ホウの木の実のお茶 2007-03-31 22:03:49 | インポート 今日は明日もあるのでこの写真だけUPしま~す。 プシネプ・ウセウ(ほうの木の実のお茶)の材料になる木の実をお見せしま~す。 これを一旦、火であぶって水に入れて沸かします。 美味しいですよ~
全道教会中高生春の集い(2) 2007-03-30 11:05:48 | インポート 道内教会中高生春の集い二日目は、川村カ子トアイヌ記念館に行きました。 川村館長からじかにアイヌ民族のことを聞き、館内を案内して頂きました。 その後に、近文生活館に会場を移し、久恵さんの指導のもとでアイヌ料理を作って食べました。 チェプ・ルル(鮭と野菜の汁物)、稲キビ入りのご飯、シト(団子)、プシネプ・ウセウ(ホウの木の実のお茶)でした。 皆、美味しく頂きましたが、お茶はティーンズには“微妙”だったようです(整腸作用もあるので体にはいいのですが、ね)。 ※お汁はオハウ(ohaw)だと、以前に聞いていましたが、石狩川筋では基本的に具入りの汁はルル(rur)と言い、汁だけをオハウ(ohaw)と言うそうです(釧路地方では逆だとかー久恵さん談)。 参照:旭川アイヌ語辞典 アイヌ語研究所 午後は、川村館長が指導して下さってムックル作りと、久恵さんの指導でのアイヌ紋様刺繍制作にわかれて、それぞれ真剣に作品作りに取り組んでいました。 その間に、久恵さんのすばらしいムックル演奏も聞かせて戴いたり、川村館長との会話で盛り上がりました。 学び、出会い、体験した豊かなときでした。皆さんのご協力を感謝いたします。 そうそう、川村館長からひと言。 「来年は、トンコリ制作をしに来たらいい」と。 それで、その次の年はチプ(丸木舟)ですかね。 そんでもって、またその次の年は・・・やっぱりウラチセ(笹葺き家)でしょう! ティーンズも今後も益々、アイヌ民族との出会いが広がりますように。 真剣に耳を傾けるティーンズ
道内教会中高生春の集い(1) 2007-03-30 11:01:39 | インポート 道内教会中高生春の集いに行って来ました。 東は帯広から南は島松から、小樽、札幌、名寄と広範囲からティーンズ15名、 スタッフを入れて総勢29名が集まり、豊かな時を過しました。 (本当は今日もやっていますが、わたしは一足先に帰りました)。 今回のテーマは「イランカラプテーあなたのこころにそっと触れさせてください」。 一日目の夜にはアイヌ民族の歴史のことや、道内の地名をもとにアイヌ語やアイヌ民族の豊かさを学びました。 はじめにビデオ「新・共生への道」(北海道ウタリ協会制作)の前半を見て、 センタースタッフの中田美歌さんがお話してくださいました。 分かりやすく、また、自分の住んでいるところの地名を教えてもらえたので、話の後もアイヌ語の話題が出ていました。 お話をしてくださった中田美歌スタッフ
チノミシリ 2007-03-28 10:47:35 | インポート 今日から2泊3日で全道教会中高生春の集いが旭川で開催されますので「案内人」として参加します。と、言っても今夜の学習会の講師は中田美歌さん(センタースタッフ・滝川二の坂伝道所牧師)が担当してくださることになり、翌日の川村カ子トアイヌ記念館では川村館長と久恵さんが指導してくださいますので、ただいるだけなのです(皆さんありがとうございます)。 楽しみです。カメラもやっと修理できたので、写真も添えて明後日にUPしますね。 今回の旭川アイヌ民族フィールド・ワークは川村記念館のみとなりますが、旭川にはアイヌ民族関連の、歩いて見て考えたり、出会ったりできるところがたくさんあります。 おいおい、紹介していきますが、嵐山もその一つです。 「頂上からの風光の美しいことは西京の嵐山伯仲」と、1888年に当時の陸軍参謀本部長小沢武雄が付けた名が今も地名として使われている(吉田友吉著嵐山百科)との事。 が、以前からここは近文アイヌの人々の聖地、チノミシリ(ci=nomi-sir=我ら祭る所)なのです。 カムイに祈り、火事、水難、病気の流行などの吉凶を受ける場として大切にされてきました。また、個々の家や村で祭っていた カムイをチノミシリの木や岩などの定められた場所に持っていきます。 この地は、神聖ゆえに秘かに定められ、アイヌ民族意外に漏らしたり、汚したり、傷をつけたり、地形を変えたりすることは禁じられていました。チノミシリはアイヌ民族にとっての心の拠り所なのです。 現在は、川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんらの努力でそれを記念するために資料館を立て(旭川市博物館分館1972年開館)、カムイノミのためのチセ(家)、プー(倉庫)、ヌササン(祭壇)、そして、民族の業績を顕彰するためのモニュメント(幕末から明治にかけて活躍した上川アイヌの首長クチンクレの碑と木彫り熊育ての親とされる松井梅太郎の碑)が設置されています。 資料館にはチセ建設に関わる儀礼・建築過程を写真で解説してるものなどが展示されています。 ※アイヌ文化の森・伝承のコタン(分館) (鷹栖町字近文9線西4号℡52-1541)
