アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

強制連行の末

2008-07-27 19:10:52 | インポート
昨日書いた「東京・イチャルパ」の件で、昨夜、違う資料を見つけて斜め読みしました。

1872年の「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」の研究ものです。
北海道大学教育学部の論文で、廣瀬 健一郎著、「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」(北海道大學教育學部紀要= THE ANNUAL REPORTS ON EDUCATIONAL SCIENCE, 72: 89-119)です。

勉強になりました。
今回、「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」跡を探しに行った者として、気になったのですが、「《東京・イチャルパ》への道」に掲載されていた増上寺周辺地図と比べたら、ほぼ同じ資料を用いながら施設の位置が違うのです。今回、跡地であろう場所に立ちながら、この場所あたりかと想いを深めたその処が違う可能性があります(が、地形そのものが変わっていることもありますね)。
確認すると論文も「《東京・イチャルパ》への道」の第二部の著者も同じ方ですから、後から出た本のほうが正しいということでしょうか(二説あるのか)。

それはそうと、「強制連行」されたアイヌ民族は同化政策として学校での学問や農業指導だけではなく、寄宿舎においても「土人取締役」なる官吏によって「監督指導」されていたことが記されていました。日常生活全般に渡って監視の目が光っていたのですね。
オーストラリヤやカナダ政府がアボリジニやカナダ先住民族の親と子を離して、隔離政策したことを先日、謝罪しましたが、明治政府も同じことをしていたのです。アボリジニの政策に関しては映画「裸足の1500マイル」にて扱われています。


しかし、場当たり的な試行錯誤を繰り返しつつ、死者を5名(ひとりは流産)出し、2年で「失敗」に終わります。
開拓使はアイヌを選ぶ際に和人と接触が多かった者たちを選んでいたようです。生徒一覧を見ると、確かに乙名、脇乙名、小使、その家族などがほとんどです。開拓使は彼(彼女)らを教化することで出身コタンの要となり、コタン全体を教化させようとも考えていたようです。しかし、そのことも「失敗」に終わったとのこと。

今回の東京イチャルパのチラシに掲載されている男子生徒・女子生徒の写真の中に、亡くなった4名が写っているのでしょうか。その後の彼(彼女)らはどうなったのでしょう。
若干の資料による調査がわかるのみです。

樺太アイヌを対雁へ、千島アイヌを占守島から色丹島へ強制連行した歴史、道内においても多くの強制移住(連行)がありました。
結果、急激な環境の変化や病気蔓延のため、樺太アイヌの841人中330人、千島アイヌ97名の内44名が故郷を想いつつ命を落としました(樺太アイヌの苦難に関しては当ブログ2007年6月18日参照)
樺太アイヌの強制連行に関して、先日、新たな資料を目にしました。堅田精司という方の「対雁アイヌ民族の意思」という研究報告です。
連行後の生活用具の貸与者を調べると、マキリやキセルという大切なものを持ち出していないとのこと。そこから分かることは樺太アイヌは意思を無視され、相当、急な連行が行なわれたとのこと(刀狩が行なわれたかもしれないとの推測にも言及されていました)。

歴史は益々深められ、真実が示されることを願います。


カナダ ハーパー首相のイヌイットなどの先住民族への謝罪ニュース動画
(2008年6月11日謝罪) 
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/gendaisekai/2008/06/post_848c.html

オーストラリア ラッド首相のアボリジニへの謝罪ニュース動画
(2008年2月13日謝罪)
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/gendaisekai/2008/02/aborigine_6722.html




旭川に流れる石狩川