アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

アイヌ奨学金キリスト教協力会募金趣意書

2006-11-30 09:38:44 | インポート

このところ外に出ることなく、アイヌ奨学金キリスト教協力会の募金趣意書や、

センター通信“ノヤ”全国発送のための事務作業に没頭しています。<o:p></o:p>

旭川にも行きたいのですが、連日、吹雪いてもいますので少し我慢しています。<o:p></o:p>

そのため、記事のUPも少なく、残念です。<o:p></o:p>

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今週は奨学金の募金趣意書を発送する作業を毎日、教会の“虹”作業所のメンバーにお世話になりつつ行っています。

人数がそろうと仕事量がはかどるのがおもしろいです。一人増えるたびにひとり以上のスピードが出るのです ! 

 たいへん、一生懸命にやって頂いています(感謝)。<o:p></o:p>

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今年の募金趣意書

 

全国の諸教会・伝道所に今週中に発送を行います。

札幌地区地名 アイヌ語ポスター

2006-11-23 04:37:36 | インポート

この数日、クリスマスを控え、アイヌ奨学金募金趣意書を全国に発送するための下準備や、今日、開催される札幌地区の集会に備えて、センターアピールをする準備などで追われていました。<o:p></o:p>

昨日はセンターリーフレットと札幌地区内の諸教会の建つ地名のアイヌ語説明ポスターを印刷し、千部を三つ折りにして封筒に入れました。些細な作業ですが二日かかりながら、地道に祈りをこめて今日の集会に間に合わせました。<o:p></o:p>

以前にもUPしましたが、今回は札幌地区内の教会・伝道所・センターの写真と、それぞれのアイヌ語地名をA2版のポスターにしました。<o:p></o:p>

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写真の部<o:p></o:p>

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昨年に、山田秀三の「北海道の地名」を参照にしつつ、各教会ごとにアイヌ語地名説明をつけたポスターを作製して送らせて頂いたのですが、好評?でしたので今年は地区ごとにまとめ、近隣の諸教会の地名を知って頂こうと考えました。<o:p></o:p>

三つ紹介します。<o:p></o:p>

茨戸<o:p></o:p>

 ばらと。発寒川下流部(札幌北部)は、湿原が多く、昔は川筋の至るところが沼だったことから、「パラ・ト(広い・沼)」という名がつけられた。(札幌北部教会)<o:p></o:p>

 

新発寒 <o:p></o:p>

発寒:「ハッチャム(桜烏)」の意か。かつて、桜烏が多くいた。ことからつけられたのか。「ハッシャム(葡萄の傍)」、「ハシ・シャム(灌木の傍)」の意もあるようである。<o:p></o:p>

 

厚別<o:p></o:p>

厚別川は(hash-ush-pet 柴木・群生する・川)ハシュペッ、あるいは略してハ・ペッ(hash-pet 雑樹・川)と呼ばれた。このhを落とした形で呼ぶ場合が多かった。それが東北弁のなまりでアツベツとなり、漢字が当てられたと推測する。(厚別教会)

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ほとんどの地名がアイヌ語です。地名からアイヌ民族の歴史と文化を丁寧に学ぶこともしたいです。

札幌地区でアイヌ語ではない地名もありました。<o:p></o:p>

 

麻生<o:p></o:p>

 帝国製麻株式会社琴似製線工場の跡地であり、1959年からつけられた町名ゆえ、麻生のアイヌ語はない。(麻生教会)<o:p></o:p>

 ちなみに「札幌」は、昔はsatporo(さとほろ)とも呼ばれた。サッ・ポロ・ベツ(乾いた大きい川)の意。豊平川が峡谷を出て札幌扇状地(今の市街地)で急に乱流し、乾期には乾いた砂利河原ができる姿からつけられたようである。<o:p></o:p>

 

北広島<o:p></o:p>

輪厚。かつては「うっつ」と呼ばれていた。「ウッ・ナイ(肋・川)」の意。沼や他の川が肋骨のような形で繋がっている姿をこうよんだようである。「ウッ」という呼び名が、「ワッ」という呼び名に変形していったらしい。(北広島教会)<o:p></o:p>