黒瀬さん創作絵本最優秀賞おめでと~ 2007-03-26 12:49:01 | インポート うれしいニュースがありました。 旭川在住の黒瀬さんがアイヌ民族の伝統や文化をテーマにした創作絵本コンテストの本年度最優秀賞を受賞されました~ 北海道新聞に大きく載っていました~ おめでとうございます。 絵本「くまのしっぽがみじかくなったわけ」は、杉村フサさんが受け継いできた物語とのこと。読むのが楽しみです。 (フサさんにもチセ作りなどで大変お世話になっています)。 黒瀬さんとは旭川川村カ子トアイヌ記念館で、一昨年にウラチセ(笹葺きの家)作りのお手伝いをしていたときにご一緒させて頂きました。 先日のアジア音楽祭Ⅱで黒瀬さんにお会いしたときは、原画を仕上げるのにご苦労されていることを伺いましたが、完成したんですね~。 絵本買いますよ~と言ったら、なんと財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構での制作ゆえに非売品だとか・・・。 残念。全国の公立図書館や道内の幼稚園、小学校に配布されているようですから探して読みます。 6月から推進機構のホームページでも公開されるとのこと。皆さんもどうぞ! 北海道新聞の記事 http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20070326&j=0031&k=200703255588
チロンヌプ=キツネ 2007-03-24 21:10:00 | インポート キツネはアイヌ語でチロンヌプ(ci-我ら ronnu-殺す p-者)といいます。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」参照) キツネのアイヌ語を調べていたら、もう一つ「スマリ」という言い方もありました。 ご存知の方は手塚治虫さんの「シュマリ」というマンガのことを思い出すでしょう。 どうも手塚さんはアイヌ語を引用していたようです(もう少し調べてみます)。 さて、手塚治虫さんといえば、彼のアシスタントをしてその後に漫画家となり、現在も活躍している石坂 啓さんですね。 (って、かなり強引に引っ張ったって感じです。スミマセン) わたしの学生時代には『安穏族』などで社会を風刺し、本当に考えさせられました。 現在も『週刊金曜日』で連載しつつ日本の歪んだ現状を問いかけてくれています。 『安穏族』の、軍隊性奴隷の問題を扱った「突撃一番」は衝撃的で、その後もずっと若い子達に紹介し続けています。 彼女が萱野茂さん監修で『ハルコロ』というマンガを書いています。 品切れ中なのが残念ですが、とってもいいです。 アイヌ少女の自然と共に、豊かに成長していく様を アイヌの考え方や伝えられた物語なども織り込んで、分かりやすく描いてくれました。 絵も可愛らしく、マンガで育ったわたしの一番のお勧めです。 上下二巻ものです。センターには2セット置いています。 若いオオワシとカラス
「アイヌとキツネ」 2007-03-22 09:11:15 | インポート 昨日は道北地区総会があり、霧立峠を往復しました。 総会ではセンターの活動報告も行なわせて頂き、支援をお願いしてきました。 「よく動いておられるね~」と信徒議員のNさんが声をかけてくださり、ブログの紹介までしてしまいました(^^;) 霧立峠は豊かな自然がいっぱいあり、通るたびに野生動物と出会えます。 昨日は行きに峠手前で雄大に羽ばたくオジロワシを見ました。大きいですね。 冬の海岸線でいつも見ているオオワシに比べて尾の形が扇状だったのでオジロだとわかりました。 (木に止まっているところを古いカメラで撮ったので現像して確認します)。 帰りは、待ちんぼキツネがえさをくれると思って寄ってきました。 冬毛でもこもこっと可愛く、なにかあげたいとも考えましたが、良くないことと思い挨拶だけして別れました。 昨年の2月に故萱野茂さんの絵本「アイヌとキツネ」の英語版が出版されました。 翻訳はプロジェクト・ウエペレケ。アイヌ民話を英語教室と英語圏へ紹介することを目的として作られた会で、代表者は函館ラサール中学・高等学校の英語教師のピーター・ハウレットさん。わたしたち道北地区の仲間であるロバート・ウイットマーさんもメンバーのひとり。 CDまでついています! http://u-ko-usaraye.cocolog-nifty.com/blog/ 以前に撮った待ちんぼキツネ。首にはスナック菓子の袋が巻きついていました。 袋ごと誰かがあげたのでしょう。どうにもできませんでした。
