アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

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『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』(上村英明著)5章

2015-03-14 13:20:04 | 日記
『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』(上村英明著 法律文化社)の5章を読みました。
序文にあるように、本書は2001年4月に出版した『先住民族の「近代史」―植民地主義を越えるために』の復刻版として出版。
この第5章「尖閣諸島」問題は2014年2月の新論文を掲載された部分です。
4章にあるように、「北海道」も「沖縄」も植民地政策が行われ、現在も未解決である中、1984年5月にアイヌ民族の最大組織である北海道ウタリ協会(現在、アイヌ協会)が総会で採決した「アイヌ民族に関する法律案」の「本法を制定する理由」に以下のように書いていることを紹介しています。
 北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも民族としての自主性を固持してきた。
 明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
 土地も森も海も奪われ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。

こうした植民地化に対するアイヌ民族の訴えは、「北方領土」問題にもつながっていることを、1991年4月ロシアのゴルバチョフ大統領の来日に対してアイヌ民族から出された陳述書にも記されている、と紹介。陳述書には北方領土に対して日露両政府とも「固有の領土論」を放棄し、先住民族であるアイヌ民族の権利を尊重しながら、ロシアの新島人、日本の旧島人の代表も含めて共存の道を探るよう提案が書かれていた。しかし、日本政府は無視。その理由はアイヌ民族は同化政策によって「消滅」したというフィクションが長年作り上げられ、メディアも取り上げず、国民の多くも関心を払わなかったからだ、と。さらに、2008年に国がアイヌ民族を日本の先住民族と認めても「植民地支配の事実は認定されておらず、アイヌ民族の権利はまったく認められていない」と。

『2「尖閣諸島」問題に潜む植民地主義:日本政府の論理の検証』では、日本政府の見解である1895年1月に近代国際法上の「無主地(terra nullius)」・「先占(occupation)」の法理により日本領土に編入された。1884年に古賀辰四郎が「探検」し、1885年9月から沖縄県当局がどの国家の管轄下にもないこと(いわゆる国際法上の「無主地」)であることを確認した後、1895年1月の閣議決定により「固有の領土」として日本に編入したとのこと。
しかし、①歴史的領土論を展開していない(1884年以前の言及はなし。むしろ中国の方がある)。②「日清戦争」の最中であり、侵略戦争によって収奪された土地への領土権は現在の国際法上では認められない。と、上村さんは批判。
また、「無主地(terra nullius)」・「先占(occupation)」の法理が21世紀のこの東アジアで用いられることの批判。そして、「発見者」の古賀は、そもそも商売の取引相手だった琉球漁民によって情報を得たのであり「探検」と呼べるものでもなく、発見者はむしろ琉球王国の漁民だった、と。さらに、歴史的にこの島は1880年に日本政府によって中国領とする提案・調印をしたという事実を日本政府は隠蔽していること、加えて、琉球王国の存在とその植民地化という歴史的事実を隠蔽している、と指摘。
そもそも「琉球併合」は侵略による植民地化であり、国際法上違法なのだ(4章も参照)、と。
(「4.中国政府の論理構造とその問題」は略します)

「5.琉球人と「ユクン・クバシマ」:新たな解決に向けて」では、尖閣諸島を沖縄のことばで「ユクン・クバシマ」と呼ばれて来た名前の由来を紹介。「クバ」はヤシ科に属する常緑高木(日本ではビロウ)で、葉で屋根を葺いたり、伝統的な小舟(サバニ)の帆、笠、蓑、ロープなどに、みきは家の柱や床材に、新芽は食材にと生活用品の重要な供給材だった。さらに、「クバ」は、神々が地上に降りる際に使う「神木」であり、「御嶽(ウタキ:聖拝所)」を囲む森となる場合が少なくない。「クバ」が茂げる島々は琉球人にとって聖なる土地であった可能性もある、とのこと。そして、「ユクン」は糸満漁民のこと。彼らは高級食材のフカヒレ、するめ、イリコ(海鼠)の乾物を取り、琉球は中国へ輸出していた。
また、「ユクン・クバシマ」は、荒天時の「風待ちの場所」で、まさに、歴史的かつ実効支配の主体、あるいは生活圏とした住民のアイデンティティは琉球人民・民族であると推測出来る、と。
ただし、台湾の伝統的な漁民タウ民族なども黒潮に乗って伝統的に利用していた可能性も否定出来ないことから、
「ひとつのアイディアは、琉球人民・民族と台湾先住(原住)民族の領土権を確認しながら、日本、中国、台湾の各国政府が従来の領土論をとり下げ、先住民族の権利を尊重し、地域の琉球人や台湾人などを主体として、共存・共生の空間あるいは平和の空間を想像することである。この論理によってこそ、日中(台)間の国家的緊張は正当かつ合理的にあるいは「成熟した知恵」を使って回避することができるのではないだろうか」
と結んでいます。