N・G・マンロー

2006-11-15 11:45:30 | インポート

月曜日(13日)に、アイヌ奨学金キリスト教協力会の委員会が行われ、翌日、二風谷のNG・マンローのお墓を訪ねました。<o:p></o:p>

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右の墓碑は1986年に「マンロー先生慰霊の会」(代表:貝沢 正)によって作成

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スコットランド人医師であったニール・ゴードン・マンローは1930年に遺跡調査で<st1:MSNCTYST Address="平取町" AddressList="01:平取町;" w:st="on">平取町</st1:MSNCTYST>二風谷のアイヌコタンを訪ねます。そこでアイヌ民族の貧窮状況を目の当たりにして、放っておくことができず、彼は研究よりも治療を優先し、そのままコタンに住みついて治療に専念。彼の活躍により結核や難産の死亡者が目に見えて減少したそうです。<o:p></o:p>

日本が戦争に入り、スパイ扱いされて官憲が付き、生活は苦しくなるばかりであっても彼は無料診療だけでなく、貧しい人にはパンや小麦粉・卵や衣類まで渡していたそうです。 <o:p></o:p>

さらに、コタンの生活を向上させるために、マンローは各地から果樹などをいろいろと取り寄せて、それらを自邸の畑で実験し、コタンの人たちに夢と希望を与えていったようです。

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アイヌ民族と共に暮らし、病を癒した彼のことをもうしばらく調べてみたいと思います。<o:p></o:p>

まずは、資料集めからしないと・・・。<o:p></o:p>


知里幸恵さん文学碑

2006-11-12 15:08:17 | インポート

今週は明日にアイヌ奨学金キリスト教協力会の委員会が札幌であり、翌日、マンローの調べもので二風谷に行かれる方のお供をします。水曜日以降にその報告をいたしますので、今日は、以前にわたしたちのセンター機関紙「ノヤ」に書いたことを少し載せます。前回、カムイコタンの写真のことを以前にも載せていたのに忘れていて同じ内容のことをUPしてしまいました。こんなうっかりは注意しますね。<o:p></o:p>

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<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="01:北海道旭川市;" Address="旭川市">旭川市</st1:MSNCTYST>北門中学校(<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="35:錦町;" Address="錦町">錦町</st1:MSNCTYST>15)の庭の一角に、いくつかの御影石が配置され、重なりあわさって知里幸恵さんの文学碑が立てられています。北門中学は「旧土人学校」があった場所で、幸恵さんはこの学校に通っていました(ちなみに真志保さんの記念碑は登別の小学校校内)<o:p></o:p>

Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan.<o:p></o:p>

金のしずく降る降るまわりに・・・  銀のしずく降る降るまわりに・・・<o:p></o:p>

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この碑は、彫刻家・空充秋の製作で、「小さな滴一つでも素晴らしい力を夢を持っている」というアイヌの教えを表現して、その心を伝えたいとの思いを込めて作られていると言われています。<o:p></o:p>

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アイヌ民族の知里幸恵(1903-1922)は「アイヌ神謡集」(岩波文庫)でこう書いています。<o:p></o:p>

「その昔この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚子(ちし)のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、まことに自然の籠児(ろうじ)、なんという幸福な人たちであったでしょう。冬の陸には林野(りんや)をおおう深雪を()って天地を凍らす寒気(かんき)をものともせず山また山を踏み越えて熊を狩り、夏の海には涼風(りょうふう)およぐみどりの波、白いかもめの歌を友に木の葉のような小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥と共に歌い暮らして(ふき)とり、(よもぎ)つみ、紅葉の秋は野分(のわき)に穂そろうすすきをわけて、(よい)まで鮭取るかがりも消え、谷間に友よぶ鹿の音を外に、(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。<o:p></o:p>

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美しい大自然に抱かれてのんびりと楽しく生活していた、その昔のアイヌの人々の生活は漁猟、狩猟、採集の生活でした。 アイヌの人たちにとって全ての食べ物は天から与えられる恵みであり、神の使者がもたらす物と考えられていました。ですから、サケやマスなどには「使者を迎える儀式」が行われたり、熊にはイオマンテ(熊送り)の儀式が行われていました(熊は毛皮や肉を運んで来てくれる「神の仮の姿」と考えられ、踊りを見せたり、たくさんの贈り物を贈り天井に送り返すことで、次回も恵みを持ってきて下さることを願っていた)。季節に伴った猟をして、自然と共に生活をしていたのです。 <o:p></o:p>

