アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

「アイヌ史資料集」人権侵害裁判 上告棄却判決文

2007-04-25 08:32:18 | インポート
このところ、アイヌ奨学金の事務で忙しく、さらに教会総会や外壁改修やらでUPできませんでした。

まだまだ忙しいので本も読めずにいますが、
4月17日にUPした「アイヌ史資料集」人権侵害裁判の上告棄却判決文が手に入ったのでお伝えします。
と、言っても案の定、主文は三行。
本件上告を棄却する、上告審として受理しない、裁判費用等は申立人らの負担とする、でした。

理由は? というと、これは専門家の説明なくして理解できません(残念~)。
わたしたちの法律では「民訴法」という法律によって上告することが許されることが
決められているようですが、それによると、先の裁判で憲法違反があった場合に上告できるのですが、
今回の上告理由には

「違憲をいうが、その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するもので」(上告判決理由より)
あるので、上告事由には該当しない、とのことです。

?? どこが事実誤認なのか、「法令違反を主張する」ことが「単なる」こととして語られているけれど
法令違反は上告事由に当たらないということも分からない・・・(これは専門家が読んだら笑われるかも・・・)。

近いうちに弁護士さんに説明を受けようと思います。




明治初期における開拓使のアイヌ教育

2007-04-19 11:10:54 | インポート
『日新真事誌』
          (1872年6月28日、和暦・明治5年5月23日)
開拓使にては蝦夷の人民を開化せんがため蝦夷の(サッポロ)
其他の土人(アイノ)なるもの男女二十七人を米国郵船(アー
リエル)に乗せ一作二十一日横浜へ到着せり昨日鉄道の汽車へ
乗せて東京へ送れりこの土人は人種異にして其行装も奇怪なれ
ば見物人群集せり素より頑ろう至愚の野蛮人なれば日本内部の
都府を目撃させ文明の景況を観せ且つ諸々の職業を教導して開
化を要せんがためなりと
       (『日本初期新聞全集』第三十八巻、227ページ)


3月16日にも書きましたが、東京アイヌ史研究会の皆さんが「《東京・イチャルパ》への道」  を発行され、当センターに送ってくださいました。
多くの資料を調べ、紹介もしてくださっていますが、その一部が上に書いたものです。
この「日新真事誌」とは、近代新聞の初期のもので、英国人ジョン・レッディ・ブラックが主宰して1872年3月16日創刊したもの。英国人であったために日本国内の規制がかからず、批判なども記事にしていたとのことですが、この文面はいただけませんね。


北海道「開拓」のために明治政府は開拓使を設置するのですが、初めから北海道に置かれたのではなく、創設は1869年(明2)、東京だったのです。その翌年に函館に移り、翌々年5月に札幌に本庁が設けられます(道路網が未整備だったためとか)。
東京は現在の港区の芝公園になっているところ。当時、浄土宗増上寺の敷地です。
開拓使はここに「北海道開拓の人材を養成するため」開拓使仮学校を、そして開拓従事者の配偶者を養成するために開拓使仮学校付属女学校を開設します。これが北海道大学の前身となります。ここまでは芝公園にある碑文「開拓使仮学校跡」には書いていますね。
しかし、同じくここに、「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」が併設されたことは碑文にはありません。そしてどのような意図で設けられ、どのような教育がなされたかも。
女学校については「結婚することを誓わせた」ことも書いているのですが。
(ちなみに「仮」が付くのは、いづれは札幌に移転させることになっていたからだそうです)


開拓使仮学校跡(碑文)

北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するため
増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設され
たもので、札幌に移転し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれ
た。
生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学
初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科
に進ませた。
明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と
結婚することを誓わせた。
仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札
幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。


「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」の他に、現在の渋谷区には開拓使の実験農場のひとつ開拓使第三官園があって、西洋式の農業が指導されていましたが、そこにもアイヌ民族を「強制的に入学、入園させた」と本書は記します。
アイヌ民族にとってこの「北海道土人教育所」への学びは自らが希望をもって入ったのではなく、強制的な連行と皇民化教育だったと指摘するのです。
連行されたアイヌの家族の崩壊、そして本人たちの中にも環境に順応できず病気になったり、死亡した犠牲者が出ています。この連行から「逃亡」したものもいます。

Rブラックがアイヌ民族を「人種異にして其行装も奇怪」「頑ろう至愚の野蛮人」と書いているように、アイヌが「異質」であるから「同質」にしてやろうという歪んだ善意と上からの強制がありありと見えてきます。
もう少し真面目にこの本を読み進めていきたいと思います。


北海道から本州に向う船の中から(2007年4月8日撮影)
(連行されたアイヌの人たちはどんな思いでこの光景を眺めていたのでしょう)


「アイヌ資料集」人権侵害裁判上告 棄却に抗議!

