アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

台湾基督長老教会の宣教=民主化の手を休めることなく

2008-07-31 13:20:45 | インポート
わたし達センターで作ったブックレット楊啓寿著「台湾基督長老教会の過去・現在・未来 ~原住民宣教と民主化運動~」には、台湾基督長老教会と台湾原住民族との関係、そして、台湾の民主化運動への取り組みに関して、分かりやすく説明されています。
講師の楊先生は台湾基督長老教会の議長、総幹事を務められ、長い間台湾の先住民族のことに携わってこられました。また、玉山神学校(原住民族の牧師・指導者養成のための神学校)の教師・院長を長くされました。

(台湾の先住民のことを漢字で「原住民族」と書いて、ユェンツーミンツーと発音します。これは台湾の先住民族が選び取った呼び方ですのでわたしたちも用いさせて頂いています。)

感動と勇気を与えてくれるこのブックレットの、一部分「台湾の民主化運動と宣教について」の項をすこしご紹介します。

台湾基督長老教会は、宣教が始まって以来100年間、社会問題については、関与する機会も、実績もあまりなかったと著者は語ります。そのような中で台湾史上最も残酷な事件、228事件が1947年に発生。その際にも教会は何1つ発言することはありませんでした。

228事件の概要は以下の通り。以下、本文引用・・・・・
日本植民地政府が去った後、中国から蒋介石政権が政府と軍隊を台湾に送ってきました。そして植民地に代わって台湾を統治し始めました。人々は植民地制が終わって、自分と同じ血を引いた国の人々が台湾にやってくる、台湾と中国が一緒になる、と初めは喜んで期待をしていました。人々は北京語を習い始め、興奮した状態で将来を見ていたわけです。ところが、その中国からきた軍隊や政府の人々は、能率がとても悪く、不能であるばかりか、腐敗した悪い政府でした。そのために、日本政府が植民地政策で築き上げた社会の秩序が、1日1日と廃れていき、やがて経済も崩れ落ち、社会がだんだんと不安定になっていったのです。そのために国民党政府は、たばこの密輸などを取り締まるために、役人を置くなどして厳しくかかりました。
 そのような中、1947年の2月27日に、役人達が密輸したタバコを売っている一人の女性を取り締まり、その女性のタバコだけでなくて、持っていたお金まで全て没収してしまいました。その一部始終を観ていた台湾の人々が怒り、金を返しなさい、といって政府の役人に立ち向かいました。すると今度は政府の役人が怒って拳銃を発砲し、1人の台湾の人を殺してしまったのです。この事件が導火線となって、台湾の人々は、時の政府専売局の役人だけでなく、派出所、警察、それから政府の機関に対して抗議をしていきました。そしてその抗議がある点においては、秩序のない抗議に広がっていったわけです。
 人々は派出所を囲んで、中国から来た人々、「外省人」と呼ばれる人々を捕らえて囲み、殴り、そして政府に向かって、君たちのやっていることはいけない、政治を改革しなさいと、強く要求しました。このような抗議運動が台湾全土へと急速に広がっていったわけです。
 その時、蒋介石は人民に向かって、「決して軍隊を台湾には派遣しない。これを平和的な方法で解決する」と約束しました。しかし秘密裏に中国から軍隊を派遣し、台湾に上陸した軍隊は、虐殺を始めたわけであります。この事件を機に始まった虐殺により、当時のエリート層を含む2万8千人の台湾人が殺されました。殺害の状況について、記録には次のように記されています。軍隊は機関銃を乱射し、あるいは捕まえた人の鼻や耳を削り、手のひらに穴をあけて数人一緒に縛り付け、そのまま海に落とし、ある人は袋の中に入れ、溺死させました。このようにあらゆるむごい方法を使い、台湾の人々を殺してしまったのです。


蒋介石の圧力の中で、教会がとった対応は台湾に残りながら悩み苦しむ人民と共に立ち上がり、神の愛と神の義を証しすることでした。声なき人民のために教会は声を発しなければならないと感じ、1971年、台湾基督長老教会は「国是声明」を発表します。
その内容は、台湾の土地と人民は神様から授かったものであり、台湾の将来は台湾の人民によって決定されるべきである、というもの。当時、政府は政治的理由で人々を捕まえては審判の末、殺していたのですが、その状況下での「声明」です。

政府は教会への弾圧に着手し、1975年には新しく印刷した台湾語のローマ字聖書と、タイヤル語の聖書を没収。
この事態を受けて、台湾基督長老教会はいま一度声明「われわれの呼びかけ」を発表。その中でもう一度、政府が台湾人民の自決権を訴えると共に、憲法に示された信仰の自由を尊重することも訴えます。加えて、政府も教会もこの国から一歩出て、他の国との関係を強くするよう求めました。
政府の圧迫はどんどんと強くなり、教会にはスパイが来て厳しく監督され始めます。

このような中で、1977年に台湾基督長老教会は「人権宣言」を発表し、今までの声明でも述べられていた「人権」と「自決の原則」に加え、文末に『私たちは政府に向かって、台湾が一日も早く「新しい独立した国」となることを求める』という言葉を加えました。
この「新しく」・「独立した国」の言葉が中華民国政府の逆鱗に触れ、さらに弾圧が厳しくなります。
1980年の高雄事件(台湾の反政府運動の指導者たちが国連の人権記念日を記念して大規模の集会を行なった際、政府の陰謀で暴動事件発生。その際、指導者の1人を高俊明さんが助けたとして当時の台湾基督長老教会の総幹事他、約10名を逮捕。高俊明さんは軍事法廷で裁判にかけられ、7年の懲役が言い渡され、弾圧は益々のしかかっていきます(その実刑4年3ヶ月の間、台湾基督長老教会は彼の総幹事の役を解任せず支持)。
それでも、教会は祈り、休むことなく苦しんでいる人民の側に立って、神様の愛とそれから慰めを伝える、そして台湾に本当の自由と尊厳、平和がもたらされるよう努力します。それが、宣教のあり方だと確信していたのですね。
このような祈りと働きが今も続けられているのですね。

ブックレットは1冊300円(A5版28頁)、別途送料で残部わずかですが取り扱っています。
同じ楊先生の著書「傷ついた葦と共に」 教団出版 1500円も残部わずかあります。

台湾基督長老教会からのディヴァン宣教師(ブヌン民族)は、現在、北海教区にてアイヌ民族との関わりも含めて豊かなお働きをしてくださっています。
8月11日に発行されるわたしたちの機関紙「ノヤ」最新号の巻頭言を今回、ディヴァンさんが書いてくださいました。今号34号は内容盛りだくさんです。送付希望者はあて先をDM頂けたらお送りいたします。



