アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

「エンチュウ(樺太アイヌ)として生きる」

2017-08-23 20:08:54 | 日記

過去ブログに樺太アイヌの強制移住について書きました。

その際は、1875(明8)年の樺太千島交換条約により、開拓使(明治政府)が、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住させたことに焦点をあてて書きました。

日ロ戦争(1904~05)でサハリン南部が日本領になると、皆さんはサハリンに戻ります。

1945年の敗戦で、樺太、千島はソ連に占領され、樺太はソビエト連邦(現ロシア)の領土となりました。カラフトアイヌはまたもや強制移住をさせられ、その多くは「稚咲内」(ワカサクナイ=アイヌ語で「水の飲めない川」の意)という原野に村を作って苦しい生活を強いられました。

手元に楢木貴美子さんの「日本人として育てられ、エンチュウ(樺太アイヌ)として生きる」があります。その一部を紹介します。

「樺太引揚者は“約束の地”と言われたサロベツ原野の豊富町稚咲内(ワッカサチナイ=飲めないほど水の悪いところ)に移住しました。そこへ行けば“家も土地も与えられ、利尻富士が見える”との話でしたが、それは甘言で、居住地も砂浜地で、風の強い日は家の中に砂が入り、真っ白くなりました。飲み水ですが、井戸を掘りましたが飲める水ではありませんでしたので、毎日私たち子供2人が遠くまでモッコ担ぎのように天秤で汲みに行かねばならない厳しい生活でした」

山田秀三著『北海道の地名』によると、wakka-sak-nai 飲み水が・ない・川 で、「行ってみると川が流れているが、鉄錆色のやち水で、これでは飲めたものではない」と説明されています。そのようなところに騙すよ形で追いやり、苦しい生活を強いたのです。

10月には楢木貴美子さんをお招きしてお話を伺います。また、カナダ合同教会の先住民族の神学校サンデイ・ソト・スピリチュアル・センターの皆さんも来道し、来たる10月19日午後7時より北海道クリスチャンセンター大ホールにて講演と交流の時を持ちます。

サンデイ・ソト・スピリチュアル・センターについてもご紹介します。

英語を読める方はこちらのホームページをどうぞ→Sandy~Saulteaux.

1980年代にカナダ合同教会先住民族の神学校二つ、ドクター・ジェッシー・ソト・リゾース・センター、フランシス・サンデイ・神学センターが出来ました。その背景には先住民族のジェシー・ソトさんとフランシス・サンディさんの「安全」で、先住民族の文化と伝統を尊重する教育の場を求める夢と、カナダ合同教会のこれまでの歴史の反省と1986年の先住民族に対する謝罪があります。

2011年に財政的な事情によって二つの神学校が合併し、サンデイ・ソト・スピリチュアル・センターに変わりました。学生たちは自分の住む地域で働きながら年に4回2週間のラーニング・サークル(学びの輪)のためにセンターに来て、必ず「輪」になって学びます。教会で働くためのラーニング・サークルの他に先住民族の文化などについてのプログラムは数多く行われています(機関紙『ノヤ』52号参照)。

ここで学んでおられる皆さんが来道し、アイヌ民族やキリスト教会との交流をします。

年に2回発行(8月と12月)する、わたしたちの機関紙『ノヤ』も、今週中に発送できそうです。

夏も終わります。こどもたちとよく遊びました。


82箱のご遺骨が浦幌に再埋葬されました

2017-08-22 15:28:15 | 日記

すでに、各報道機関で報じられておりますが、さる8月19日に浦幌へアイヌのご遺骨が返還され、アイヌ民族の伝統儀式がとり行われました。

北海道放送HBC ニュース動画

十勝毎日新聞記事   北海道新聞の記事

 参加協力させて頂いた者として、個人的な報告をします。

8月19日(土)。午前7時半に小川隆吉さんをお乗せし、北海道大学医学部の駐車場に建つ「アイヌ納骨堂」に到着。浦幌アイヌ協会やコタンの会、そして北大開示文書研究会のメンバーが集まりだし、8時にご遺骨の確認をし、霊柩車に運びました。

今回は、前回ブログに書いたように、63人分と人数不明のご遺骨、あわせて82箱。一つひとつ丁寧に開けて中を確認しました。

82箱のうち、大箱31、中箱17、小箱34。

北大の『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』(2013 以下、『報告書』)のリストには、番号が付けられていましたが、今回は箱の大きさで並べられてリストが作られ、返還前日に弁護士事務所にファックスで届いたとのこと。頭の中で混乱したものの、当日のリスト順に確認しました。

『報告書』には「全身骨」と記載されているものは大箱におさめられていましたが、確認をしたメンバーの話では実際の中身は全身骨の一部だけで肋骨や背骨はなく、頭骨のないものもあったと。また、ある箱には大腿部の骨が10以上まとめて入れてあったということです。いかにずさんな管理をしていたか。83年前に突如、北大がやってきて5日間のうちに墓を暴いて遺骨を持ち去って行きました。「研究材料」として持ち去ったはいいものの「お役目」終了後には「モノ」扱いして発掘地域別に「分別」しダンボールに詰め込んで放置していたということなのでしょう。