測量士 カ子トさん 2007-03-20 13:03:12 | インポート 川村カ子トアイヌ記念館には、チセ作りや丸木舟つくり、そして多くの行事に参加させて頂き、この数年、大変お世話になっています。 ところで、記念館の名称「カ子ト=かねと」さんについてお訪ねがありましたので、わたしの知る限りで紹介させて頂きます。 1893年、旭川市でアイヌ酋長7代目イタキシロマさんと母アベナンカさんの息子として出生。 幼年時代蒸気機関車を目にし,心を打たれ鉄道の仕事に就くことを決意。学校を卒業後,測量人夫となり,アイヌという理由で給料を半分にされるなど多くの悔しさを味わいながらも勉強を重ね,測量技手の試験に合格。鉄道員札幌講習所を卒業し,1909年、鉄道省の測量技師として北海道の鉄道建設の先頭に立ちます。 1925年から天竜峡―三河川合間の測量のために本州に上陸し,山岳が天竜峡谷にせまる荒々しい地形,岩盤の崩れやすい中央構造線にそった未開の山間を命がけで測量。 29年には天竜峡―門島間の線路工事現場監督として,地形が厳しい上に軟弱な地質で水害など悪条件が重なる難工事を完成させました。天竜峡トンネルでは工事のどさくさにまぎれて生き埋めにされそうになったこともあったとか。 樺太や朝鮮などで鉄道測量を手がけた後,旭川市の河村アイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力。60年には飯田市を訪れ講演も行っておられます。 77年1月に亡くなられました。 アイヌの方々は生まれてすぐの赤ちゃんには名前をつけず、シシベ(赤ちゃん=うんこのついたもの)と呼んだそうです。 (悪い名前を付ければ悪い霊も避けると考えられた)。 成長に従いその子の性格や行いを見た上で、あるいは将来こういう人間になってほしいという願いから、はじめて名前が付けられたのです。 カネト゜カアイヌさんは「金を掘る人」、1代目イタキシロマさんは「言論正しい」。曾祖父モノクテさんは「力のある」は、明治時代に給与地問題で活躍。母方の祖母はハル・コロ「食料・持つ、司る」の意味だとのこと。 カ子トさんの 子=ネ は役所の窓口が間違ったとのこと(川村さん談) 干支の子(ね)と間違ったのでしょうか? 皆さんも是非とも記念館に足を運び、三代目館長のシンリツ・エオリパック・アイヌ(先祖を敬う人)さんから、直接お話を伺ってください。カ子トさんの本も作られています。わが子が小学生だった時に読んで差別の実態に顔をゆがませ、めげずに力強く生きた姿勢に感動していました。
全道教会中高生春の集い 2007-03-17 18:46:11 | インポート 今日は、旭川の川村カ子トアイヌ記念館に寄り、今月末に行われる「第35回全道教会中高生 春の集い」のフィールドワークの話を少し詰めて来ました。 ティーンズ・春の集いはスタッフも含めて30名ほどが集まるとの事。楽しみです。 今回は、旭川豊岡教会を会場として、28日から2泊3日で開催。 テーマは「イランカラプテ-出会いと学び-」とし、先住民族であるアイヌ民族の学びと出会いの時を持ちます。 一日目の夜に中田美歌さん(滝川二の坂伝道所教師、情報センタースタッフ)が北海道の地名などからお話しされ、二日目は川村カ子トアイヌ記念館に行き、見学と学び、そして川村館長からお話を伺います。さらに昼食はみんなでアイヌ料理を作って食べ、午後はムックルや刺繍体験と、盛り沢山の内容です。 アイヌ記念館は以前にもご紹介していますが、1916年に現在の三代目館長川村シンリツ・エオリパック・アイヌ(先祖を大事にする人)さんの祖父イタキシロ(言論正しい)氏が記念館専用のチセ(家)を建て、先祖や近隣の人たちが使用いていたアイヌ民具を展示したのが始まり。90年以上の歴史を持つ道内では最も古い記念館です。 ところで、「イランカラプテ」は皆さんもご存知、アイヌ語の挨拶です。 i-ram-karap-te こんにちは はじめまして イ=それ(あなた) ラム=心 カラプ=触れる テ=させる →あなたの心にそっと触れさせて頂きます (「萱野茂のアイヌ語辞典」萱野茂著 三省堂 参照) 旭川アイヌはムックリをムックルというのでイランカラプテは違いがあるか「旭川アイヌ語辞典」(川村兼一監修 太田満執筆・校閲)を調べてみました。