海水浴シーズンです。海につかってシャッターをおしてみました。


聖公会伝道師 辺泥五郎の足跡

2008-07-29 08:43:31 | インポート
昨日の講演2は「祖父・辺泥五郎の足跡をたどって」で、講師はお孫さんの近森聖美さん。

辺泥五郎さんは1878年釧路の春採コタン生まれ。
5歳の時、アイヌ民族27戸と共に30キロ離れたセツリ(雪裡)川の上流(現阿寒郡鶴居村)に強制移住させられる中に入っています。
移住はアイヌ民族の貧困を救済するべく農耕で自活させるという名目でしたが、実情は、釧路は鳥取士族らの移民の増加でようやく市街地設置が整い始めた中、中心地である米町、南大通、幣舞町からアイヌを追い払うのが目的でした。
与えられた土地も当時与えられるべき半分の1町歩しか認められず、さらに現地ではそれのまた半分、すなわち4分の1しか与えられなかったようです。窮地に陥ったアイヌは春採や他の漁場に出稼ぎにでるなどして、1998年には14戸だけになったとのこと。

以下の情報も得られました。

食料給与も認められなかったが、当初は鮭漁が可能であった。ところが和人漁師が沖取りまたは河口での漁獲により、鮭の遡上を阻止したから、鮭は急減した。さらに一八九三年和人のみの釧路漁業組合の出願により、雪裡川は天然孵化場に設定され、五月から十一月までの漁獲を禁じたから、鮭の漁獲は困難となった。またこれまで無税であった薪木へも課税されるようになり、一部は餓死し、出稼ぎや再移住するものがつづいた。漁業権や税法など近代法の整備が、少数民族の生活を根こそぎ奪った事例である。

「内国植民地としての北海道」( 田村貞雄,内国植民地としての北海道,大江志乃夫ほか編,岩波講座近代日本と植民地1植民地帝国日本,岩波書店,1992.11., pp.87-99)より引用
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/hokkaido1.htm

このような強制移住はいたるところで行なわれていたのですね。


大変、苦労した中で辺泥五郎は幼少期を過し、その後、英国聖公会宣教師J・バチェラーから影響を受けて1897年に受洗。当時、札幌に住んでいたバチェラーの元で学んでいた時に、アメリカ・セントルイス万博行きの話があり、自ら志願して渡米。

その時のこぼれ話もおもしろい。
セントルイスにアイヌ民族を連れてくるよう頼まれたフレデリック・スターは最初に札幌のバチェラーのところに赴きます。そこで会った辺泥は、何度も渡米を希望するのですが、スターは七三分けした「西洋かぶれ」の彼には目もくれなかった、とか。しかし、ローマ字を学び英語も出来たので通訳として許可が出たようです。
(セントルイス万博に関しては 2007年10月3日と12日のブログ参照)

帰国後、函館の神学校にて学び、伝道師として1906年に胆振支庁鵡川村のチンコタン(汐見2区)に創設された日本聖公会鵡川講義所(のちに鵡川珍聖公会)に着任。
1940年にいったん辞任し、特志伝道師として働く。

万博参加のつながりで、1913年の大凶作時をはじめ、たびたび米国から食料救済の援助を受けて人々を喜ばせたり、託児所を始めるなどの地域への奉仕を行なって朝日新聞から賞を得たりしたようです。

アイヌ民族の間ではアイヌ青年団を作り、雑誌「ウタリ乃光リ」を発行(~15号で廃刊)するなど、尽力したようです。
(「ウタリ乃光リ」は「アイヌ民族近代の記録」小川正人・山田伸一編集 草風館に収められているので読むことが出来ます)

バチェラーを含め、キリスト教が及ぼした影響はいかなるものだったかは、わたしのこれからの課題です。そのような意味で、手がかりがひとつ出来ました。



札幌途中で見つけた広大なひまわり畑
秋になったらハム太郎たちは大喜びでしょうね~ 


木彫り熊

2008-07-28 22:44:07 | インポート
今日はアイヌ文化振興・研究推進機構主催のアイヌ文化普及啓発セミナー前期の2講座を受講してきました。翌日以降のも受けたかったですが、どういうわけか定員40名で締め切りにしており、他の講座は断られてしまいました。しかも道民カレッジ連携講座ともあって、そちらからもけっこう来られていたようです(後期はまだ大丈夫のようです)。

今日の講演1のテーマは 「木彫り熊発祥の地・八雲から北海道内へ」。
八雲町郷土資料館惨事の三浦孝一さんが写真をふんだんに用いてお話くださいました。

以前に機関誌「ノヤ」に旭川アイヌ民族フィールドワーク連載や、インタビュー記事で旭川の木彫り熊製作者である平塚賢智さんからお話を伺い、アイヌ民族の木彫り熊ルーツについて書きました。

北海道土産の定番だった木彫り熊は発祥が三つのルーツがあり、それらから全道のアイヌ民族に広がったとされます。
その一つは八雲。八雲は徳川侯爵がスイスから持ち帰った木彫り熊を手本に冬の農民の稼ぎとして熊彫りを推奨し、全道に広まったというルーツ。
それとは別に旭川では熊ハンターだった松井梅太郎が始めたルーツがある(もう一つ、独学で奈井江町の堀井清司さんのルーツがある)とのことで、明らかに八雲とは別にアイヌ彫りのルーツとしての旭川を強調しました。

それが、今日の講演では、あくまで木彫り熊の発祥は八雲であり、旭川で初期に売られていたのは八雲で作成した熊だったというのです。この点では年代的にも、もっと付き合わせが必要のような気がしますので調べていきたいと思います。
そして、旭川アイヌ民族の木彫り熊は八雲のを参考にした、と。旭川の熊の内にどれだけ八雲の彫刻の特徴が見出せるのかも伺いたかったですが、質問時間がありませんでした(他にも質問だらけでした。主催者の配慮を願います)。
それと、旭川の販売ルートを作った元「旧土人学校」校長の長谷川長左衛門(後に豊栄堂経営し、木彫などを販売。旭川六条教会会員)の関連はどうだったのかも、くわしく調べる必要があるでしょう。


