アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

カナダ・レポート『マシュー・スティヴンズに聞きました』

2015-02-19 14:24:12 | 日記
わたしたちアイヌ民族情報センターは、年に2回(6月・12月)に、機関紙『ノヤ』(アイヌ語でよもぎ)を編集発行し、道内の超教派のキリスト教会(12月号は全国1700近くの日本キリスト教団の教会含)や、支援をして下さっている個人へ送らせて頂いています。紙面上の都合もあり、諸活動の詳細は当Blogのほうが詳しいことが多いですが、カナダの先住民族や台湾原住民族の情報など、『ノヤ』にのみ掲載しているものもありますから、今後、時々、それらの紹介をさせて頂こうと思います。

今回は、最新号第47号(2014年12月発行)に、カナダに帰国中のスタッフのロバート・ウイットマーさん(カナダ合同教会宣教師)が寄せて下さったレポートを紹介します。


熱く語るマシューさん(2011年)

カナダに来て、2ヶ月が経ち、先住民族で、元ロンドン教区スタッフであり、2011年に北海道を訪ねたマシュー・スティヴンズさんに再会し、とても嬉しい時間を持ちました。彼にカナダの先住民族の現状と課題について聞きました。その話を少し編集しながらみなさんに紹介します。彼の熱い息と思いが力強く伝わってきました。

Q:先住民族の過去と現在はどう違いますか
A:私が子どもだった時に、母のように寄宿学校に行かされないように家族で先住民族の土地を離れる決意をし、トロントに移りました。その時から見たら状況がずいぶん改善しましたが、支配的文化(the dominant culture)とあまりにも差がありすぎて、生活レベルはまだまだ低く、居留地で教育を受ける一人ひとりの子どもにあてられるお金は公立学校より約30%少ないです。

Q:他にどのような差がありますか
A:居留地に住んでいる子どもの4人に一人は貧困家庭で、高等学校を卒業するよりも刑務所に入る確率の方が高いです。非先住民族の青年に比べて自殺率は5倍です。居留地に住んでいる先住民族の結核で死ぬ確率は全国平均の31倍です。カナダは世界の中で、水の資源が豊かな国でありながら、居留地の多くの水が汚染されていて、そのまま使えない状態です。まだまだありますが...。

Q:カナダ政府と先住民の議会によって設置された「真実と和解委員会」の働きについては
A:とても重要な働きで、これによって過去の間違いと現在の課題についての意識が高められていると思います。私も積極的にその働きに参加し、支援しています。しかし、一般の人がこれで差別の問題が解決されたと思ったらそれは大きな錯覚です。今のカナダ政府は次々と表にでない形で先住民族に対する支援金をカットしています。問題は山積みです。

Q:アイヌ民族の遺骨裁判のパンフレットを読んだ印象はどうですか
A:カナダに「学者の破損」に対して先住民族の権利を守る法律がありますが、盗まれた物を取り戻すのに時間とお金がかかります。大学や博物館にあることを証明するのに令状をとらなければならないこともありますし、副葬品などを取り戻す場合それを保管する設備と条件を整えた博物館か資料館を居留地に建てないと帰してもらえないことがあります。お金のない居留地にとってそれは負いきれない負担です。アイヌ民族のみなさんを応援します。

Q:未来への希望は 
A:最近「相応しい関係」(right relations)を作るための集会がありました。南西オンタリオの広範囲から100名の人々が集まり、勉強会をしました。教会、また公や民間の組織の人々の関心がとても高かったです。これからもこのような勉強会を続けましょうという声で終わりました。支配的文化のこのような意識の変化を見ることが何よりもの励まし、希望だと思います。
以上。



最近、当Blogの訪問者の多さに驚いています。今後も諸情報を頻繁に出せるよう努めます。どうぞよろしくお願いします。

『アイヌ民族否定論に抗する』その3

2015-02-15 06:54:08 | 日記
また横道に入ります。
前回の小林氏が引用している1970年出版の『アイヌ民族誌』(アイヌ文化保存対策協議会編 第一法規)の中で高倉新一郎氏が執筆した文書に依拠して、「民族問題としてのアイヌ問題は、1960年代で終わったのだ」と記しているところで、榎森さんの指摘(前回Blog参照)の後半の部分。
「この文献に収録されている文章の多くは、アイヌ民族を「研究の対象」として観て北研究者の文章であることを指摘しておく必要がある」
この部分を少し、「肖像権」裁判の内容から補足説明しておきます。