いい勉強になりました。できるだけ分かりやすく『ためしてガッテン』のように紹介したいと思いつつ、理解不足でよけい分からなくさせてかも知れません。わたしもより深めて行きます。


さて、イヴェント案内Blogもこのところ、再開させています。http://blog.goo.ne.jp/sakura-ive
最新イヴェントのご案内です。
「アイヌ民族否定論に抗する」刊行記念トーク
日時 3月29日(日)18:00~20:00
内容:札幌市議の「アイヌ民族、いまはもういない」発言。ネット上にあふれ、街頭にも飛び出したアイヌへのヘイトスピーチ。これらに多様な論者が「NO」を突きつける一冊の緊急刊行を記念して札幌ではじめてのトークイベントを開催します。この本が生まれた経緯と内容の紹介等を執筆者の皆さんが語るトークショーです。
出演:香山 リカ 氏(精神科医)、丹菊 逸治 氏(言語学・北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)、大野徹人 氏(ペウレ・ウタリの会会員)マーク・ウィンチェスター 氏(アイヌ近現代史研究・神田外国語大学日本研究所専任講師)
参加費 千円(簡単なドリンク付)  定員40名(申込必要)
会場 くすみ書房大谷地店 2F 〒004-0041 札幌市厚別区大谷地東3-3-20 キャポ大谷地
tel:011-890-0008 fax:011-890-0015  email:kusumi-b@bz03.plala.or.jp

わたしも申し込みましたが、日曜日であることと、翌日から二風谷にてバプテスト同盟のティーンズ研修を協力するので行けるか不安です。それと、このBlogでご紹介した榎森さんと上村さんの文しかまだ読んでいないので、頑張って準備をして行きたいと思います。

最近、読みたい本も読めていないで積読状態なのに、気になって買った漫画も机の上に平積みになっています。『王道の狗1、2』(安彦良和 中公文庫)、『ゴールデンカムイ1、2』(野田サトル 集英社)、『シュマリ上,下』(手塚治虫 三栄書房)。さらに、アイヌ民族関連ではないですが、息子が持って来てくれた『聲の形 全七巻』(大今良時 集英社)も。


斜里入口にある「オシンコシンの滝」 夜はライトアップがされているのですね。
アイヌ語で「そこにエゾマツの群生するところ」の意味。
過日の道東の旅の途中、中標津の友人牧師を見舞いに行った帰りに知りました。

『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』4章

2015-03-13 14:07:06 | 日記
『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』(上村英明著 法律文化社)の4章を読みました。
いつものように興味深く読んだ部分を紹介します。
4章では「日露交渉」について詳しく書かれています。当時のロシア政府の論理はヨーロッパを主体とする「国際法」(日本では万国公法)に基づいたものであったこと、それに対し、日本政府はこの論理の展開に極めて巧妙にアジア型の国際秩序の論理を組み込んでいった。その中核となる考え方は、日本に対し「朝貢関係」にあったアイヌ民族を日本の「(従)属民(vassal people)」とする論理。アイヌ民族が松前藩に「介抱」あるいは「撫育」されているゆえに「従属民」であり、スメレンクル人(現在のニブフ民族を指すアイヌ民族による呼称)は「満州江貢之皮類持渡り、人別之増減等申立」てるから中国に帰属する、また、カラフト島中北部に生活するウィルタ人、報告書にいうオロッコ人は、こうした行動をしないのでどこにも帰属していない、と。「従属民」が居住する範囲には、日本の「領土権」を主張。
日本政府が日露交渉で得た最大の利益は北海道本島の領有だった。交渉がカラフト島、千島列島のみを対象にしたため、北海道本島はその論理に従って、そのまま日本の固有の領土とされた。
「日露和親条約」締結後、日本政府はこの領土権主張の根拠に弱点を感じ、これを隠すためにアイヌ民族の民族性を抹殺する(エスノサイド)ための同化政策を強行。「蝦夷地」を直轄地とし、それまで使っていた呼称「夷人・異人」を、もともと日本の領土内で土地の人を表す「土人」に変え、日本語や日本の風俗の奨励、仏教布教などを推し進めた。
明治政府のもとに1869年7月「開拓使」が設置されると、入墨、耳輪、家屋焼送(亡くなった人の家を燃やす)などのアイヌ民族の伝統、習慣、文化を禁ずる強制同化政策が1871年より組織的、徹底的に行われるようになる。さらに地名呼称の日本的変更、「国郡制」の実施も行った。   なるほど納得がいきます。