旭川での最盛期は、木彫り熊の制作にかかわる人が少なく見積もっても2千人はいたそうです。その火付け役が松井梅太郎(1901~49)さん。
松井さんは近文で生まれ、熊打ちの名人でした。ある時など、幌加内山中でアナグマに襲われ、35ヶ所もの傷を負いつつも、熊を仕留めて生還したという話も残っています。
24歳(1925年)の時に、大きな熊を撃ち逃し、かなりの負傷を追いつつも生還したとのこと。
その時の思いを木彫り熊にはじめて彫ったそうです。
松井さんが彫る熊は、吼える熊、襲いかかる熊、怒る熊で、買った人は魔よけとして床の間に飾ったようです。
もともとアイヌ民族の風習では、イクパスィー(祭儀に用いる酒棒)以外に、生き物を彫る習慣はなありませんでした。魂が宿ると言われていたから。しかし、収益のためにやむを得ず、熊を彫り、販売したのです。

松井さんの初期の作品「ワニ熊」のお話を、その直弟子の平塚賢智さんから伺いました。
ワニのように足の短い熊なのですが、それは熊狩りをした人ならではの作品だ、と。
アイヌ民族の熊猟は通常、冬の間に熊穴を見つけておき、冬眠中の3月に行ないます。
その際、冬眠から覚めた熊が穴から出てきて、雪に足をうずめている姿がワニのように短足の格好に見えるというのです。
なるほど、と納得。

このように旭川ルーツは、実際に熊猟をしたアイヌ民族の特徴が入っていると事前に聞いていましたから、八雲ルーツとは違うという先入観いっぱいでの今回の聴講でしたので、けっこう頭をひねっていたかも知れません。
講師には申し訳なかったで~す。



昨夜は留萌の花火大会。我が家の屋根の上からきれいな花火を眺めました。
3歳ほどのこどもたちも近くで見ていて、夜空が光るたびに歓喜の声を挙げていました。
とても可愛かったです。 



こんな写真も撮れました~  海の中のイソギンチャクではありません


強制連行の末

2008-07-27 19:10:52 | インポート
昨日書いた「東京・イチャルパ」の件で、昨夜、違う資料を見つけて斜め読みしました。

1872年の「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」の研究ものです。
北海道大学教育学部の論文で、廣瀬 健一郎著、「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」(北海道大學教育學部紀要= THE ANNUAL REPORTS ON EDUCATIONAL SCIENCE, 72: 89-119)です。

勉強になりました。
今回、「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」跡を探しに行った者として、気になったのですが、「《東京・イチャルパ》への道」に掲載されていた増上寺周辺地図と比べたら、ほぼ同じ資料を用いながら施設の位置が違うのです。今回、跡地であろう場所に立ちながら、この場所あたりかと想いを深めたその処が違う可能性があります(が、地形そのものが変わっていることもありますね)。
確認すると論文も「《東京・イチャルパ》への道」の第二部の著者も同じ方ですから、後から出た本のほうが正しいということでしょうか(二説あるのか)。

それはそうと、「強制連行」されたアイヌ民族は同化政策として学校での学問や農業指導だけではなく、寄宿舎においても「土人取締役」なる官吏によって「監督指導」されていたことが記されていました。日常生活全般に渡って監視の目が光っていたのですね。
オーストラリヤやカナダ政府がアボリジニやカナダ先住民族の親と子を離して、隔離政策したことを先日、謝罪しましたが、明治政府も同じことをしていたのです。アボリジニの政策に関しては映画「裸足の1500マイル」にて扱われています。


しかし、場当たり的な試行錯誤を繰り返しつつ、死者を5名(ひとりは流産)出し、2年で「失敗」に終わります。
開拓使はアイヌを選ぶ際に和人と接触が多かった者たちを選んでいたようです。生徒一覧を見ると、確かに乙名、脇乙名、小使、その家族などがほとんどです。開拓使は彼(彼女)らを教化することで出身コタンの要となり、コタン全体を教化させようとも考えていたようです。しかし、そのことも「失敗」に終わったとのこと。

今回の東京イチャルパのチラシに掲載されている男子生徒・女子生徒の写真の中に、亡くなった4名が写っているのでしょうか。その後の彼(彼女)らはどうなったのでしょう。
若干の資料による調査がわかるのみです。

樺太アイヌを対雁へ、千島アイヌを占守島から色丹島へ強制連行した歴史、道内においても多くの強制移住(連行)がありました。
結果、急激な環境の変化や病気蔓延のため、樺太アイヌの841人中330人、千島アイヌ97名の内44名が故郷を想いつつ命を落としました(樺太アイヌの苦難に関しては当ブログ2007年6月18日参照)
樺太アイヌの強制連行に関して、先日、新たな資料を目にしました。堅田精司という方の「対雁アイヌ民族の意思」という研究報告です。
連行後の生活用具の貸与者を調べると、マキリやキセルという大切なものを持ち出していないとのこと。そこから分かることは樺太アイヌは意思を無視され、相当、急な連行が行なわれたとのこと(刀狩が行なわれたかもしれないとの推測にも言及されていました)。

歴史は益々深められ、真実が示されることを願います。


カナダ ハーパー首相のイヌイットなどの先住民族への謝罪ニュース動画
(2008年6月11日謝罪) 
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/gendaisekai/2008/06/post_848c.html

オーストラリア ラッド首相のアボリジニへの謝罪ニュース動画
(2008年2月13日謝罪)
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/gendaisekai/2008/02/aborigine_6722.html




旭川に流れる石狩川


開拓使仮学校付属北海道土人教育所

2008-07-26 18:48:53 | インポート
2003年にはじめ、今年で6回目を迎える「東京・イチャルパ」。
毎回、日曜日の開催なので参加はあきらめていますが、会場となる「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」跡には行っておきたいと芝公園にむかいました。
開拓使仮学校跡(碑文)がどこかにあるはずだと調べましたが見つけられず断念。
(碑文は過去ブログ07年4月19日に引用しました)。

1869年(明2)にアイヌ・モシリは北海道と改名させられ、その地を管轄するため開拓使が開設されます(翌年の1870年に「開拓使東京出張所」と改名=東京に置かれた)。
開拓使の目的は、北からの外敵ロシアに対抗するため北海道に多くの開拓者を養成して送り込み北海道を「皇国の北門」とすることでした。1872年(明5)に、東京の芝・増上寺内に「開拓使仮学校」を設置し、開拓者養成を行ないます(北海道大学の前身)。
さらに、アイヌ民族の皇民化を進めるために開拓使は次々とアイヌ民族に対する政策を打ち出していきます。和人によって搾取され酷使されて疲弊したアイヌ民族をさらに否定し文化的に滅亡させようと企てたのです。
アイヌ民族の習慣を「醜風(ふうしゅう)」(醜い風俗)、「陋習(ろうしゅう)」(いやしい習慣)であるとして、固有の文化を根本から否定して、和人名への改名強制をはじめ、入墨や耳輪、アイヌ語使用の禁止など、さまざまな習俗を禁じる布達を出します。
そして、「開拓使仮学校」の隣りに「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」を併設して、アイヌ民族38名を強制連行し、皇民化教育を行ないます。そればかりではなく、「見世物」として多くの人びとの前に晒されていたというのです。
そのうちの5名が遠いアイヌ・モシリとそこに住む家族を想いつつ亡くなります。