「肖像権」裁判とは内藤美恵子さんが1964年、詩人・郷土史家・アイヌ研究者である更科源蔵が北海道阿寒国立公園川湯温泉で原告を写真撮影し、その一枚を原告の承諾を得ないで1969年出版の『アイヌ民族誌』に掲載したこと、出版社の第一法規も被告が提供した写真を原告の承諾なしに本に掲載し、全国に頒布した等を「肖像権」の侵害と名誉毀損で東京地裁に損害賠償請求の提訴をしたものです。
内藤さんの提訴理由の三点の要点をわたし流に述べると以下の通り(榎森進著『アイヌ民族の歴史』p555参考)。
①『アイヌ民族誌』の内容は、アイヌ民族を「滅びゆく民族」として、全般にわたって紹介したものであり、その方法は、身体的特徴を解剖学的に紹介するなど人間をあたかも標本のように扱っているが、アイヌ民族は滅亡することなく民族の誇りを持って現に存在し、内藤もその一人であること。これを一方的に「滅びゆく民族」として決めつけ、民族の誇りを著しく傷つけるものであること。写真を無断で掲載されたことにより、内藤は自己の身体的特徴等を解剖学にさらされた上、「滅びゆく民族」の烙印を押されたこと。
②しかも、『アイヌ民族誌』は北海道百年事業の一環として出版されたものであり、この百年事業はアイヌ民族に対する同化政策の歴史であったことから内藤も含むアイヌ民族として反対をしてきた。しかし、本に掲載されることであたかも同化政策に賛成する立場をとるものとして印象を流布されたこと。
③内藤は、アイヌ民族としての誇りを公然と傷つけられ、更にあたかも同化政策に賛成の立場をとるかの如き誤った印象を公然流布され、その名誉を毀損されたこと。


その後、被告更科が1985年に亡くなったため、更科氏の告訴をとり下げ、翌年に『アイヌ民族誌』の監修者・執筆者である高倉新一郎(北海道大学名誉教授)と犬飼哲夫(同)を告訴。最終的には1988年に和解。その条件は第一法規が原告に100万円を支払う。被告らが連盟で原告に対し「おわび」を提出するというもの。同年、9月の「おわび」には「貴殿の誇りを傷つけましたことは、誠に遺憾であり、陳謝します」と記され、実質的な勝利となります。

裁判の詳細は『アイヌ肖像権裁判・全記録』(現代企画室)にあります。わたしたちアイヌ民族情報センターも裁判支援をしました(当時、わたしは道外でしたので関わっておりません)。

この度のヘイトスピーチ問題に関連することとして、小林よしのり氏への批判に触れ、小林氏は『アイヌ民族誌』の中で高倉新一郎氏が執筆した文書に依拠して、「民族問題としてのアイヌ問題は、1960年代で終わったのだ」と記していることから、今回の肖像権裁判の紹介となったわけですが、『アイヌ民族誌』の監修者・執筆者である高倉新一郎氏の書いていることは「高倉氏個人の見解であり、歴史学研究者の共通した見解ではない」(榎森)し、内容に関して裁判を起こされ、「おわび」を書かねばならない問題作であったものを小林氏は引用したと言うことでしょう。

「肖像権」裁判での「滅びゆく民族」としての決めつけと、今回のヘイトスピーチ「アイヌ民族、いまはもういない」の共通性と「誇りを傷つけられた」ということが重なっているように感じます。以前にも書きましたが(2015/01/31)、国連勧告にてヘイトスピーチは「告訴」の対象になる犯罪であり、公人は制裁されなくてはならない、と述べているのですからアイヌ政策推進会議でしっかりと議論して、国が訴えないといけないことですね。


チカップさんの作品集

内藤美恵子さんこと、チカップ美恵子さんのことは、当Blogで繰り返しご紹介させて頂きましたが、当センターでは『アイヌ・モシリの風』(NHK出版)、『アジア・太平洋の先住民族 権利回復への道』(ヒューライツ大阪)、『風のめぐみ』(お茶の水書房)、『カムイの言霊』(現代書館)、『チカップ美恵子の世界 アイヌ文様と詩作品集』、『森と大地の言い伝え』(北海道新聞社)、『福音と世界』(信教出版)1995年2月号「アイヌとして生きる」、チカップ美恵子アイヌ文様カレンダー(1999年~2005年)等を所蔵しています。
また、NHK出版社は増刷がかなわない在庫を裁断するとのことで、『アイヌ・モシリの風』の在庫を引き取って欲しいとの内部依頼があり、在庫を買取って収益なしで販売しています。加えて、チカップ美恵子アイヌ文様カレンダー(1999年~2005年)の在庫も、あまりにいい刺繍と写真ゆえ、格安でお分けしています。
個人的には、アイヌ文様カレンダーの2005年版に、わたしも関わらせて頂き、チカップさんの写真選びのこだわりや真剣さに触れられたことは、いい想い出になりました。感謝!


まりも祭で撮った阿寒のフクロウ

『アイヌ民族否定論に抗する』その2

2015-02-14 12:46:03 | 日記
『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田 晃,マーク・ウィンチェスター)を少しづつ読んでいますが、前回の小林氏が引用している1970年出版の『アイヌ民族誌』(アイヌ文化保存対策協議会編 第一法規)の中で高倉新一郎氏が執筆した文書に依拠して、「民族問題としてのアイヌ問題は、1960年代で終わったのだ」と記しているところで、榎森さんの指摘の以下の部分、
「むしろこの時期は、アイヌ民族の復権運動が高まりつつある時期で、高倉氏は、アイヌ民族の復権の意義を理解することが出来なかった結果、こうした意味の文章を書いたのであって、日本の研究者が高倉氏と同じ見解を共有していたわけではない。しかも、この文献に収録されている文章の多くは、アイヌ民族を「研究の対象」として観て北研究者の文章であることを指摘しておく必要がある」
を、ざっくりと調べて紹介してみます。