ここで興味深いことが書かれていました。このように名目的なことをしても、日本政府の本音は「北海道」は「日本」の外という認識があった、と。その典型的な例は1873年に「徴兵令」が施行され、国防は「国民皆兵」の原則のもと、各地に軍隊が配置される中、「北海道」だけは「第7軍管区」という名称があたえられただけで、いわば、日本の防衛圏の「枠外」に置かれた、というのです(「屯田兵」を母体に第七師団が編成されたのは1888年)。

「日露国境交渉」が近代日本の北方における国境画定だとすれば、南方における国境画定は1872年の「琉球併合」の経緯を見ることによって理解できるとし、その前に1871年12月の「琉球宮古島民遭難事件」(牡丹社事件)に端を発し、1874年5月の「台湾出兵」を考察。超簡単に言うと、中国は琉球をわが国の「属国」であり、台湾原住民族は中国政府の支配がおよばない「化外」だと述べたところから、国際法的に「化外の地」には「先占」が可能との理論を実践する形で「台湾出兵」が実行された、と。
(久しぶりに難しい文章を読んだので正しく理解しているか不安・・・。)
しかし、中国政府はその後、台湾を「属地」と言い直し、「撫育」を通しての同化政策と支配をおよぼし始める。いずれにせよ、原住民族の権利は一切無視されて大国同士の領土権争いが展開された、ということです。

さて、「琉球処分」ですが、琉球国は1609年の薩摩藩の侵攻以来、薩摩藩の「附庸」となっているのだから、日本に固有の「領土権」があるという論理で1972年に琉球王国を廃して「琉球藩」を設置させた。
上村さんは薩摩藩の「附傭」=従属国の検証をして、琉球王国は「外交政策を駆使して、中国にも日本にも帰属しない固有の国家とし領土を維持して来たとみなすことができる」と。そして、事実、琉球は闘ったと、その内容を書き連ねます(ここは省略)。
しかし、1879年3月27日、琉球処分(罰)案を持った処分官と武装啓作間160余人、そして、熊本鎮台兵400人他が首里城に押し入り、同意を強制させた。
「ここに、日本政府に対する大不敬に罰を与える「処分官」によって、「琉球藩」は廃止され、「沖縄県」が設置されたが、廃止されたものは「琉球藩」ではなく、本章で検討してきたように、「琉球王国」であったことは明らかである。そして、この一連の事件は、「韓国併合」と同じレベルで「琉球併合」と呼ぶことにする」と、上村さん。

最語に、「5 日本の植民地の原型としての「北海道」と「沖縄」 」の章にて、日本政府は、幕末以来今日まで、「北海道」と「沖縄」を「植民地」と認めたことはないが、アイヌ民族や琉球・沖縄民族の視点に立てば明らかだ、と共通点を羅列しつつ述べます。
それは、中華帝国をまねたアジア的な支配―従属体制をヨーロッパ的な「実行支配」と言い張って、主権・領土権を確保する方法。しかし、「従属国(民)」のほうには「日本人」としての意識はなく、実効支配は行われていなかった。そのため、実際におこなわれた同化政策や支配は、実質的に「植民地政策」であった。そして、一番おさえたいこととして、先住民族の権利の視点の欠如と、そのために「北海道」「沖縄」を植民地問題のスコープからはずし、いまだに「植民地政策」や「同化政策」が続行中であるという事実に向き合うことも忘れ去られている、と。

これらの動きで光となるのが韓国の動きだと上村さんは希望を与えてくれています。1910年の「韓国併合」が国際法的視点から無効であったと論証し、日韓関係に新しい歴史解釈を行う動きがある。同じく「アイヌモシリ併合」と「琉球併合」の歴史を再解釈し、その中からアイヌ民族、琉球民族の本来の権利回復への道を模索することが不可欠の作業だと。
(5章は次回に!)

今週号の『週刊金曜日』に、この本が平田剛士さん(フリーランス記者)によって紹介されましたね。

知床から見る流氷

過日、道東に出かけ、北方民族博物館、網走市立郷土博物館、モヨロ貝塚館、ところ遺跡の館を見学してきました。夜は酋長の家で宿泊し、オーロラファンタジーを観ました。1958年2月に知床の空に突如オーロラが出現したそうです。そのことを再現しようと光の演出がとてもよかったです。光を映すために漁師さん達が藁を燃やして煙を出してくれます。ご苦労さまです。
旅の途中に網走湖でワカサギを52匹釣って天ぷらにして食べたり、サロマ湖近くの店で牡蛎を美味しく頂きました。北方民族博物館では体験コーナーで知恵の輪に苦労していると職員の方が分かりやすく教えて下さいました。ところ遺跡の森では同行した息子の手に野鳥がとまり、そのフレンドリーさに驚きました。網走には流氷はきていませんでしたが、知床で見られてよかったです。