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しかし、です。その続きにはこう書かれています<o:p></o:p>

平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。<o:p></o:p>

その昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした惨めなありさまに変ろうなどとは、つゆほども想像し得なかったでありましょう。

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幸恵さんの生まれた時代はすでにアイヌモシリは和人に侵略され、アイヌの生活も苦境に追われ、差別の厳しい時代でした。わたしたちは先の文章をアイヌ民族の自然と豊かに生活していた美しい情景として思い描くだけではなく、その豊かさを奪いつくされ踏みにじられ続けている中で幸恵さんが描いていることをも意識するべきだと思います。<o:p></o:p>

 さらに、そのような現状でありながらも「今は惨めな私たちだが、その中から一人でも二人でも立ち上がっていってほしい」という想いが込められているという解釈をされる方がいます。<o:p></o:p>

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四方に配した小さな碑に囲まれ、中央左の五段に積み上げられた(高さ2.m)碑の最上段に三好文夫さんの梟が刻まれ、上から空、風、火、水、地を意味し、中央右の四段(2m)の最上段には荒井源次郎さんの書で上記句文が刻まれ、上から春、夏、秋、冬を意味しています。その四方にある石は東西南北。
この碑の前で毎年、68日に知里幸恵さんの誕生記念を覚え、チノミシリが行なわれます。また、この中学校では校舎の一室をアイヌと知里幸恵に関した資料室として開放されています。(199068日設置)
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カムイコタン祭の写真掲載問題

2006-11-11 10:01:34 | インポート

今日はチプ(丸木舟)つくりができるかと、アイヌ記念館に行ったのですが、

めずらしく「定休日」となっていてどなたもおられず、写真だけ撮らせて頂きました。<o:p></o:p>

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けっこう出来ていました。でもまだお手伝いできるかな。<o:p></o:p>

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カムイコタンでは毎年9月に“こたんまつり”が開催されます。<o:p></o:p>

今年も923日に開催され、センタースタッフとお手伝いをしてきました(ほんの少し)<o:p></o:p>

昨年のちょうど今ぐらいに、以前にここで撮られた写真が無断使用されたことで問題になりました。<o:p></o:p>

「アイヌの人たちの伝統的な祭」と説明がつけられ、川村さんと旭川チカップニアイヌ民族文化保存会の皆さんがク・リムセ(弓の舞)を踊っている写真が今年度の春から使われる予定であった教科書の3冊に掲載されていたのです。<o:p></o:p>

扶桑社「中学社会 新しい公民教科書」、帝国書院「社会科 中学生の公民」、大阪書院「中学社会 歴史的分野」には、いずれも差別問題についての項目での使用でした。<o:p></o:p>

しかし、どの出版社も川村さん本人やチカップニアイヌ民族文化保存会の皆さんへの事前承諾もないままの掲載でした。さらに、ある教科書には「差別問題」の記載のなかで写真引用がされているのですが、文中にはいっさいアイヌ民族への言及がなかったり、「アイヌの人々」(民族とは書かない)がアイヌ文化振興法に守られてるがゆえに伝統文化を普及できているかのように読める説明文が付されたりしていました。<o:p></o:p>

川村さんは「写真は私が特定でき、家族も写っている。差別についての項目で使うなら、まず私たちの主張を聞くことが正しい道筋」と話し、それぞれの出版社と話し合われました。<o:p></o:p>

結果、三社とも誤りを認め、実際に使用される教科書からは写真を外すことに決定。しかし、川村さんらは今後も、アイヌ民族に関する教科書記載のアイヌ民族に関する記載をより調べ、提言していくといわれています。<o:p></o:p>


カムイコタン

2006-11-07 09:17:42 | インポート

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秋になりましたので模様を変えてみました!

(字体はどの配色がいいと思います?)