言葉は同じですが以下の説明が付いていました。 (元来、男同士の正式な挨拶の言葉として) ご挨拶申し上げます。 さて、あらためて、今日、得たイヴェント情報をUPします。 来る、3月24日(土)のお昼ぐらいから翌25日まで 旭川市民生活館(錦町14丁目)にて 「第18回アイヌ文化伝承と工芸展」が開催されます。お近くの方はどうぞ。入場無料 そうそう 今日は山菜料理の事もいろいろ話してきました。春ももう少し! 今年もアイヌ料理を楽しみたいです。今年こそあの苦さを堪能するぞ~
“土人教育所”の存在 2007-03-16 22:32:42 | インポート はたまた今週後半は本州行きで留守しており、更新が出来ずにいました。 帰ってきて、カウントが2000になっていることをみて感動しました。 感謝、感謝です。 さて、本の紹介です。 明治政府が発足し、北海道「開拓」を担う管轄官庁として「開拓使庁」を最初は東京芝の増上寺(ぞうじょうじ)に、出張所を函館に設置します(本庁は71年に札幌に移転)。 東京の跡地には植民地政策を推し進める和人の指導者を養成するために学校を設置します(開拓使雁学校、開拓使仮学校付属女学校=後の北海道大学の前身)注1。加えて、「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」が併設されました。 歴史的概観としては、わたしも読んだことがありますが、詳しくは知りませんでした。 (一部参照 「アイヌ民族と日本の歴史」 宮島利光著 三一書店) その部分に光をあてた書物ができました。 「《東京・イチャルパ》への道」 編集・発行 東京アイヌ史研究会 研究会の皆さんは、2002年から芝公園で毎夏に、イチャルパ(先祖供養)を行い、地道に研究を続けて来られました。 市販はされていませんが、当センターに寄贈頂きましたので手元にあります。 読むのが楽しみです。 後日に内容を紹介したいと思います。 注1:北大の前身の歴史については確認不足ですので後日に詳細を調べます。
ビーズの豊かさ 2007-03-11 22:01:01 | インポート ながらくご無沙汰しておりました~ 更新ない間もたくさんの方が関心を持ってくださっているのを知り、涙ちょちょ切れています。 大阪万博公園の民族博物館に行って来ました。 が、どういうわけかデジカメが壊れてしまい、全く写真が撮れずで、これまた、涙 ==; 民族博物館は博物館だけではなく研究室も備えてあり、調べ物もできて、丁寧に教えてくださることを体験してきました。 と、言うのは、アフリカの展示コーナーを見ていた時の事です。 衣装に刺繍に劣らぬビーズで作った飾りがとても素敵に感じました。 そこで、ふと疑問が生じたのです。 現代のプラスチックビーズに似ているけれど、古い時代のビーズの原材料はなんだったのか、と。 そこで、展示場の担当の方に聞きましたが分からないとのこと。でも、この展示物の展示番号を控えて、出口付近の資料室に行けば、資料を提示してくれるのでどうぞと、その番号を控えて渡してくれました。 しばらく鑑賞した後に資料室に着くと、先にわたしに教えてくださった方が先回りして、調べて下さっているではありませんか。これには感動。 そこで、資料を読んでみたところ、 まず、ビーズの歴史は紀元前26,000年前にさかのぼる発掘もあるとのこと。 材料は鉱石、貝殻、ダチョウの卵の殻など多彩。 さらに、ガラスが使われたのも相当古いことが分かりました。 そのビーズを豊かに生かした作品がたくさんあり、感動しました。 留萌管内に来るオロロン鳥(カメラが壊れたため、当分、昔の写真を使います)
「選択」型と「フル装備」型 2007-03-06 08:40:41 | インポート 常本(北大教授)さんは「先住民族」について以下のように分けて説明されました。 まずは「先住民族」とは「事実上の先住の民族である(先住性をもった固有の文化を有する少数民族)」。 これは「ウタリ対策のあり方に対する有識者懇談会報告書」(1996年)で使われていた言葉であり、現に日本政府が取っている考え。 しかし、問題はその次の部分にある、と常本さんは続け、二つに分けました。 1.「選択装備型」先住民族 2.「フル装備型」先住民族 実際に法的に「先住民族」を使う場合において、どの権利を選ぶかという点で、一定の限定が付けられています(それを「選択装備型」)と述べているわけです。 