例えば、榎森進さん著『アイヌ民族の歴史』(草風館)の「第10章 立ち上がるアイヌー戦後編」を参照すると、戦後民衆主義の社会的動向を背景として、アイヌ民族が「民族」と自らを称し、未来への期待を込めた新たな活動を開始する部分など、ワクワクしてくる記述が続きます。これは以前の活動日誌に書いた札幌自由学校「遊」での竹内 渉(わたる)さん(北海道アイヌ協会事務局長)のお話を聞いた時も感じました。
さて、1960(昭35)年4月、北海道アイヌ協会が再建されると共に、翌1961年4月、北海道ウタリ協会と改称するなど、アイヌ民族の組織が強化されたのに伴い、北海道が「北海道アイヌ協会」に対して同協会の運営資金を助成しはじめたことや、厚生省が同協会に対して「不良環境地区改善事業」の一環として補助金を支給しはじめます。この辺りをみて高倉氏のあの発言があったのかと推測しますが、榎森さんは小川正人さんの指摘を引用し、以下のように書いています。
「この頃各地のコタンから道に対して生活条件改善の訴えが出されていたという事実から推して、自分達の生活を護り築こうとする切実な意識がその基盤となっていたとみるべきであろう(小川正人『先駆者の集い』解説、『アイヌ史・活動史編』)」。

各地のアイヌ民族が自分たちの生活を護り築こうと切実な思いで訴えるという動きがあった結果、道が動いた、と。


阿寒湖のまりも祭の一風景(2014年)

さらに、「民族意識の高揚と多様な活動」(『アイヌ民族の歴史』第10章 p524ff)には、「北海道百年」認識に対する批判的な見解や運動があったことが多数、記されています。
1970年7月発行のアイヌ民族の同人誌『北方群』創刊号の巻頭文(向井喜美恵)の内容は胸を打ちます。『北方群』第2号(1972年)の巻頭言「ウタリに対する不当差別の告発を」には、HBCテレビドラマ『お荷物小荷物』によるアイヌ差別に対し、北海道ウタリ協会石狩(札幌)支部が抗議して放映中止と謝罪をさせた。このような不当な差別に対し直接行動を取りはじめたのは画期的なことだ、と記述していることを紹介しています。
また、『日高文芸』6号掲載「対談・アイヌ」発行(1970年)しかり、同年6月に若いアイヌの女性達中心で手作り新聞『アヌタリアイヌ(われら人間)』発行も、民族意識の高まりと様々な活動として紹介しています。『アヌタリアイヌ』には、北海道電力が伊達市長和に建設予定の火力発電所建設に反対するアイヌの漁民たちの座談会(創刊号)、「シャクシャイン供養祭」やクナシリ・メナシの戦いで処刑された37名のアイヌを供養するためのイチャルパ(先祖供養祭)の様子を伝える記事、連載では「エカシとフチを訪ねて」(13回)の聞き書き、和人の研究者の批判、アイヌ宣言としてのメーデー参加の記事など、重要な記事が満載だ、と。

また、70年代後半になると、30年ぶりに国政選挙にアイヌの青年成田得平さんが立候補。これは1947年第22回衆議院議員選挙の際、辺泥和郎、大河原徳右衛門、川村三郎の3名が立候補した以来(いづれも不当選)。しかし、その後、アイヌ人口の多い地域を中心に町村議会議員に当選するアイヌも次第に増え、30年ぶりの立候補となった。結果は不当選となったが、全国の得票を分析すると、「成田がこの選挙において社会的弱者や少数者を尊重する政治の実現を訴えたことが得票に結びついた」と榎森さんは評価しています。

これらに加え、「北大での差別抗議との闘い」(1977年)や、「北大医学部の人骨問題」、「肖像権裁判」の闘いのように、アイヌ民族は60年代以降も、様々な場や機会を活用して、アイヌ民族の民族としての尊厳とアイヌ文化を護る運動を積極的に行っていると榎森さんは指摘しています。

小笠原信之さん著『アイヌ近現代史読本』(緑風出版)第6章「民族復権の新しい波」や、宮島利光さん著『アイヌ民族と日本の歴史』第9章「アイヌ民族復権への道」も参考になります。宮島さんの「アイヌ民族の歴史略年表」の1972年には
「この頃、アイヌ民族の復権運動が盛り上がり、各地にアイヌ主体の運動組織が結成される。道庁、初めて「ウタリ生活実態調査」実施」とあります。

ところで、『アイヌ史』(北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会)全5巻をポンと寄贈して下さる方はおられないでしょうか。

JR留萌本線の途中にある恵比島駅。NHK朝ドラ『すずらん』で舞台になり、それ以来、観光用に「明日萌駅」となっています。
最近、留萌本線はよく吹雪で止まります。

『アイヌ民族否定論に抗する』榎森進さんの特別掲載

2015-02-12 19:05:21 | 日記
過日、Amazonで購入した『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田 晃,マーク・ウィンチェスター)。
特別掲載として、榎森進さんの「歴史からみたアイヌ民族―小林よしのり氏の「アイヌ民族」否定論を批判する」を読みましたので紹介します。