 

昨日も所用で旭川まで出たのですが、時間が合わずアイヌ記念館によることが出来ませんでした。チプもほぼ完成していることでしょう。残念です。<o:p></o:p>

11月に入って、いつも使う留萌から旭川への峠が冬期閉鎖されました。やむなく春が来るまで国道12号線を使わなければなりません。山道と違い、国道は交通量が多いので疲れます。<o:p></o:p>

国道12号線に沿って流れる石狩川をさかのぼり、旭川入り口付近にカムイコタンと呼ばれるところがあります。<o:p></o:p>

よくここで鹿を見つけることが出来るのでここを通るのは楽しみです。<o:p></o:p>

しかし、そこは険しい断崖と激流のために、上川アイヌの人々が石狩方面と往来する時の最大の難所でした。そのため石狩川を舟でさかのぼって来た人は、現在の神居古潭吊り橋付近にて舟を降り、川岸を春志内付近まで歩いてそこで別の舟に乗り換えるか、あるいは吊り橋付近より空舟を人力で春志内付近まで引っ張っていくか、のどちらかの方法で上川に入ったと伝えられています。またその遡行並びに下降の際には、吊り橋及び春志内(本来のカムイ・コタンは、この区間を総称した地名)付近で、通過の無事をカムイに祈ったり、あるいは通過できたことをカムイに感謝する習わしがありました。(現在では、カムイコタン祭を年に一度開催しています)<o:p></o:p>

川岸に奇岩怪石が連なる神居古潭の景観は、多くの伝説を生んでいます。その最も代表的なものが、「ニッネカムイとサマイクルの戦い」です。 <o:p></o:p>

  むかし、神居古潭にニッネカムイという凶悪な魔神が住んでおり、アイヌの人々を苦しめていた。あるとき、ニッネカムイは大岩を石狩川の川幅のいちばん狭いところに投げ込み、アイヌの人々を溺死させようと企む。これを見ていたヌプリカムイ(山の神)のクマは、アイヌの人々を救おうとその岩を取り除いて水を流した。ニッネカムイは怒ってヌプリカムイに襲いかかるが、文化神サマイクルが駆けつけ、格闘となる。劣勢となったニッネカムイは逃げ出すが、泥に足を取られたところをサマイクルの刀で切り殺される。

言語学者の知里真志保(1909-1961)は、<st1:MSNCTYST Address="『旭川市" AddressList="01:北海道旭川市;" w:st="on">『旭川市</st1:MSNCTYST>史』第4巻(昭和35年)所収「上川郡アイヌ語地名解」の中で、このニッネカムイとサマイクルの戦いにちなんで名付けられた神居古潭付近の奇岩を多く挙げています。
 
ニッネカムイ・オラオシマイ Nitnekamui-o-rawoshma-i(魔神が・そこで・ぬかった・所)  
  右岸の岩に深さ一丈以上もある穴があり、魔神がサマイクルに追っかけられた時に踏みぬいた

 足跡だという。
 エムシケシ Emushi-keshi(刀・の端) 前記の穴のそばの岩の上に幾つもの条痕があり、 

 それはサマイクルが魔神に切りつけたときの刃痕だという。
ニッネカムイパケヘ Nitnekamui-pakehe(魔神・の頭)

ニッネカムイネトパケ Nitnekamui-netopake(魔神・の胴体)

ニッネカムイノッケウエ Nitnekamui-notkewe(魔神・のあご) 


北海教区2006年度修養会

2006-11-07 08:14:25 | インポート

11月3~4日と北海教区 2006年度修養会が富良野で行われ、全道から500名の方が集まりました。学びと交流のひとつにアイヌ民族の部屋があり、赤平の太田マルクさんにお話を伺いました。

とても残念でしたが、わたしは年修の事務局で飛び回っていたため、お話を後からテープで聞かせて頂くことにしています。

参加された方はとてもいい学びだったと感想を言われていました。

太田さんはロシア正教の信徒でもあり、アイヌ語で聖書翻訳を行っていることも話されました。

多くの資料も用意くださり、1897年に出版されたJ.BACHELORのアイヌ語聖書も紹介されました。

早く聞きたいデス・・・録音を頼んだ方にお願いしないと・・・。

希望者は情報センターまで!<o:p></o:p>

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会場となった新富良野プリンスホテル<o:p></o:p>

とてもいいホテルでした<o:p></o:p>