アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

木彫り熊

2008-07-28 22:44:07 | インポート
今日はアイヌ文化振興・研究推進機構主催のアイヌ文化普及啓発セミナー前期の2講座を受講してきました。翌日以降のも受けたかったですが、どういうわけか定員40名で締め切りにしており、他の講座は断られてしまいました。しかも道民カレッジ連携講座ともあって、そちらからもけっこう来られていたようです(後期はまだ大丈夫のようです)。

今日の講演1のテーマは 「木彫り熊発祥の地・八雲から北海道内へ」。
八雲町郷土資料館惨事の三浦孝一さんが写真をふんだんに用いてお話くださいました。

以前に機関誌「ノヤ」に旭川アイヌ民族フィールドワーク連載や、インタビュー記事で旭川の木彫り熊製作者である平塚賢智さんからお話を伺い、アイヌ民族の木彫り熊ルーツについて書きました。

北海道土産の定番だった木彫り熊は発祥が三つのルーツがあり、それらから全道のアイヌ民族に広がったとされます。
その一つは八雲。八雲は徳川侯爵がスイスから持ち帰った木彫り熊を手本に冬の農民の稼ぎとして熊彫りを推奨し、全道に広まったというルーツ。
それとは別に旭川では熊ハンターだった松井梅太郎が始めたルーツがある(もう一つ、独学で奈井江町の堀井清司さんのルーツがある)とのことで、明らかに八雲とは別にアイヌ彫りのルーツとしての旭川を強調しました。

それが、今日の講演では、あくまで木彫り熊の発祥は八雲であり、旭川で初期に売られていたのは八雲で作成した熊だったというのです。この点では年代的にも、もっと付き合わせが必要のような気がしますので調べていきたいと思います。
そして、旭川アイヌ民族の木彫り熊は八雲のを参考にした、と。旭川の熊の内にどれだけ八雲の彫刻の特徴が見出せるのかも伺いたかったですが、質問時間がありませんでした(他にも質問だらけでした。主催者の配慮を願います)。
それと、旭川の販売ルートを作った元「旧土人学校」校長の長谷川長左衛門(後に豊栄堂経営し、木彫などを販売。旭川六条教会会員)の関連はどうだったのかも、くわしく調べる必要があるでしょう。


旭川での最盛期は、木彫り熊の制作にかかわる人が少なく見積もっても2千人はいたそうです。その火付け役が松井梅太郎(1901~49)さん。
松井さんは近文で生まれ、熊打ちの名人でした。ある時など、幌加内山中でアナグマに襲われ、35ヶ所もの傷を負いつつも、熊を仕留めて生還したという話も残っています。
24歳(1925年)の時に、大きな熊を撃ち逃し、かなりの負傷を追いつつも生還したとのこと。
その時の思いを木彫り熊にはじめて彫ったそうです。
松井さんが彫る熊は、吼える熊、襲いかかる熊、怒る熊で、買った人は魔よけとして床の間に飾ったようです。
もともとアイヌ民族の風習では、イクパスィー(祭儀に用いる酒棒)以外に、生き物を彫る習慣はなありませんでした。魂が宿ると言われていたから。しかし、収益のためにやむを得ず、熊を彫り、販売したのです。

松井さんの初期の作品「ワニ熊」のお話を、その直弟子の平塚賢智さんから伺いました。
ワニのように足の短い熊なのですが、それは熊狩りをした人ならではの作品だ、と。
アイヌ民族の熊猟は通常、冬の間に熊穴を見つけておき、冬眠中の3月に行ないます。
その際、冬眠から覚めた熊が穴から出てきて、雪に足をうずめている姿がワニのように短足の格好に見えるというのです。
なるほど、と納得。

このように旭川ルーツは、実際に熊猟をしたアイヌ民族の特徴が入っていると事前に聞いていましたから、八雲ルーツとは違うという先入観いっぱいでの今回の聴講でしたので、けっこう頭をひねっていたかも知れません。
講師には申し訳なかったで~す。



昨夜は留萌の花火大会。我が家の屋根の上からきれいな花火を眺めました。
3歳ほどのこどもたちも近くで見ていて、夜空が光るたびに歓喜の声を挙げていました。
とても可愛かったです。 



こんな写真も撮れました~  海の中のイソギンチャクではありません