アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

開拓使仮学校付属北海道土人教育所

2008-07-26 18:48:53 | インポート
2003年にはじめ、今年で6回目を迎える「東京・イチャルパ」。
毎回、日曜日の開催なので参加はあきらめていますが、会場となる「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」跡には行っておきたいと芝公園にむかいました。
開拓使仮学校跡(碑文)がどこかにあるはずだと調べましたが見つけられず断念。
(碑文は過去ブログ07年4月19日に引用しました)。

1869年(明2)にアイヌ・モシリは北海道と改名させられ、その地を管轄するため開拓使が開設されます(翌年の1870年に「開拓使東京出張所」と改名=東京に置かれた)。
開拓使の目的は、北からの外敵ロシアに対抗するため北海道に多くの開拓者を養成して送り込み北海道を「皇国の北門」とすることでした。1872年(明5)に、東京の芝・増上寺内に「開拓使仮学校」を設置し、開拓者養成を行ないます(北海道大学の前身)。
さらに、アイヌ民族の皇民化を進めるために開拓使は次々とアイヌ民族に対する政策を打ち出していきます。和人によって搾取され酷使されて疲弊したアイヌ民族をさらに否定し文化的に滅亡させようと企てたのです。
アイヌ民族の習慣を「醜風(ふうしゅう)」(醜い風俗)、「陋習(ろうしゅう)」(いやしい習慣)であるとして、固有の文化を根本から否定して、和人名への改名強制をはじめ、入墨や耳輪、アイヌ語使用の禁止など、さまざまな習俗を禁じる布達を出します。
そして、「開拓使仮学校」の隣りに「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」を併設して、アイヌ民族38名を強制連行し、皇民化教育を行ないます。そればかりではなく、「見世物」として多くの人びとの前に晒されていたというのです。
そのうちの5名が遠いアイヌ・モシリとそこに住む家族を想いつつ亡くなります。

東京でのアイヌ「教育」の計画をした黒田清隆は、その意図を1872年7月28日付の文章にて以下のように説明しています。

元来北海道のアイヌは、容貌や言語も全く内地の人間とは異なり、したがってその風俗も陋習(ろうしゅう=いやしい習慣)を免れません。今まさに開拓の盛大な事業を進めている時なので、今までの恥ずべき風俗を脱して、内地とともに開化の域に進み、内地人とアイヌの違いをなくしたいのですが、内地の人びとを北海道に移住させ、アイヌにその風俗を習わせ、教えを受けさせるだけでは、よい方向に移っていく効果も速やかにはいきません。アイヌを自然の中に置いておくのは容易ですが、速やかに内地の風俗を学ばせるに越したことはないと存じます。そこでアイヌをおおよそ100人ほど東京へ連れてきたいと思いますが、まず今回男女27目人を呼び寄せ、若い者は仮学校へ入寮させて読書や習字の修行をさせ、その他は渋谷の御用地で農業・樹芸・牧畜などの修行をさせています。これらアイヌたちの写真を添え、このことをお届けするものです。(「公文録」六九九)
(現代訳は「《東京・イチャルパ》への道」東京アイヌ史研究会 P50 を引用)


アイヌのすべてを奪い、困窮へと追いやり、踏み続けている者の言うことでしょうか。なんと傲慢な態度でしょう。
この時の写真なのでしょうか。今回のイチャルパの案内チラシに用いられているのは。
チラシはこちら http://tokyo-icarpa.com/gaiyou.html

今日は暑い一日でした。午前中は明日の準備で忙しくし、
夕方に少し長めに海岸に愛犬と散歩に行き、少し泳いで来ました。
愛犬のイブはラブラドールですので泳ぐのが大好き。



昨日の旭川の帰りに見かけた子狐の兄弟(姉妹?)。
右後ろにシャイなほうが隠れています。
昨年も同じところで見かけましたよ。


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