たとえば、二風谷ダム裁判ではアイヌ民族を先住民族とは言っているが、しかしながらそれによっていわゆる先住権などの特別な権利が導かれるかは“ともかくとして”と、その問題には触れていない。先住民族ではあるけれど先住権は認めていない。では、「先住民族」であるとはどういう法的なものかと言うと、憲法・人権規約で認めている文化享有権をより強く保障される存在として認められたという、いわば「選択」型(自決権などについては語られていない)だ、と。 また、ILO169号という条約も、英語の「先住民族=indigenous peoples」というが、その第1条にはわざわざ「ここで言うピープルズというのは自決権の持つピ-プルズと言う解釈はしないでください」との趣旨ともとれる注釈をしている。先住民族という言葉を用いながら「選択型」だ、と。 「第1条3 本条約での『民族』という用語の使用は、国際法においてこの用語に付される権利に関し何らかの意味合いを持つものと解釈されてはならない」(「先住民族の権利―ILO第169号条約の手引き」論創社より引用) それに対して、「フル装備先住民族」とは、自決権を含むもので、国連宣言で大きくもめているのはこの部分だ。 日本政府もアイヌを先住民族として認めない理由として「フル装備型」を意識してのこと。 先住民族の権利というとき、人によって「選択」型と「フル装備」型との考え方のずれを明らかにしていくことが必要だろう、と常本さんは課題を提示されました。 さて、今回の第3委員会でナミビアが提案し、可決された「全員一致」案について、議長は今年の8月までを期限とすると宣言したと、ある方の報告にありました。8月まで努力してすべての国のコンセンサスを得なさいということのようです。そして、国連本会議に挙げる、と。 8月以降、どのように変わっていくか期待が注がれます。 わたしたちに出来ることはなんでしょうか。 とにかく出来ることとして、自分なりに調べ確認して、その情報を分かりやすく伝えることは続けようと思います。 (分かりやすいかな?) と、言いつつ、今週はこれでブログはUPできません。次回は土曜日の夜か、日曜日になります。 大阪の国立民族博物館に行ってきますのでその報告もします。 白樺林(旭川へ行く途中)
第5回報告 2006年12月 2007-03-05 12:12:53 | インポート ここから外務省のHPにやっと報告書がUPされていますので参考してください。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/pdfs/40_1b_5.pdf (ただし、報告書全93ページ中、関連する部分は92ページにほんの少しだけの記述となりますので、ず~~っと下がってください) この報告書に関しては、過去のブログに書いたとおりです(2007年1月16日にもどる)。 確認できることを調べ、整理してみました。 さて、今回の報告はそもそも前回報告後の改善要求に対して2002年までに応答するべきでしたが、4年遅れました(ただし、遅れることは他国でもよくあるとのことー常本北大教授談)。 内容を見ると、「言語・高等教育の改善」に関しては、「2002年よりアイヌの人たちの生活向上に関する推進方策を実施している」と述べています(ただし、現実はどうかまた調査してみます)。 「土地権の改善」に関してはひと言も述べていません。 さらに、アイヌは日本の先住民族であるという言及もされていないとの批判が新聞などで問われていたのは記憶にあるとおりです。 そのことに関し、常本(北大教授)さんは、「国連への報告の問題だけではなく、背景にある政府の基本姿勢であって、それが変わらない限り報告書の中身が変わるはずがない。」(2月9日講演より筆者要点整理)と述べます。 では、政府の見解は、というと 「アイヌの人々が、アイヌ語や独自の風俗習慣を始めとする固有の文化を発展させてきた民族であり、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことについては、歴史的事実として認識しているが、「先住民族」の定義をめぐる現状が1についてで述べたような状況にあることから、アイヌの人々が「先住民族」であるか、また、「先住民族」の権利が具体的にどのようなものであるかについては、結論を下すことができる状況にはない。」 (鈴木宗男さんの質問への回答 2005年10月11日 答弁第7号) http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_shitsumon.htm さらに、 「 「先住民」及び「先住民族」については、現在のところ、国際的に確立した定義がなく、また、日本国政府としての明確な定義はない。