小林よしのり氏は、アイヌが「民族」であるか疑問であり、さらに「先住民族」であるかどうかについては、学問的にも「異論」があることを、文化人類学者の河野本道氏の見解に依拠して述べているようです。
それに対し、榎森さんは
「この河野本道氏の見解は、あくまでも氏個人の独自の見解にすぎず、学会の定説になっている見解ではない。氏の、アイヌの墓標の特徴を根拠にした「アイヌ文化」の地域的相違の存在の指摘以外の問題、特に「アイヌ民族否定論」は、学会では受け入れられていないのである」
と、あっさり批判。そして、「民族」の定義については、様々な見解があるが、
「日本語における「民族」という語は、一般に、言語の共通性をはじめ、宗教・芸術・衣食住の習慣・価値体系の共通性を有する特定の個別文化と、こうした個別文化を有している人間集団の構成員の同集団への「帰属意識」の存在を「民族」形成の大きな要因とみる見解が支配的である」
と述べ、こうした、現在の学会における一般的な「民族」の定義を踏まえれば、アイヌは「民族」だと説明。さらに、1457年の東はムカワ(現・鵡川)から、西はヨイチ(現・余市)にいたる地域のアイヌが一斉に蜂起した「コシャマインの戦い」をみるにいたったのも、当時の「アイヌ集団」が「民族」としての「アイヌ民族」を形成するにいたっていたからに他ならない。そうでなければ、こうした広範囲にわたる地域の「アイヌ集団」が反和人の戦いに立ち上がった理由を説明できない、と。1669年の「シャクシャインの戦い」も、東はシラヌカ(現・白糠)から西はマシケ(増毛)にいたるさらに広範囲のアイヌ民族が立ち上がったのも、明確な「帰属意識」が存在していたからこそだ、と。

また、榎森さんは「ユカラ」にも注目しています。
「ユカラという口承文芸が成立するためには、その内容を聞いて理解し、納得する人間集団の成立が前提となる。つまり、共通の言語をはじめとして、その内容を理解出来る特定の個別文化と、こうした個別文化を有している人間集団への「帰属意識」が存在していなければならないが、「ユカラ」という口承文芸が成立したということは、それを謳(うた)い、またそれを聞いて、その内容に共感する「人間集団」が形成されたことを意味しており、換言すれば、この口承文芸の成立こそ、「アイヌ民族」の形成を証明するもっとも典型的なものといえるのである」


近所の中学生女子達がバレンタインの手作りチョコを作る会を教会で行い、ひと足お先に頂戴しました。

さらに、小林氏の見解で見過ごせないこととして、1970年出版の『アイヌ民族誌』(アイヌ文化保存対策協議会編 第一法規)の中で高倉新一郎氏が執筆した文書に依拠して、「民族問題としてのアイヌ問題は、1960年代で終わったのだ」と記しているところ。高倉氏がこの本で書いていることは、「アイヌ民族問題は、もはや社会福祉問題になっている」との趣旨の内容で、これも高倉氏個人の見解であり、歴史学研究者の共通した見解ではない、と指摘。
「むしろこの時期は、アイヌ民族の復権運動が高まりつつある時期で、高倉氏は、アイヌ民族の復権の意義を理解することが出来なかった結果、こうした意味の文章を書いたのであって、日本の研究者が高倉氏と同じ見解を共有していたわけではない。しかも、この文献に収録されている文章の多くは、アイヌ民族を「研究の対象」として観て北研究者の文章であることを指摘しておく必要がある」
と書いています。
まとめると、小林氏の論理は、他人の著者内容の一部、それも小林氏の見解に都合のよい人の文章にのみ依拠して、自己の論理を展開し、自己の見解を絶対的なものとして書いているところに大きな特徴がある。したがって、彼の論理には科学的根拠は一切ない! と批判。

先日、精神科医の香山リカさんが小林氏と長時間に渡る対談をし、月刊誌「創」15年月号で、17ページもの長文の「激論」が掲載されたことが報道されました。香山さんの相手に「意見の撤廃をしてもらう」ために対談に望んだ姿勢に頭が下がります。(J-CASTニュース-2015/2/9 http://www.j-cast.com/2015/02/09227467.html )
期限切れの場合は、「先住民族関連報道ブログへ http://blog.goo.ne.jp/ivelove 
香山さんは『アイヌ民族否定論に抗する』にも執筆されていますので、榎森さんの小林氏批判を読まれて対談にのぞまれたのでしょうが、「科学的根拠が一切ない」ことは指摘されたのでしょうか。機会があれば「創」も読んでみたいです。


センタースタッフ会のあと、札幌雪まつりを見学。あまりの寒さで人形劇を観たかったものの挫折!
昨日、情報センター蔵書・映画DVD・講演テープ・民族音楽CDのリストを道内の教会・関連施設に送付しました。蔵書は789冊、関連報道や映画DVDは226本、いろいろなところに出かけて録音した講演テープ(資料付)は156本。音楽CDは60本。
センタースタッフ会で、このリストの使い方を説明する文書があったらいいのではという意見が出て計画中です。たとえば、書籍数册や数本のDVDを選んで紹介し、教会で自主学習会などに用いてみてはいかがでしょうか、というようなもの。アイヌ文化振興・研究推進機構なども利用して毎年制作しているアイヌの伝統・文化を題材にした絵本(最優秀賞作品)なども、こども用に配布できたらいいなとも考えているのですが、可能なのか今度、問い合わせてみようと思います。

