」がそこにはあると考えられるのです。

さてさて、「ローリングストーン日本版(以下RS誌)」。米国の本家は歴史あるカルチャー雑誌で、音楽をキーにしつつ政治、大衆文化を扱うという、“バランスあるミクスチュア感覚”がウリとなっています。音楽文化(決して音楽雑誌ではなく、音楽を軸にしたファッションやカルチャーを扱っています)を中心においた「センス」のよさが、洋楽フリークにはたまらない雑誌です。今月号では、ロックミュージシャンとサングラスの特集があったり、揺れ動く中国のアングラカルチャーのルポがあったり、この「センス」には恐れ入ります。そして特集がディラン…。

この特集では、音楽的取り上げというよりはむしろその「センス」あふれるライフスタイルを取り上げるという、RS誌らしいスタンスにまず好感。後半は、件のみうらじゅんが登場してディランのファッションを語らせる憎い展開。一方付録では、ディランの過去のRS誌インタビューを3本収録。硬派な切り口で、彼のビジョンの移り変わりを浮き彫りにしています。おまけ的話としてついでに言うと、最新号ではリレーエッセイに安齋肇が偶然登場して70年代ロックをひとしきり…。RS誌のバランス感覚あふれる編集「センス」にはホント感心しきりです。

私も「硬軟取り混ぜ」「バランス感覚」にあふれ、「センス」あるブログを作っていきたいものです。