したがって、これらが異なる概念であるか否かについても、お答えすることは困難である。」 鈴木宗男さんの質問に対する政府回答 2005年11月4日 答弁第57号) http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_shitsumon.htm これをどう評価するかに関して常本(北大)教授は、「先住民族」とはなにかの定義を深めるだけではなく、そもそも「先住民族」ということでどういうプラスがあるかも理解は一致していないので、それらを付き合わせることが必要だ、だと言われました(要点筆者)。 今後は、このあたりについて考えてみたいです。 札幌へ向う途中の眺めのいい場所
第4回報告と国連からの改善要求 2007-03-04 06:58:50 | インポート では、第4回(1997年)はというと 「日本政府は、引き続き、北海道ウタリ対策に協力し、これを円滑に推進するため関係予算の充実に努めている」 と、継続性をアピールし、さらに、1995年3月に発足した「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」に触れ、内閣官房長官にむけて報告された内容「アイヌの人々は北海道に先住していたと認められる、アイヌ語やアイヌ文化の保存振興のため、新たな立法に向け、適切に対処する旨、態度表明している」ことを述べています。 これらの報告に対し、国連規約人権委員会は日本政府へ10の質問を出します。そのうちの二つがアイヌ関連で、 「アイヌ民族の子どもが受けている教育上の差別」の件と 「アイヌ民族が権利として獲得した文化や言語などの権利」についてでした。 その回答は、 「アイヌ民族に対する差別として法務省が立件した事実はない」(立件がなければ差別はないと?)、 「国民として平等な権利を保障されている」と述べながら新しく作られた「アイヌ文化振興法」に触れたそうです。 回答を受けた委員会は結論としてアイヌに関連した2項目を指摘し、2002年10月までに改善するよう勧告しました。その改善要求の二つとは 「言語教育や高等教育をアイヌ民族自らが、十分受けることの出来ない状況」(以下、「言語・高等教育の改善」) 「土地権が認められていない状況」(以下、「土地権の改善」) でした。 (以上、資料:「グローバル時代の先住民族」上村英明監修 法律文化社より) それで、やっと、今回の第5回報告(2006年12月)になるのですね~ 続く~
第1回~第3回報告書では 2007-03-03 09:35:19 | インポート さて、前述の通り、日本政府はB規約第40条に基づいて規約人権委員会へ第1回報告書を提出します(1981年)が、調べ方が間違っているのか、外務省HPを探しても、この悪名高い報告書は出せませんでしたので(古いためにUPされていないのか)、他の資料から引用すると、報告書は 「本規約に規定する意味での少数民族は我が国には存在しない」 というものでした。存在すら否定されたのです。 しかしおかしな話ですが、北海道ウタリ対策はこの報告の6年前から行われているのですよ。 それでいて、「存在しない」と言いのけるとは、なんともお粗末。 第2回報告(1986年12月)では 「本条との関係で提起されたアイヌの人々の問題については、これらの人々は、独自の宗教及び言語を保存し、また独自の文化を保持していると認められる一方において、憲法の下での平等を保障された国民として上記権利の享有を否定されていない」 と、アイヌの存在は認めたけれど、差別はしていないよと報告。これまたかっこ悪いですね。 さらに、第3回報告(1991年12月)では、 「(アイヌは、)本条に言う少数民族であるとして差し支えない」 とし、北海道ウタリ対策のことに以下のように触れます。 「1974年政府部内に北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議を設置し、関係行政機関の緊密な連絡のもとにウタリ福祉対策事業関係予算の充実に努めている」 「アイヌの人たちの生活水準は着実に向上しつつあるが、なお、一般道民との格差は是正されたとはいえない状況にある。このためウタリ対策を推進し、格差是正を図っている」 やっと、「少数民族」としてアイヌを認めます。そして、これだけのことをしていますとウタリ対策に言及します。 (以上、資料:「グローバル時代の先住民族」上村英明監修 法律文化社より) 続く~