2007-04-17 09:54:58 | インポート
今朝の北海道新聞に「『資料集』人権侵害訴訟 アイヌ民族の上告棄却」の記事がありました。 北海道新聞(04/17 00:20)http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/20912.html
大変、ショックを受けたと共に、司法への強い怒りを覚えます。

もし、わたしたちの家族の実名と住所、そして病名(すなわちカルテ)が、知らぬうちに本にされて一般に出版されたとしたらどうでしょう。しかも、差別と偏見のまなざしで冷たく見られ、劣った人々だという文言がちりばめられ、差別を助長する誤った病名が書かれていたとしたら・・・。

この裁判は、1980年2月に「文化人類学者」を名乗る人が「アイヌ史資料集」を復刻・出版したことに端を発します。その第三巻(医療・衛生編)の中には、当時の和人の偏見に満ちたアイヌ民族への記述がいたるところに存在し、文章全体が著しいアイヌ民族差別に満ちた内容となっています。
しかも、分冊二「余市復命書」と、分冊五「あいぬ医事談」にはあわせて500人以上にもおよぶアイヌ民族の実名、地名、年齢、性別、職業、病名、治療経緯が一覧表記されていて、プライバシー侵害はなはだしく、さらに加えて、アイヌ民族に対する差別を助長する、誤った「病名」等が記されています。
これらの図書をこの「文化人類学者」は、編者として当然、復刻時点でなすべき評価、差別的表現に関する注記や注釈が付されるべきであるにもかかわらず、それらを怠り、そのまま復刻出版しているのです。
これに対し、北川しま子さんや川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんら数名のアイヌ民族がこの学者を訴えたのです。

2002年6月の第1審判決は棄却。判決文には

「本件各図書の編集、出版、発行によって、作成当時のみならず現在に至るまでのアイヌ民族全体に対する差別表現がされたと見る余地があるとしても、その対象は、原告ら個人ではなく、アイヌ民族全体である」
とあり(よく分からない内容です)、人格権侵害は、「資料集」に実名が書かれた人達、ないしは、差別表現をされたという点で、「アイヌ民族全体」であることは認めているようですが、この裁判を起こした原告らにはない、という判断のようです。
しかし、原告の北川さんは、祖父母の実名も病名もはっきり書かれているわけです。

06年3月の2審も控訴を棄却。判決理由には

「書物等により、特定の個人の過去の病歴、現在の病名等を明らかにすることは、当該特定の個人との関係でプライバシー侵害になることは言うまでもない」とし、復刻出版に対しても当該人物ないしその遺族の了承なり、それが不可能の場合には伏せ字にするなどの配慮が必要であり、そのような配慮をしていれば本件の問題が生じなかったと被控訴人への配慮の欠けた面を指摘する。しかし、これらは差別をする目的ではなく、研究目的として出版されたものであり、貴重な歴史資料であるので、実名・病名をそのままにしたことは「強く責めることには躊躇を覚える」

とありました。はて、差別する目的ではないからと単純に判断していいことなの?研究目的ということでプライバシー侵害が許されるの? 全く納得がいかない!!
判決文は、さらに

「本件図書に存在する差別的記述が現在も存するアイヌ民族に対する差別を助長するものであるとまでは認められない」
と、現在のアイヌ民族への差別と切り離し、ほぼ一審判決を踏襲。祖父母の実名と病名が載ったと訴えた原告のおひとりの件についても、
「社会通念上許される限度を越えておらず、名誉感情を侵害したとは言えない」
と、却下。
若干、「プライバシー侵害という見かたが出来よう」などとは述べてはいますが、資料の重要性などを理由に挙げ、控訴人らの心の痛みは「間接的なもの」とされたのです。現に今も続く差別の問題、アイヌ民族が誇りを持って生きることの困難な現状、さらにこれらの本によって侵害を受けているという訴えはいとも簡単に切り捨てられたのです。

また、これらの資料の復刻出版によって相当の収益があったはずとの着眼点から、この出版は単なる営業目的だったのではないかとの控訴人側弁護団の主張に関しては一切、判断されませんでした。
北川さんたちはこの不当判決に早速、上告し、わたしたちも協力していったのですが・・・・。
早く判決文を読みたいです(と、言っても「共有財産」裁判の最高裁判決も数行でしたから読んでも意味はないかも・・・・)。