東京でのアイヌ「教育」の計画をした黒田清隆は、その意図を1872年7月28日付の文章にて以下のように説明しています。

元来北海道のアイヌは、容貌や言語も全く内地の人間とは異なり、したがってその風俗も陋習(ろうしゅう=いやしい習慣)を免れません。今まさに開拓の盛大な事業を進めている時なので、今までの恥ずべき風俗を脱して、内地とともに開化の域に進み、内地人とアイヌの違いをなくしたいのですが、内地の人びとを北海道に移住させ、アイヌにその風俗を習わせ、教えを受けさせるだけでは、よい方向に移っていく効果も速やかにはいきません。アイヌを自然の中に置いておくのは容易ですが、速やかに内地の風俗を学ばせるに越したことはないと存じます。そこでアイヌをおおよそ100人ほど東京へ連れてきたいと思いますが、まず今回男女27目人を呼び寄せ、若い者は仮学校へ入寮させて読書や習字の修行をさせ、その他は渋谷の御用地で農業・樹芸・牧畜などの修行をさせています。これらアイヌたちの写真を添え、このことをお届けするものです。(「公文録」六九九)
(現代訳は「《東京・イチャルパ》への道」東京アイヌ史研究会 P50 を引用)


アイヌのすべてを奪い、困窮へと追いやり、踏み続けている者の言うことでしょうか。なんと傲慢な態度でしょう。
この時の写真なのでしょうか。今回のイチャルパの案内チラシに用いられているのは。
チラシはこちら http://tokyo-icarpa.com/gaiyou.html

今日は暑い一日でした。午前中は明日の準備で忙しくし、
夕方に少し長めに海岸に愛犬と散歩に行き、少し泳いで来ました。
愛犬のイブはラブラドールですので泳ぐのが大好き。



昨日の旭川の帰りに見かけた子狐の兄弟(姉妹?)。
右後ろにシャイなほうが隠れています。
昨年も同じところで見かけましたよ。


東京での会議を終えて

2008-07-25 11:06:20 | インポート
アイヌ奨学金キリスト教協力会の委員会のために暑い東京へ行って昨夜に帰って来ました。

委員会ではハプニングやら課題が多く山積みされましたが、最終的には希望の持てるよき話し合いとなりました。
協力会メンバーである聖公会や教団教育委員会、そしてNCCとの関係の結びなおしも急務です。
しばらく過去の資料を探して確認し、各団体にお伝えするという宿題に没頭します。
会合には、NCCから3名、被差別少数者の会(京都)から1名、そして北海教区からわたしを加えて3名が集まりました。
そこで、な、なんと偶然なことに、わたしの次男のクラスメイトのお母さんが来られているではありませんか。先日も独立学園の父母会でお会いしたばかり。このような繋がりはうれしいですね。

会合を終えて、NCC教育部にご挨拶に行き、お世話になった皆さんと再会。
夜は高校の同窓生とお会いし、美味しく一杯。
翌日は農村伝道神学校へ向かい、君島校長としばしお話をしました。
夜は念願のレラ・チセへ。中野に移ってからは初めて行きました。
何鉢かのアイヌ料理を美味しく頂きながら、BGMで聞こえる音楽に反応して「OKIとKILLAのコラボだね~」のひと言から話が深まり、楽しくお話させていただきました。
中野には沖縄の人たちも多く住んでいて、毎年11月には沖縄とアイヌ民族が一緒になって大きなイヴェント(祭)が開催されているようです。中野駅のロータリーでみんなで輪になって踊るそうですよ。近くなったら情報を得て、また紹介しましょう。



東京八重洲にあるアイヌ文化交流センターにも行って来ました。
小さな部屋でしたが図書資料なども多くあり、館内で展示ビデオを観る事も出来ました。
1933年の二風谷に在住していたマンロー博士(ドクター)が録画した旧いビデオを一本見せてもらいました。ああいった資料をわたしたちのところでも備えておきたいですね~。
欲しいです。(マンローさんのことはほんの少し以前に書きました。06年11月15日のブログ参照)

それと、毎年行われる東京イチャルパの会場となる芝公園にも行ってみました。
今年も8月10日にイチャルパが行われるとのこと。
詳しくは関連案内ブログをご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/sakura-ive

たまたま、レラ・チセで「人類館?封印された扉」という本に目がとまり、こんな本が出てるんだな、と感心したのですが、読売新聞の23日の記事に関連のことが報じられていました。劇を見たいですね。本は注文しました。(人類館に関しては07年10月2日のブログ日誌参照 読売新聞記事は http://u-ko-usaraye.cocolog-nifty.com/)


芝公園の浄土宗増上寺。この敷地内に「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」があったのです。

今回も止まらずよく動いた数日でした。もうしばらく動いてしまいそう・・・
今日は別用でこれから旭川に行くので、川村カ子トアイヌ記念館にも寄って、夏の留萌での行事を話し合ってきます。

そうそう・・
たまに飛行機乗るっていいですね。はるか下にミニカーのような車が走っていたり、模型のような家々が並んでいたり、
豊かな自然を別の視点から見るのは楽しいですね。思わず窓にべったりとくっついて見ていました。
わたしと同じように楽しそうに窓にしがみついていた小学生がいました。この楽しさはオトナにはわからないのだろうか・・・


自分のルーツを語る

2008-07-22 03:39:56 | インポート
7月19日(土)22:25~22:54NHK総合テレビ ドキュメント にっぽんの現場 
「ミックスルーツ 誇りを胸にHipHop」放送をDVDで観ました。

いい内容でしたね。東京では国際結婚が1割いるのですね。
先住民族サミットでボランティアに来られていた方も出ていましたね。
いいつながりが出来ればいいなと思います。
AINU REBELSも出演していました。今後の活躍を祈ります。

20日の合唱劇「カネト」はよかったですね~。
内容もよかったですし、役者がよかった! こどもからおとなからとっても上手でした。
お客さんも1000名以上は入っていて、立ち見もいたほどでした。
カネトさんの息子さんの川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんも出演していましたよ~
すっごいわかりやすかった・・・
お連れ合いの久恵さんのムックリも光っていたし、レクポさんやアイヌ文化保存会の皆さん、
平取アイヌ文化保存会の貝澤耕一さんも応援に駆けつけておられました。
お連れ合いの美和子さんも若さあふれる踊りを披露してくださっていました。