「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 報告その4  

2015-02-06 17:10:18 | 日記
今回の東京出前講座は「週刊金曜日」の協賛もあり、1月30日号にて特集「日本の先住民族と憲法と」を組み、さらに、YouTube「金曜日チャンネル」に葛野次雄さんのインタビューを公開しています。
次のURLで観ることができます(6分後より)。
https://www.youtube.com/watch?v=VxwrHfW9CxI&feature=youtu.be

週刊金曜日の特集はフリーランス記者の平田剛士さんがまとめたものですが、6ページにわたって年表やコラムをふんだんに使い、とても見事です。様々な意見も豊かでとても読みやすいです。そこから、「Part3 憲法に規定されていない先住権」の部分を紹介します。ざっというと以下の通り。
常本照樹さん(北大アイヌ・先住民研究センター長・アイヌ政策推進作業部会会長)は著書でこう述べる。
「国内に先住民族が存在しているにもかかわらず、それに関する憲法規定を持たず、条約(先住民族との間に結ばれ、先住民族の地位と権利を規定するもの)もない国々もある。(略)日本尾その一例である。(略)憲法が一朝一夕になしうるものではないとしたら、さしあたり現行の憲法のもとで先住民族にとって必要な権利の実現をはかる道を追求すべきことになろう。」(「憲法の最前線あるいは最縁辺―先住・少数民族の権利」、紙谷雅子編著『日本国憲法を読み直す』収録,日本経済新聞社、2000年)

2009年の有識者懇談会もほぼ同じスタンスで、アイヌ政策が「憲法を踏まえるべきなのは当然」といった趣旨の記述があり、常本氏はその委員でもあった。政府に憲法を遵守する義務はある。その憲法に先住権の規定はない。ない以上、政府に出来ることには限界がある、というわけだ。
しかし、この意見に上村英明さん(市民外交センター代表・恵泉女学園大学教授)は、こう述べています。
「法律は人のためにある、という視点がまるで欠落していますよね。憲法に規定がないと結論づける前に、憲法でアイヌ民族の権利をどう守れるか、憲法学者たちが議論していないことこそ問題です。」
「常本氏のこの理論は、ただでさえ動きたがらない政府をまるで正当化してしまっている。」

植木哲也さんは、以下のように述べています。
「現状を肯定した上で、日本国憲法の枠内で処理しようというこの発想自体が、同化政策的です」

市川守弘さん(遺骨返還訴訟弁護団)は、こう述べます。
現在、この体内的主権(注1)を日本政府は認めていません。それこそ先住権の侵害そのものです。先住権を回復するとは、すなわちこの違法状態を是正することにほかなりません」

(注1)対内的主権とは、領域内の資源利用法を定め、メンバー間の紛争を解決し、ルール違反者を罰する、といった内部統治のための権利のこと。アイヌ民族は江戸期までは幕府に各コタンの体内的主権が認められていましたが、明治になって妨げられてしまう。

名ばかりの先住民族の状態を一刻も早く法に位置づける努力をするべきです。

この度の人権救済の申立と出前講座、それにまつわる報道で多くの反響がありました。この問題を広めたいとパンフレットを多数買って下さる方も増えましたし、中には70代の方より、ご自身の父親が児玉作左衛門と同時期に北大教授で、遺骨収集に対し批判していたのを覚えているとのことで、応援のお電話を頂いたりもしました。関心と支援の輪が広がっていっています。


sayoさんデザインの2015年カレンダーをご本人より送って頂きました。昨年も素晴らしかったですが、今年もいいです!事前にチラ見したことがあり、sayoさんに無理を言って「息子もファンなので二枚を!」とお願いしたら、送って下さいました。感謝感激。
早速、教会に飾りました。ちなみにこれはアイヌ文化振興・研究推進機構が出しているものです。
それと、以前にsayoさんから紹介して頂いたアイヌ語ボードゲーム「アイヌイタク アエスクプ」(アイヌ語で育つ)を、プレイするのを楽しみにしています(このイラストもsayoさんが書いたようです)。プレイ方法を知っておられる方がいたら一緒にやりたいです。
最近、吹雪くことが多いので、いろいろな市販のゲーム(UNOはもちろん、PIT、ワードバスケット、ドブルなど)を近所のこどもたちとやっています。このボードゲームも近々チャレンジしたいと考えています。

「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 報告その3

2015-02-05 01:52:28 | 日記
さる1月30日に行われた「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 の報告の続きです。

講演2は榎森 進さん(東北学院大学名誉教授)による「アイヌ民族の先住権を認めたくない政府」。
榎森さんは『アイヌ民族の歴史』(草風館2007年)や、もっとも最近では、『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田 晃,マーク・ウィンチェスター)にも、「歴史からみたアイヌ民族 小林よしのり氏の「アイヌ民族」否定論を批判する」を執筆されています。