古代アイヌ竪穴住居跡地盛衰史

2007-04-16 08:42:42 | インポート
北海道大学の敷地内にある「遺跡保存庭園」では
毎年10月に伊藤ヌプリエカシと小川隆吉エカシらがイチャルパ(慰霊祭)を行っているとのことです。
今年こそは参列したいと願っています(確か、昨年は日曜日だったので無理だったかと)。

かつて、この遺跡保存庭園に、伊藤ヌプリエカシが大きく「古代アイヌ竪穴住居跡地盛衰史」という看板を立てました。
しかし、それもいたずらでエアーガンの標的となり、ぼろぼろにされたとのこと。
その際も、北大側はなんの対応もしなかったといわれます(小川さん談)。


古代アイヌ竪穴住居跡地盛哀史(一部)
此地に訪れられる市民の皆さん。千年余の樹々がそびえて、さながら太古の名残を思わせるこの遺跡庭園の竪穴住居跡地は、誰あろう四千年前以降の古代アイヌの遺跡であり、北海道の先住民であるます。
私たちアイヌ民族の文化の源流を成した、聖なる痕跡地であります。多くの方々に知られざる、この古代アイヌ遺跡が北大構内に突如降って沸いたのではなく、日本史以前から原始の星霜を重ねたこのたたずまいのなかにデーンとあったのであります。(以下略)



エアーガンの標的にされてぼろぼろになった看板(写真提供:小川さん)

北大遺跡保存庭園の看板

2007-04-13 09:16:50 | インポート
北大遺跡「保存」庭園のことは、以前にも書いたことがあったかな?と確認したら、
9月8日に書いていました~。最近、物忘れが激しく自分でも心配しています。
もう少しだけ保存庭園前に掲げられている解説看板に書かれていることについて書きます。

実はこの看板説明文には昭和27年、55年に調査されたとあり、
この遺跡は「奈良時代末から平安時代にかけてのもの」と記されています。
そして、そこにはアイヌという言葉はひと言も書かれていないのです。

北海道にお住まいの皆さんはご存知(学ばれたと思います)の通り、
北海道の時代区分は本州の飛鳥・奈良・平安時代はありませんね。
その代わりに擦文文化(オホーツクにはオホーツク文化)があり、
それぞれの民族が交流していたことを学びます。

この看板はその時代区分をあえて用いていないようです。なぜでしょう。

9月のブログに載せた写真はその年の台風で壊れたままのものです。
あの看板はどうなったのか心配しています。そのまま放置されているのでしょうか。
いっそのこと、訂正と共に新たに作り直したらいいですね。
保存庭園の意義も含めて大切にしたいものです。

下の写真は以前に遺跡跡毎に立てられていたものだそうです。
今ではみないたずらで抜かれひとつも残っていないとのこと。



写真提供は小川隆吉さんより

北大アイヌ・先住民研究センター

2007-04-12 10:06:46 | インポート
しばらく山形に行っていましたので久しぶりのUPです。

北大アイヌ・先住民研究センター(センター長・常本照樹法学研究科教授)が4月に開設されたことは以前に報告しました。
開設記念式が14日午後2時から、北大クラーク会館講堂(札幌市北区北8西8)で催されます。
国連人権小委員会委員を務める横田洋三・中央大法科大学院教授が講演するほか、アイヌ民族博物館(胆振管内白老町)の方々の古式舞踊も披露されるとのこと。
入場も無料!

是非とも行きたいところですが、教会の仕事でどうしてもいけそうにありません。とっても残念です。講演のテープをとって下さることを仲間にお願いしているところです。

開設の話が北海道新聞に出た頃に常本照樹センター長の講演がありました。お話の中で今回の「研究センター」はアイヌ民族の権利を法的に探っていくことを目的としている旨のことを言われていました(詳しくは補足をしつつ2~3月のブログに紹介しました)。法学教授がセンター長をされることを納得し、大いに期待しているところです。

ところでみなさん
北大敷地内の東側に「遺跡保存庭園」という茂みがあるのをご存知?
昨年開催した札幌アイヌ民族フィールドワーク(小川隆吉さんガイド)や北大アイヌ納骨堂イチャルパ(慰霊祭)後に行なった構内エコツアー(小野有伍さんガイド)の際に回り、説明を受けました。その後もいろいろと調べて資料も得たので、また次回にUPします。