日曜日はその後、道北地区の牧師の会合があり旭川で泊まりました。
翌朝、いつものように早く起きて祈り終えたところ、くりちゃんが起きてきて来たではありませんか。
最近、朝型になったとのこと。
くりちゃんは同じ道北地区で豊かな働きを展開している道北クリスチャンセンターの主事。
センター活動は「道北三愛塾」のURLへ http://www8.ocn.ne.jp/~sanai333/

くりちゃんは先住民族サミットにもボランティアに来てくれて、その中でこころに触れた話をたくさんしてくれました。
ある先住民族の方(すみません。名前は次回に確認します)は、
自分の名前はとても大切なもので、自己紹介の時なども最初から名前を語らないのだそうです。
(ゲド戦記みたいですね)
まず始めに父方の故郷の山の名前、川の名前、地域の紹介を行い、次に母方の故郷の山や川の名前を紹介してから自分の名前を言うのだそうです。自分のルーツ(歴史)を語るんですね。
マオリの方たちのお話も聞きました。マオリの皆さんはご自分のお話の後に必ず歌を歌います。
歌うことによって自分を生み育ててくれた先祖たちの力を感じるのだそうです。

くりちゃんは得意な語学力と親しみやすさでいろいろな出会いをされたようで、そのお話をきけてうれしかったです。こんな豊かな出会いがたくさんあったのでしょうね。
多くの方に聞かせていただければ幸いです。

これから東京に向かい、アイヌ奨学金キリスト教協力会の会議です。
その後、明治初期における開拓使のアイヌ強制連行の足跡を自分で調べようと思います。
レラ・チセにも行きたいです。
木曜日に帰りますので、その後に報告します。


美瑛のラベンダー



アイヌ語地名研究大会

2008-07-20 05:59:32 | インポート
18日はアイヌ民族委員会・アイヌ民族情報センター合同委員会が札幌であり、一泊で行って来ました。
委員会前に欲張って、北海道大学のアイヌ・先住民研究センターをお訪ねしました。
山崎さんに案内していただき、過去の参加できなかったいくつかのセンター講演ビデオを見せていただきました。
最近の講演はほぼ、パワーポイントを使ってのものなので、録音テープだけでは分かりにくいのですが、
こうしてDVDで撮っておくと助かりますね。
いつかはホームページで閲覧できるようになれば助かります。

今回は時間もなく、6月に開催したハワイ先住民族の伝統的な踊りを紹介して頂いた講演を見せていただき感動。
最後にみんなで手をつないで歌ったメロディーは讃美歌でした。
台湾の場合はキリスト教が原住民族(ユエンツーミンツー)の解放の力になっていますが、
ハワイや他国の場合も調べてみようと思います。

19日は「第12回アイヌ語地名研究大会」の一部に参加してきました。
はじめての参加でしたので興味深々でしたが、大変おもしろかった!
研究者の平 隆一さんは「松浦武四郎文献における空知の『アイヌ古道』-石狩川右岸」を講演。
淡々とリズミカルに語りる内容がうなずくことばかり。文献調べも大変細やかな内容でしたし、
ご自分おひとりで現地の調査にも頻繁に出て行かれているご様子。
すでに藪に囲まれたアイヌ民族の人びとが使っていたとされる「古道」を確認されているのですね。
「なにぶん、わたくしひとりでの行動なのでこれ以上行くと熊にあうのもいやなのでここでやめました」と、
命がけ調査に驚きと感銘!
研究もして、調査もしてという姿勢を見習いたいと反省。早速、アイヌ語地名データーベースの本を読みたくなりました

研究方法としての帰納法も分かりやすく、納得いくものでした。
さらに、ある文献比較をしつつ現地に赴きながら、その場所には明らかにアイヌ民族の人たちが住んでいたという証明をされ、
「先住権が主張できる!」といわれたことにも感動。
このようなかたちで権利回復の働きに連なることが出来るのですね。

石狩川右岸の調査ですので、わたしの住んでいる留萌周辺のことが述べられていました。
留萌の南にある増毛町信砂川をさかのぼって行なわれていた「信砂越え」は、
なんと、増毛と石狩川を結ぶものだけではなく、はるか虻田方面やオホーツク海を結ぶ道につながっているというのです。
アイヌ民族はきわめて広範囲な流通を川筋を使ってしていたのですね。

今日は美馬牛の礼拝の奉仕をし、その後、合唱劇「カネト」観賞。
今晩は旭川にて教師会で泊まり、翌朝は旭川アイヌ民族フィールド・ワークのお手伝い。
火曜日からはアイヌ奨学金の委員会で東京出張。
このチャンスに東京のアイヌ民族の皆さんとお会いできればと願っています。
木曜日に帰宅しますので、また報告はその後にさせて戴きます。



おいしいサクランボ。
今年は冷害で例年の半分だといいます。


SHAKE FORWARD

2008-07-17 08:33:04 | インポート

合唱劇「カ子ト」旭川講演のニュースが毎日のように道新に出ますね。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/105360.php
楽しみですね。

当日は、わたしは美馬牛の教会で説教奉仕をし、会場に駆けつけます。
もぎりぐらいの手伝いはしないと・・・。
わたしの手元のチケットも残り2枚となりました。先着2名様どうぞ。


「先住民族サミット」の報告を、わたしたちの機関紙「ノヤ」に載せるべく書いています。
まともに参加したとは言えないので、まわりの資料を読みながら、
下働きしている合間にチラチラと見えていた場面をつなぎ合わせつつ、
頭の中であの数日を反すうしています(こんなんで報告できるのでしょうか・・・)。



最近、いくつかメールニュースが届いていました。
ひとつはAINU REBELSから。

今週の土曜日にNHK番組に取り上げられるとのこと。
以下、案内より引用

******************
7月19日(土)22:25~22:54
NHK総合テレビ
ドキュメント にっぽんの現場 「ミックスルーツ 誇りを胸にHipHop」 放映

6月、川崎市のライブハウスで1000人規模のヒップホップ音楽イベント「SHAKE FORWARD」(一歩前へ出よう!)が開かれた。出演者はアフリカ人と日本人を両親に持つ2人組、ベトナム難民2世、日系ペルー人のグループ、在日韓国人3世のユニットなど、2つの文化を背景に持ち日本で暮らす“ミックスルーツ”な若者たち。日本の外国人登録者数は一昨年200万人を越え、国際結婚も東京では10組に1カップルに及ぶなどグローバル化が進んでいる。そうした親の間に生まれた若者たちは多感な時期を日本で過ごし、“ミックス”だという理由で疎外感を経験している。川崎のライブイベントは、それぞれの文化のよさを音楽でミックスし自分たちを見つめ直すきっかけにしようと企画した。ライブイベントに密着、誇りを胸に自分たちのメッセージをラップにのせて伝えようとする若者たちの熱い一日を描く。
http://www.nhk.or.jp/nippon-genba/yotei.html