講演では歴史の専門家として、1984年(5月27日)に北海道ウタリ協会が総会で決議した「アイヌ民族に関する法律(案)」を「アイヌ民族の歴史上画期的な内容を有した歴史的文書」と評価。
そして、その後のアイヌ民族をめぐる国内外の動向に触れ、その問題点を浮き彫りにしました。
大半をここでは略します(後日、「さまよえる遺骨たちブログ」にレジュメが掲載されるでしょうから確認下さい)。
わたしが紹介したい所は、過去ブログでも扱いましたが、2001年3月20日、国連の「人種差別の撤廃に関する委員会」が、日本政府がILO(国際労働機構)第169号条約を未だ批准していないことに対し、日本政府に最終勧告を提示したところ。
勧告の内容は以下の通り、
「締約国(日本)に対し先住民としてのアイヌの権利を更に促進するための措置を講ずることを勧告する。この点に関し、委員会は、特に土地に係わる権利の認知及び保護並びに土地の喪失に関する賠償及び賠償を呼びかけている先住民の権利に関する一般的種族に関する勧告23(第51会期)に締約国(日本)の注意を喚起する。また、締約国(日本)に対し、原住民及び種族民に関するILO第169号条約を批准すること、及びこれを指針として使用することを慫慂する」。

この勧告に対する日本政府の回答は以下の通り、
★「先住民」について。「『先住民』という言葉の定義については、国際的な定義がなく、上で述べたような意味において、アイヌが『先住民』であるかどうかについては、国際的な論議との関係において慎重に検討する必要があると考えている」。
★ILO第169号条約について。「本条約については、ILOが本来取り上げるべき労働者保護以外の事項が多く含まれており、また、我が国の法制度に整合しない規程が残されいるという問題もあるため、ILO総会での採択の票決において我が国政府は棄権したところであり、直ちに批准することには問題が多いと考えている」。

その後、ご存知の通り、2007年9月には国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を多数決で採択。賛成:143ヶ国(日本は「民族自決は国家からの分離・独立を含まない」「集団の権利は、一般に認められない」との保留を付けて賛成)。そして、2008年5月、国連人権委員会が日本政府に対し、この「国連宣言」の国内適用に向けて、アイヌ民族と対話するように勧告。同年6月6日、衆参両議院本会議で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」を全会一致で採択。日本政府はアイヌ民族をはじめて「先住民族」と認めるのですが、相変わらずILO第169号条約を批准していません。

榎森さんは、その後の流れも追いながら、2008年に設置した「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(以下「あり方懇」と略)と、2010年に設置された「民族共生の象徴となる空間」作業部会・「北海道外アイヌ生活実態調査」作業部会の二部会の各『報告書』の問題点を指摘。

まず、「あり方懇」の『報告書』の問題点。
「あり方懇」は、2007年(平成19)の「国連宣言」と翌2008年(平成20)の国連人権委員会の日本政府に対する勧告の内容を強く意識し、2008年(平成20)6月の両議院本会議での「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」を受けて、同年7月、官邸に設置されたものであった。したがって、「あり方懇」は、当然のことながら「国連宣言」と国連人権委員会の日本政府に対する勧告の内容及び「国会決議」の内容を真摯に受け止めた『報告書』を作成すべきであった。ところが、『報告書』の内容は、アイヌ民族の歴史を正確に記述していないだけでなく、「国連宣言」の各条文で謳っている先住民族の権利については、僅かにアイヌ文化の伝承活動との関わりで触れているに過ぎず、「国連宣言」の重要な部分を構成している土地・領域・資源に対する権利(第25条~32条。別紙資料参照のこと)をアイヌ民族に適用することを意識的に避けた内容になっているところに最大の欠陥が存在している。しかも、カナダ・オーストラリア・ニュージーランド等の政府(首相)が当該国の先住民族に対して過去の政策に関して公式に謝罪しているにも拘わらず、同『報告書』では、国のアイヌ民族に対する公式な謝罪を要求していない。

次に、「民族共生の象徴となる空間」作業部会(部会長:佐々木利和)と「北海道外アイヌの生活実態調査」作業部会(部会長:常本照樹)の『報告書』の大きな問題点。
先ず前者について言えば、歴史的経緯からして「国連宣言」に記されている先住民族の諸権利をアイヌ民族に適用する努力をした施策を提示しなければならないにも拘わらず、僅かにアイヌ民族の歴史や文化を理解するためのテーマパーク的空間を整備し、同空間内に国立のアイヌ文化博物館を新設すると共に、各大学に保管されているアイヌの人骨について、遺族等への返還の目途がたたないものは、この「象徴空間」に集約し、その慰霊を行うとし、しかも、「集約した人骨」は「アイヌの歴史を解明するための研究に寄与する」とさえ記していることである。→政府及び人類学者の意向が大きな影響を与えている。
また、後者について言えば、調査対象地域が東北地方から沖縄県までカバーしていることは評価されるが、1989年(平成元)12月の『東京在住ウタリ実態調査報告書』(東京都)によると、「在京アイヌ」のみで、514人(推定2,700人)を数えているにも拘わらず、青森県から沖縄県にいたる都府県に居住しているアイヌの人口が僅かに210人に過ぎないことである。調査方法に問題あり。