「平取町内に伝わる薬用植物」

2007-04-05 18:57:09 | インポート
二風谷の貝澤美和子さん作の“平取町内に伝わる薬用植物”は力作ですね~
先だって書いた「セコロ フチ ハウエ アン(・・とおばあさんが言いました)」という囲い記事も読んでいて楽しいですし、
勉強になります。伝承として伝え続けたいですね。そして是非とも試したいですね~。

美和子さんのいきいきとした食べ物の話はわたしたちも盛り上がりました。
地域によって食べ方も違ったりするのですね。

プシネプ・ウセウ(ホウの木の実のお茶)は、旭川では種の入っている笠ごと一旦かるく火にあぶって焦げめを入れてから煮だすのですが、平取地方では赤い種だけを取り出して煮だすのだそうです。とてもマイルドでほんのり甘いそうです。

いなきびをたっぷり入れるシト(団子)にしても、プシネプ・ウセウの作り方にしても、材料が豊富だから多めに使うのでしょうか。
自然と共に生きたアイヌの培ってきた知恵と経験、そして伝え続けたことによって食生活も健康的で豊かだったのですね。
しかし、美和子さんの聞き取りでは、野草も和人によって取られ尽くされた時代もあったとのこと。アイヌから食べられるものを聞き、食べつくされたそうです。

二風谷の帰りに、たまたま山で実のまだ付いているホウの木を見つけました。
取ろうと思ってしばらく木を登ってはみたものの高すぎてダメでした~残念。
下の写真の真ん中に黒く見えるのが笠
 

4月から開設した北大アイヌ・先住民研究センターも活動を始めたようですね(2月20日以降のブログ参照)。今朝の北海道新聞に記事がでていました。

北海道新聞 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/culture/18707.html?_nva=9

わたしの資料ブログにもUPしましたので見てください
http://u-ko-usaraye.cocolog-nifty.com/


浦河~二風谷訪問

2007-04-05 08:58:38 | インポート
4月にはいりましたね。
新年度も皆さんのお働きが祝されますように。
センター活動のご協力もよろしくお願いいたします。

2日、3日と浦河にアイヌ奨学金事務関連で出かけてきました。
ここ数年、留萌からひとりで日帰りしていたのですが、今回はアイヌ民族委員の斎藤成二さん(札幌富丘教会牧師)、センタースタッフの中田美歌さん(滝川二の坂牧師)の3人で一泊し、帰りに静内のシャクシャイン像も見学してきました。像の隣にアイヌ民族資料館も建っていましたが冬期休館で入れず残念。

その後、二風谷の貝澤耕一さん、美和子さんをお訪ねしました。
美和子さんには昨年お邪魔した際に、マンローさんのことや(11月5日ブログ記事参照)、二風谷アイヌ語地名の解説をパワーポイントで見せて頂いたので、今年は是非とも二風谷のアイヌ民族フィールドワークを行いたいとお願いして来ました。

昨年に美和子さんが制作された“平取町内に伝わる薬用植物”をセンターにと頂きました。
21種類の薬になる植物の効用から食べ方など、分かりやすく解説され、写真をふんだんに使った力作です。エカシやフチ達からも聞き取りを行い、「セコロ フチ ハウエ アン(・・とおばあさんが言いました)」という囲い記事も載せています。
全部、一度試して食べたんだよと、とても楽しく、制作にまつわるお話をたくさん伺うことができました。
気がつくとお昼近くにもなっていたため、いいものを食べさせてあげると、
なんと、特製のユク・シト(鹿肉入り団子)をご馳走になりました~

二風谷のシトは米粉とイナキビ粉を半々で使うのでうす黄色ですが、さらに鹿肉を美味しく調理して混ぜいれた、とっても美味しいものでした。食の研究グループで試作したようです。
二風谷フィールドワークではアイヌ語地名を解説していただきながら歩き、美味しいアイヌ創作料理も一緒に作って食べようと話し合いました。10月末から11月に開催予定でいますので、詳しく分かり次第、お知らせします。

お願いにあがったのに、たらふくご馳走になり、また多くのことを教えて頂きました~
いつも暖かく迎え入れてくださり感謝です。


帰りには“マンロークッキー”をお土産にいただきました。これまた貝澤家に代々伝わる歴史も味も深みのある美味しいクッキーでした。ありがとうございました。




マンロークッキーの説明書