SHAKE FORWARDのライヴ案内を以前にしました(3/13ブログ参照)。
少し調べてみたら、youtubeの映像に分かりやすい説明とライヴの雰囲気が映し出されていました。
ちょうど7分ぐらいのところでAINU REBELSが登場します。
http://jp.youtube.com/watch?v=mf9e3CGelOU

これによるとSHAKE FORWARDライヴとは、
SHAKE=心を揺さぶり感動させて、 FORWARD=先につなげていく、とのこと。
カラー・出身国関係なく音楽という表現でメッセージを語っていくというイヴェントだそう。

「ミックスルーツ」という言葉もはじめて聞きました。
わたしたちの仲間内では「ハーフ」は使わずに「ダブル」と言っていますが、「ミックスルーツ」もいいですね。
SHAKE FORWARDライヴには、在日コリアン、日本とペルーのルーツ、日本とブラジルのルーツ、
そしてアイヌなどの面々が出演し、これまたカッコいい。
NHKで取り上げられますので、是非!



もう一つのメールニュースは「TOKYO アイヌ」から。

約20分の映画紹介ビデオ上映会が以下で開催!
*7月26日(土)18:30~ スペース・オルタ
    要予約  
http://www.kamuymintara.com/film/index.htm
 
とのこと。




合唱劇「カネト」旭川公演 近づく!!

2008-07-15 06:52:58 | インポート
いよいよ今度の日曜日(20日)に旭川にて合唱劇「カ子ト」が上演されます。
旭川市近文にある川村カ子トアイヌ記念館の現館長 川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん
(アイヌ語で「先祖を大切にする人」)のお父様であるカ子トさん(アイヌ語で「お金を持ってくる人」)の
半生を合唱劇にしたものです。
(当ブログの5/23日誌にチラシを貼っていますのでご覧下さい)

川村さんから飯田公演のDVDを借りて観ましたが、子役も演技が光っているし、内容もカ子トさんの
差別に負けずに歩まれた力強い生き方が見事に描かれている感動作でした。
今回は旭川市民から公募した60名に、愛知・長野公演の出演者を加えた総勢200人が出演するそうです。

昨日のニュースではすでに前売りは完売とのこと。
北海道新聞(07/14 23:15) http://www.hokkaido-np.co.jp/news/culture/104951.php
一部紹介

劇は、鉄道工事の専門職「測量技手」試験に合格したカ子トさんが同僚らの差別に負けず、大正末期から
昭和初期にかけて天竜峡(長野)-三河川合(愛知)の六十七キロ区間(現JR飯田線)などの工事に打ち
込む姿を描いた。
 原作は児童書「カネト-炎のアイヌ魂」(沢田猛さん著、一九八三年刊)。これに感動した愛知県日進市
在住の作曲家藤村記一郎さん(56)が九〇年代後半、旭川の関係者から直接話を聞き、「少年」「どこま
でも」など二十七曲、上演時間九十分の合唱劇を作った。
 二〇〇〇年に同県豊橋市で初演され、長野、群馬県でも上演された。「いつか旭川で」と思っていた藤村
さんの働きかけで、昨年秋、旭川市民有志が実行委員会を結成。
 主演は室蘭出身の声楽家で、愛知、長野公演でも舞台に立った鳴海卓さんとし、これ以外の大部分の出
演者は公募した。一月以降、愛知、長野公演出演者との合同練習も含め、けいこを重ねてきた。
 カ子トさんの測量技術者としての功績は地元でもあまり知られておらず、カ子トさんの長男で、川村カ子ト
アイヌ記念館長の兼一さん(57)は「語り継ぐきっかけになれば」と期待する。


そうそう、川村館長も測量技師役で舞台に立つそうですよ~
わたしはまだ前売り券3枚持っていますから誰か買ってください。


原作の児童書「カネト-炎のアイヌ魂」(沢田猛さん著、一九八三年刊)


アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議

2008-07-14 06:46:42 | インポート
G8サミット後に「先住民族アイヌ」の権利回復への作業が飛んでしまわないことを願って、
再度、6月6日に決議された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」本文と、内閣官房長官談話をUPしておきます(元号はそのまま)。


アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議
平成20年6月6日 
参議院本会議

昨年九月、国連において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、我が国も賛成する中で採択された。これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。

我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。

すべての先住民族が、名誉と尊厳を保持し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際社会の潮流であり、また、こうした国際的な価値観を共有することは、我が国が二十一世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。

特に、本年七月に、環境サミットとも言われるG8サミットが、自然との共生を根幹とするアイヌ民族先住の地、北海道で開催されることは、誠に意義深い。

政府は、これを機に次の施策を早急に講ずるべきである。

一 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること。

二 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、高いレベルで有識者の意見を聴きながら、これまでのアイヌ政策を更に推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。

 右決議する。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/gianjoho/ketsugi/169/080606-2.htm





「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に関する内閣官房長官談話
平成20年6月6日

1.本日、国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で決定されました。
2.アイヌの人々に関しては、これまでも平成8年の「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」報告書等を踏まえ文化振興等に関する施策を推進してきたところですが、本日の国会決議でも述べられているように、我が国が近代化する過程において、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたアイヌの人々が多数に上ったという歴史的事実について、政府として改めて、これを厳粛に受け止めたいと思います。
3.また政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」における関連条項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む所存であります。
4.このため、官邸に、有識者の意見を伺う「有識者懇談会」を設置することを検討いたします。その中で、アイヌの人々のお話を具体的に伺いつつ、我が国の実情を踏まえながら、検討を進めて参りたいと思います。
5.アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代へ継承していくことは、多様な価値観が共生し、活力ある社会を形成する「共生社会」を実現することに資するとの確信のもと、これからもアイヌ政策の推進に取り組む所存であります。

http://www.kantei.go.jp/jp/tyokan/hukuda/2008/0606danwa.html




開拓記念博物館

2008-07-13 15:53:26 | インポート
11日(金)は道立図書館へ行き、原稿のための調べものをして、その後にいつもお世話になっているエカシから依頼があり、北海道開拓記念館に行って資料を購入しようと向かいました。が、冬と違って随分と手前の有料駐車場に車を止めねばならず、時間もなく大雨だったので次の機会にとあきらめました。