旭川に行く時に渡る石狩川。とても冷えた朝でした。

「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 報告その2

2015-02-04 08:02:06 | 日記

さる1月30日に行われた「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 の報告の続きです。順番で行くと講演2は榎森 進さんになりますが、裁判に関連する法的なことに関心がおありの方から問い合わせを頂いたので、講演3を先にいたします。

講演の3つ目はアイヌ遺骨返還訴訟弁護団の市川守弘さんによる「先住権・憲法から解きほぐす遺骨返還」。
これは、当日のレジュメもないので、聞いて来たかのような報告はできませんが、当日に資料として配られた研究論文(査読付投稿論文)『アイヌ人骨返還を巡るアイヌ先住権について』をざっくり紹介します。

北海道大学は「保管しているアイヌのご遺骨」を「祭祀承継者等」に「お渡しする」とし、その「祭祀承継者等」がだれかは裁判所に委ねると述べています。  

また、アイヌ政策推進会議の政策推進作業部会(以下、「作業部会」)は「アイヌ遺骨の返還・集約に係る基本的な考え方」(2013年6月)として次のようなまとめをしています。
1.(遺骨について)海外では、民族又は部族に返還する事例があり、アイヌ人骨もコタンまたはそれに対応する地域のアイヌ関係団体に遺骨を返還することが望ましい。
2.一方、現在、コタンやそれに変わる組織など、返還の受け皿となる組織が整備されていない。
3.このため、祭祀承継者たる個人への返還を基本とする。

政府はこの考え方に基づき人骨を「返還」するとし、返還対象とならないアイヌ人骨について、白老に計画中の「民族共生の象徴となる空間」に慰霊施設を設け、そこに収蔵する計画が進行している。

この「祭祀承継者」への返還という、もっともらしいいい方は事実上のアイヌ民族への返還拒否を意味していると市川さんは指摘。なぜならば、個体として特定される人骨のうち個人が特定されているものは全国で23体(北大では19体)しかないから。たとえ祭祀承継者へ返還されても23体のみ。残りの1612体は返還されないからだ。
また、政府の考え方へ疑問を投じる。まず、なぜ「諸外国では「民族又は部族」に返還するとされるのか、それが法的に裏付けされるのならアイヌ民族の場合も同様に捉えるべきだ、と。

論文はこのあとアメリカにおける先住権を過去の裁判判決例を交えて紹介。まとめるとアメリカの先住民族はトライブごとに自主決定権が認められている、と。その概念をもとにアイヌ民族の先住権を議論し、先住権を有すると評価できる団体、つまり主権主体は各コタンだ、としています。
「アイヌは慣習的に各コタン集団が特定の排他的支配的領域を持ち、土地を支配し、使用し、利用して来た。しかもその裏付けは各コタンが自らの法によって自立的に統治するという対内的主権であったことが明らかとなる。この主権を権原としサケ狩猟権や土地資源利用権などの土地占有、土地利用、利益の享受という先住権権限がアイヌには認められる。」

さらに、本論文の目的である当該コタンの支配する土地内に存在した当該コタンの墓地や埋葬された遺骨の管理権限もこの主権に裏打ちされた土地利用の一つとして先住権に含まれるかの検証がなされます。
まず、亡骸(遺骨)は遺族のものではなく、コタンのものであり、「祖先の祭り=粗霊祭り」はコタンの全構成員による「祀り」であった。そして、こう結論づけます。
「このような墓地及び遺骨に関する起立を持った管理行為は土地に対する利用権の一つとして先住権にふくまれなければならない。よって、遺骨返還請求権はこの管理権限の一つとして先住権に根拠づけることが出来る」

また、
「国や北大は遺骨を財産として相続対象とし、家制度を基本に祭祀継承者制度を適用しようとするけれど、それがアイヌの方規則と相容れないどころか、遺骨は明治初期のものもあるが、旧民法制定(明治31)以前に死亡した遺骨に対して死後の相続法を遡って適用するという考えになり、すでに破綻がある」、と。

国や北大が、コタンないしコタンに代わる団体がないということに対し、
「そもそも現在の事態は明治政府以降のアイヌの主権を認めない一方的侵略行為の結果なのであるから、アイヌの主権の回復こそ必要であり、主権主体であるコタンの回復は不可欠である。コタンが「存在していない」のであれば回復させるのが国の義務である」と述べています。

さて、この度の訴訟の原告のみなさんは、盗んだ遺骨をもとにあったコタンに戻せと訴えておられます。たとえば浦河杵臼の場合、過去に盗掘された場所にいつか取り返して遺骨を納めるのだと、以前に北海道ウタリ協会浦河支部が建てた供養塔があります。そこに納めたい、と。
過去ブログ参照  http://blog.goo.ne.jp/ororon63/e/6ef4b8a2b041f2184df42a172fb23ca0
他に返還請求している遺骨も、受け入れ場所は整っているのです。それでも返還しないという意味が謎です。

続けて、近日中に講演2をUPします。

月がきれいな夕べ、月につられてはじめてバンゴベに行きました。留萌の北東にある町でずっと気になっている地名です。写真はきれいではありませんが。


「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 報告

2015-02-02 15:50:06 | 日記
さる1月30日に行われた「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ」 in 東京 の報告を聞きましたのでUPします。わたしは別用があり、事務局で留守番でした。詳しくはブログ「さまよえる遺骨たち」で、近く、資料などもご覧頂けるでしょう。