小箱は成人の頭骨(あるいは骨の一部のみ)、そして小児の14箱。どういう経緯で小児のご遺骨が14体も持ち去られたのでしょう。確認をされた浦幌アイヌ協会のメンバーは辛かったと話されていました。また、一刻も早く故郷に持ち帰りたいと。

「浦幌不明」と記されているのが31箱あった中、大箱9、中箱17、小箱5。これらは、浦幌から掘り出されたものであることは間違いないものとして今回返還されたものですが、先に記したように、一箱に一人のご遺骨がおさめられているとは限らず、お一人分が数箱に分かれていたり、ひと箱に数人分のご遺骨がある可能性もあるので、ここでは「◯体」とは書けず、「箱」で数えます。

さらに「副葬品」の11箱を加えて93箱が、大型バス1台とマイクロバス2台に積み込まれました。北大側も、受け取るこちら側も何重にも確認しつつもたいへんスムーズに行われ、午前9時に浦幌へ向かいました(霊柩車を兼ねているバス)。わたしたちも急いで浦幌へ向かいました。

浦幌では浦幌町浜厚内生活館前にて、13時から祭主である差間正樹浦幌アイヌ協会会長によりカムイノミが執り行われました(一般参列および取材はお断り)。

わたし達は13時ほどに町営浦幌墓園に到着し、ご遺骨を迎える準備を整えました。ご遺骨が到着後、バスから運び出す際と埋葬前にリストにて確認し、埋葬位置を丁寧に記録しながら粛々と再埋葬を行いました。最後には7本のクワ(墓標)を立て、その日のすべての儀式が終わったのは16時。

翌日、浦幌町浜厚内生活館前にて神への祈りカムイノミと先祖に祈るイチャルパを10時から行いました。イチャルパからは一般参列もでき、マスコミの方達を含めて100名が集まりました。

テレビでも放映されていましたが、浦幌アイヌ協会には多くの若手がいて、よく働いておられました。長い準備期間も、自分たちの仕事が終わって夜遅くまでみんなで協力しあったそうです。副祭主の葛野次雄さんが儀式の説明の中で、若手に継承できたことと、彼らが頑張ったことを喜んでおられました。

わたし達も微力ながら協力させて頂けたことはよかったです。

写真:浦幌アイヌ協会より提供いただきました。


浦幌アイヌ協会に返還される遺骨

2017-08-18 09:18:49 | 日記

明日、十勝管内浦幌町に北海道大学の「アイヌ納骨堂」から返還される82箱におさめられているご遺骨が再埋葬されます。

82箱のうち、大箱が31、中箱は17、小箱34。

大半は「浦幌」と記され番号がつけられていますが、その他に「浦幌不明」と記されているのが31。「浦幌小児」が14あります。

さらに、「副葬品」の箱7.5*38*59cm が10箱  10*70*34cmが1箱。

北大が2013年に出した『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』(以下、『報告書』)には、1934(昭9)年10月27〜31日、同(帝国)大学医学部解剖学第二講座の児玉作左衛門教授らが町内愛牛(あいうし)地区から64体を持ち去ったと記されています。

そのため、浦幌アイヌ協会による返還請求訴訟では64体の返還を求めて来ました。

訴訟は今年3月22日に札幌地裁で和解となり、被告・北海道大学がこれらの遺骨を当協会に返還することになりました。その和解条項では12体が加わり、返還合計が76体となりました。

初回返還分として今回、63人分と人数不明の遺骨、合わせて82箱の返還を受け、再埋葬します。

『報告書』のアイヌ人骨一覧表の情報欄には「解剖学研究資料収集のため旧墓地を発掘」と記されています。出土時期は1934年10月27日から31日。今回の再埋葬は実に83年ぶりに帰って来るのです。

 

和解当日の原告記者会見で、差間正樹浦幌アイヌ協会会長は、こう述べています。

私たちは自分の土地から持って行かれた骨を自分の土地に戻したい。この思いでこの裁判に参加いたしました。祭祀承継者とか、そういった言葉は私たちの文化ではありません。私たちにはまったく馴染まない言葉です。私たちは先祖の骨は土の中に静かに眠っていただき、そのことによって、先祖は、神様の世界とわれわれの世界を行ったり来たりする。その静かな眠りを妨げるようなことはしてはならない。これが私たちの言い伝えです。北大の納骨堂の中に、まるで棚のようなところに、ずーっと放っておかれたこの遺骨を、これでやっと私たちの土地に返してもらう。私たちの土地に持って行って、安らかに眠っていただく。その道がこれでやっと開けました。 さまよえる遺骨blogより

 

この返還と慰霊の儀式の準備が浦幌アイヌ協会のみなさんによって進められて来ました。先住民族関連ニュース  また、多くの方たちの協力と祈りもありました。

当日、早朝から札幌に向かい、途中で小川隆吉さんをお乗せし、北大納骨堂で82箱のご遺骨と副葬品の11箱を霊柩車に乗せ、浦幌へ。

浦幌再埋葬の案内 さまよえる遺骨blog

かつて北大博物館内に展示されていた頭骨。模型だったとも聞いたことがありましたが。