少し前ですが、北海道新聞(6月1日)記事に、「北海道開拓記念館総合博物館に改編 道方針、2011年めど アイヌ文化の展示充実」との記事が出ていましたので紹介します。

道は、北海道開拓記念館(丹保憲仁館長、札幌市厚別区)を、北海道を代表する総合博物館「北海道ミュージアム」に改編する方針を固めた。アイヌ民族に関する展示を大幅に強化し、アイヌ文化を継承する機能を高める。六月に外部の検討委員会を開き、来館者増や民間資金導入の方策を含めて来年五月まで検討。開館四十周年の二〇一一年をめどに、リニューアルしたい考えだ。
開拓記念館は一九七一年設置。北海道開拓に関係する文化財を軸とした展示は二十周年の九一年以来、模様替えがなく、開館時に年間三十六万人いた来館者は十万人に落ち込んでいる。
リニューアルでは、北海道の拠点的な総合博物館としての位置づけを明確にすることから、「開拓記念館」の名称を変更。北海道の歴史・文化の特色の一つであるアイヌ文化を核とし、近現代史や北海道の未来図などもわかりやすく楽しく展示することで、観光客など来館者の増加を図る。アイヌ文化の自然との共生の視点などを、若い世代に継承する機能も充実させる。
 地域の資料館や国立歴史民俗博物館など、道内外に約二百ある北海道・アイヌ文化関連の施設とネットワークを構築し、収蔵品の有効活用に役立てる。
 道財政の悪化から改築は困難なため、検討委では民間資金導入や運営を民間委託する指定管理者制度の導入も論議する予定だ。
 道外では、鉄道博物館(埼玉県)や国立科学博物館(東京都)など、リニューアルを機に子どもにも親しみやすい展示を充実させ、来館者を増やしており、こうした例も参考に総合博物館としてのてこ入れを図る。
 検討委のメンバーには常本照樹・北大アイヌ先住民研究センター長、三輪嘉六・九州国立博物館長らを予定している。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/culture/96290.php



「開拓記念」博物館ゆえ、視点は「開拓」側にあって、そこからアイヌ民族をとらえての展示でしたから、名称も「アイヌ民族」とは見事なほどいっさい用いずに、「アイヌの人びと」と明記し、歴史的な内容記述も不満だらけでした。そのため、台湾原住民族の皆さんを案内するときは、あえて「開拓者」の視点からの博物館として紹介してきました。

アイヌ民族を先住民族として認めた今、リニューアルはどのようになされるのか、注目したいと思います。



近海で始まった鮑漁
長い柄の先に鈎が付いていて、鮑の殻の小さな穴にその鈎を入れて捕るプロの技!!


台湾 原住民 14民族

2008-07-11 06:44:14 | インポート
8日は台湾原住民のお二人の送別会を名寄で行い、翌日、旭川空港へ見送りました。
アウン(タイヤル民族)もトゥシ(セヂィック民族)とも、ゆっくりとアイヌ民族のことについての話は出来ませんでしたが、
「先住民族サミット」に参加できたことは良かったと思います。
9日の夜は独立学園の修学旅行生(28名)に、アイヌ民族のこと、世界の先住民族のことをお話させていただきました。
が、「先住民族サミット」後でもあって伝えたいことが多いにも関わらずまとまらなくて内容はバラバラ・・・失礼しました。
翌10日は、約半数が川村カ子トアイヌ記念館へフィールドワーク。生徒の皆さんが熱心に質問し、
川村館長も丁寧に説明をしてくださいました。

今後もこのような学びが続けばいいと同窓生として願っています。
独立学園URL  http://www.dokuritsugakuen.com/



「先住民族サミット」の資料をあらためて読み直しています。
各民族の歴史や、現在の置かれている状況などのレポートもあり、とてもいい資料です。

台湾原住民族に関しては、この度の参加者であるSing ’Olam(台湾原住民アミ族〔Amis〕、台湾基督教会総会副総幹事
/牧師、教育部国家言語推進委員会員、台湾聖書協会理事)さんがレポートされています
(Divan Squluman さんと森若裕子さんとの共同翻訳)。

台湾政府は、この7月に14番目の民族であるセデック族Sedeqを公認しました。
ディヴァン宣教師に、まだ認められていない先住民族の数を伺うと、まだ10以上はあるとのこと。まだまだ認められるべき
民族があるのですね。

Sing ’Olamさんはレポートの「台湾原住民族の14民族について」の中で、以下のことを述べています。
以下、引用。

***************
言語学者 Robert Blustは1985年にAsian Perspectivesで発表した論文「The Austronesian Homeland : A linguistic Perspective」の中で、オーストロネシア語族の起源は台湾であり、そこから外部に拡散していったと指摘している。近年、この学説を支持する学者がますます増えている。例えば、考古学者Peter BellwoodはScientific American(1991年7月号)で発表した文章は完全にRobert Blustの学説を採用している。
台湾における原住民族の歴史は非常に長く、六、七千年前と考えられるが、或いはもっと古く、考古学で発見された一万年以上前の人類はすべて台湾で生存していたかもしれない。現在、台湾原住民族は14民族で、人口は約47万人である。


さらに、14民族の名称、居住分布、人口、特徴を簡単に紹介してくださっています。

1、タイヤル族Tayal/居住地:台北桃園新竹苗栗の台中、南投、宜蘭(7つ県市)の高山。
   /人口:8万人。/特徴:gagaと刺青文化を持つ。
2、タロコ族 Truku/居住地:南投花蓮。
   /人口:1万2千人。/刺青と口琴(ムックリ)と木琴文化を持つ。
3、ブヌン族Bunun/居住地:南投、高雄、花蓮。
   /人口:5万7千人。/特徴:祭典-pasibutbutと八部歌唱は有名。/氏族組織、狩猟民族。
4、アミ族 Amis/居住地:花蓮台東の海岸平原。
   /人口:17万6千人/特徴:海洋民族、母系大家族族制、年齢階級、歌舞。/豊作祭。
5、パイワン族 Paiwan/居住地:屏東、台東、南台湾の山地。
   /人口:7万2千人。/特徴:貴族階級制度/鼻笛と歌舞。狩猟。
6、ルカイ族Rukai/居住地:屏東、台東。
   /人口:2万5千人。/特徴:貴族階級制度、石作りの家。/歌舞。
7、サイシャット族Saisiat/居住地:苗栗。
   /人口:2万人。/特徴:pasta’ay(小人祭)/織物。
8、プユマ族Pinuyumayan/居住地:台東。
   /人口:1万3千人。/特徴:男性が婿入りする母系社会組織palakuanを持つ。
9、ツォウ族Cou/居住地:嘉義阿里山。海抜の高い山岳地帯。
   /人口:1万2千人。/特徴:会所kova祭とmayasvi、氏族組織。
10、タオ(ヤミ)族Tao(Yami)/居住地:台東蘭嶼。
   /人口:4千人。/海洋民族。飛魚祭。船を作る文化を持つ。
11、サオ族Thao/居住地:南投日月潭。
   /人口:300人。/特徴:漢化が最も進んでいる。/杵音楽文化を持つ。
12、クヴァラン族Kavalan/居住地:宜蘭花蓮。
   /人口:5千人。/特徴:母系社会の一部が漢化されている、祖先祭りの文化を持つ。
13、サキザヤ族Sakizaya/居住地:花蓮。
   /人口:5千人。/特徴:海祭り文化を持つ。
14、セデック族Sedeq/居住地:南投花蓮の高山。
   /人口:7千人。/特徴:刺青と織物文化を持つ。