講演会に先立って、各新聞でも報道された通り、日本弁護士会に人権救済の申立が行われました。当日は申立人のうち7名と弁護団4名が参加。その後、90分ほどの記者会見。NHK、朝日、道新、共同通信、毎日、東京各新聞社の10社ほどが来て、熱心な質疑が行われ、申立人も丁寧に応答していたとのこと。
続く、出前講座は盛会で主催者側も含め100名を越える参加だったとのこと。この日は朝から東京が大雪に見舞われ、事務局にも開催変更の有無の問い合わせが相次いだほどでしたが、それでも多くの方が関心を持って来られたとのこと。

講演の内容ですが、植木哲也さん(苫小牧駒澤大学国際文化学部教授)の「アイヌ民族の遺骨を欲しがる研究者」の当日配布した資料を見ながら一部を紹介します。

「遺骨を欲しがる研究者」とは露骨なテーマですが、植木さんはご自分の著書『学問の暴力 アイヌ墓地はなぜあばかれたか』にも記しているように、さかのぼること19世紀ヨーロッパで頭骨への関心(骨相学、比較解剖学、形質人類学)があったことから紹介。アイヌ民族関連では1865年に起きたイギリス人の函館領事館員によるアイヌ墓地からの盗掘事件(犯罪として処理)、そして、北海道帝国大学医学部教授の児玉作左衛門の件まで取り上げ、2014年1月までに全国12大学に個体として確認できるもの1636、内個人特定の可能性のあるもの23、個体として確認できないもの515箱という数を紹介。

次に、近年の閣議決定を含む日本政府の方針の紹介から、問題の象徴空間に遺骨等を集約する件に関して研究利用の可能性=「返還できる遺族がいないという状況になってきたときには、研究対象になり得る」(『第18回「政策推進作業部会」議事概要、2014年9月18日』を紹介。

どの時代も研究者は「アイヌ民族のため」の研究だと言う者ですが、ここで植木さんは最近の研究者の発言を紹介。
・「私が言っているように、アイヌ民族は北海道に在来の人たち、先住している、縄文時代、あるいはそれ以前にさかのぼる、〔…〕縄文時代からずーっと続いている人たちである、という、〔…〕……これはプライドになりませんかね?」(百々幸夫氏、2014年国際先住民の日記念事業「アイヌ人骨の返還・慰霊のあり方 先住民族の人権─責任と公益─」(公益社団法人北海道アイヌ協会主催、2014年8月9日 より)。
さらに、
・「(研究が)なくなったらね、アイヌが北海道の在来の人じゃなくなるんだ、っていう人が出てくるんですよ。 〔…〕それを守るために、〔…〕我々は研究を続けなければいけない」(同)。
http://hokudai-monjyo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-c835.html)

もう一人の学者の発言も引用、
・研究をしないと、「アイヌだけは「北海道の先住民族です。13世紀ごろに成立したんです」ということだけしか出てこない状態が生まれ〔...〕、私たちはもしかすると、未来に対する責任というのを放棄したことになるんじゃないかというふうに思います」(篠田謙一氏、2014年8月9日)。


ここで、植木さんは「先住民族=最初の民族」ではないことを指摘。
まず、先住民族とは、
・「先住の諸共同体、人々、諸民族とは、侵略及び植民地化以前に自身のテリトリーにおいて発達してきた社会との、歴史的な連続性を有し、〔...〕人々である。」(『先住民への差別問題に関する調査報告書』、1982年)
・「一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ以前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し...」(『アイヌ民族のあり方に関する有識者懇談会報告書』、2009年)
から定義されているように、「先住民族とは統治の時点での先住を意味すること」であり、「アイヌ民族が先住民族であることは、アイヌ民族の起源とは関係ない。民族の起源については、不明なことが多い。先住性と起源を結びつけることで、アイヌ民族の先住性に対する誤解がうみ出される危険が増す。」と。そして、「だから、研究が必要だ」というのは、不安を呼び覚ますやり方であり、「アイヌのためなのに反対される」は、暗に相手をおとしめる態度である、と。

さらに、返還請求は起源研究そのものを否定するものではない。ただし、研究はそれぞれの関係者(コタンなど)の了解を得、適切な手続きを踏まえるべきである。ところが、大学に保管されている遺骨の大半は、こうした手続きを踏まえていない。したがって、大半の遺骨(とくに返還先不明の遺骨)は研究に利用できない、と指摘。
そして、「遺骨返還に取り組まないことは、過去をそのまま放置することである。それは、現在の研究(大学、社会)が過去と同質であることを意味する。未来に向けて、そのような研究を続けてよいのか?未来に向けて、そのような研究を認めてよいのか?」と問いかけています。

植木さんの指摘を受けて、わたしも過去ブログにそのことを紹介しました(2014/12/31)。
他の講演も徐々にUPできたらと考えています。

久しぶりに冷え込みがひどかった晴れた朝の「ケアラシ」。
今日の留萌は大荒れです。