 


川村カ子トアイヌ記念館でのフィールドワーク.独立学園の修学旅行生 熱心に聞いていました
(画像処理が未熟でスミマセン)


「アイヌ民族サミット」開催

2008-07-08 09:08:44 | インポート
「先住民族サミット」を終えてホッとしつつ、7日はエカシによばれ札幌へ。
今日から来道中の台湾原住民族のアウンさん(タイアル民族)と、トゥシさん(セディック民族)と送別の時を持ちます。
9日は山形県小国にあるキリスト教独立学園の修学旅行生が旭川に来るので、
アイヌ民族のお話とフィールドワークを行ないます。

その準備もあるのですが、今朝は少しゆっくりできたので、あらためてこの数日のニュースをひろいあげて
「先住民族関連ニュース」にUPしました。
http://u-ko-usaraye.cocolog-nifty.com/

ついでに、「アイヌ民族関連イヴェント情報」もUP!
http://blog.goo.ne.jp/sakura-ive

これからもこまめに情報提供を送ります。


さて、北海道新聞(07/07 08:08)の記事が目に留まりました。
6日に「アイヌ民族サミット」が札幌ピリカコタンにて開催され、道内外のアイヌ民族8団体の代表者らが一堂に会し、
全国組織設立へ向け、協議の場をつくることを決めたとのこと。
政府への交渉を行なうにあたり、組織を全国規模へ広げるというのです。

以下、途中から引用

***************
 サミットにはアイヌ民族最大の団体の道ウタリ協会や、首都圏の「関東ウタリ会」「レラの会」など四団体、「樺太アイヌ協会」(札幌)など計八団体の約百人が参加した。
 全国組織に向けた協議は、アイヌ民族の権利回復などを議論する政府の有識者懇談会が八月上旬にも開く第一回会合の直前に都内で開催予定。その後も継続的に協議の場を設け、公益社団法人や任意団体など、どのような組織形態で一本化できるかを議論していく。
 道が把握している道内のアイヌ民族の人口は、二〇〇六年の調査で約二万四千人だが、それ以外に首都圏でも五千人以上が暮らしているとされる。
 道はアイヌ民族の生活向上に向け、国の補助で就学支援などを行ってきたが、道外では支援策がなく、格差を問題視する声が出ていた。
 サミットでは、同協会の秋辺得平副理事長が「国にしっかりとした権利回復を求めるために、アイヌ民族の連帯をさらに強めていきたい」と強調。他の出席者からも、全国のアイヌ民族の地位向上を目指すため、組織の全国化を求める声が相次いだ。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/culture/103388.php


マオリのスティーブン・ケントさんからアオテアロアの権利回復への歴史を伺った際、マオリが一致団結するのに30年の時間がかかったと言われたことが印象に残りました。権力を持つ側は分断をさせるのが得意ですから、「理解と一致」をもって連帯しつつ、要求と交渉をしていけますように。



「先住民族サミット」最終日のポロ・リムセ(大きい輪踊り)


先住民族サミット「アイヌモシ」2008から日本政府への提言

2008-07-07 05:12:02 | インポート
「先住民族サミット」の日本政府への提言を取り急ぎUPします。

この英文や、当サミットの「宣言」文など、くわしくは「先住民族サミット」URLへ
http://www.ainumosir2008.com/


*****************

先住民族サミット「アイヌモシ」2008から日本政府への提言

北海道・洞爺湖サミットに参加した各国の首脳に、国際連合の「先住民族問題に関する常設フォーラム」のヴィクトリア・タウリ・コープス議長とともに、先住民族からの提言を行うため、このアイヌモシ (北海道)に集まったわれわれ、世界各地の先住民族の代表は、「アイヌ民族は日本の先住民族である」という、衆議院、参議院、すべての議員の賛成決議を受け、日本政府が、アイヌ民族を正式に先住民族と認めたことを高く評価する。

アイヌ民族を先住民族と認めた日本政府は、2007年9月13日に、自らが国際連合で賛成票を投じた「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の内容を速やかに実施するために、あらゆる立法化や、行政レベルでの対応を検討すべきであることから、まず過去のアイヌ政策を反省し、明確な言葉で公の場で謝罪する事から始めなければならない。

現在、日本政府が設置しようとしている「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」のメンバー8名のなかに、アイヌ民族の委員が1名しか入っていないことは、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を無視するものであり、認めることはできない。

したがって、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」の構成や運営においては、アイヌ民族と日本政府との対等な関係が保障されるべきであることから、その数についても、少なくとも半数以上がアイヌ民族から選ばれ、委員の選定についてもアイヌ民族の意向が尊重されるべきである。

日本政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に明示されている、先住民族の権利、とりわけ、自己決定権、言語権、自然資源利用権など、アイヌ民族が本来もっていたすべての権利の速やかな回復を図るべきである。

アイヌ民族だけでなく、日本のすべての国民、とりわけ、将来を背負う若者たちのためには、小さいときから教育がもっとも重要である。アイヌ語を公用語とし、義務教育でも学べる言語とすること、アイヌ民族の視点で歴史教科書を作成することなど、若者の教育を重視した施策を早急に実施すべきである。

アイヌ民族は、北海道だけでなく、本州、サハリン(旧樺太)、千島、カムチャツカなど、広大な地域で生活していた先住民族である。この事実にもとづき、日本政府は、いわゆる「北方領土」返還交渉にアイヌ民族を主権者として加えるべきである。
さらに日本は沖縄の人々をふくめ、在日韓国人など、様々な人々からなる多民族国家であり、日本政府は多民族主義・多文化国家を基本とする社会を構築することを明確に示すべきである。

先住民族サミットアイヌモシ 2008 2008年7月4日決定