アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

OKI トンコリライブ

2007-01-31 10:55:25 | インポート
昨夜はトンコリ奏者OKI (オキ)のライヴに旭川に出かけました。
OKI DUB AINU BAND JAPAN Tour 

ツアー最終日。
夜7時半からのスタンディングライヴだったので、年寄りにはけっこうこたえ、
残念ながら一部が終わったところで帰途につきました。

とてもいい音色とリズム。アイヌ民族の伝統的な曲と、現代風にアレンジしたものを取り混ぜ、
堪能しました。
若い子達も会場からあふれるぐらいにたくさん来ていました。
おしゃれな子達ばかり!
と言いつつ、会場が暗かったのでほとんど影しか見えなかったけど・・・。
(オヤジのわたしは少々恥ずかしかった)。

二部ではアイヌ民族の皆さんも参加し、みんなで踊ったのでしょう。
フサフチをはじめ旭川チカップニ文化保存会の皆さんがアイヌ紋様の入った衣装を着て
会場に来られていました。体力があったら、一緒に踊ったのですが・・・残念!


 ニューアルバム OKI DUB AINU BAND


旭川に行ったついでに旭川六条教会と旭川豊岡教会をお寄りし、
さらに、寄ろうと思っていたお宅の場所が見つからなかったので急きょ、
アイヌ関連の本が多くある古本屋に行き、
品切れ中の「アイヌと植物」(福井イト著)を見つけ、購入しました。
早く春になってアイヌ民族が食べた山菜を見つけたいものです。
昨年は、トマを採って食べてみました。 苦かった。


天塩日誌

2007-01-29 20:17:55 | インポート
昨日はディヴァン宣教師もわたしたちの礼拝に参加され豊かな交わりとなりました。
急きょ、お願いして子どもたちへのお話をして頂き、こどもたちも喜んでいました。
ブヌン語のさんびか2曲を歌ってくださいました。
土曜日のブヌンのこどもたちの歌を聞いた帰り、あの曲は知っていましたかと聞いたら
小さい頃、ずっと歌っていたとの返事。歌がうまいはずですね。

今日は、一番遠い教会員のお宅を訪問しに130キロ北上し、
天塩まで行って来ました。

天塩といえば、松浦武四郎の「天塩日誌」。
1857年に天塩川を河口からさかのぼって克明に記した書物ですね。
美深・名寄・下川・士別など通って、天塩岳までの往復記録です。
アイヌ民族四人と共に、歩いて各地域・コタンを訪ねたのですね。
一度、同じルートを歩くフィールドワークをしたいですね。


武四郎さんはどこ?

今日は事前に調べて手塩川河口にある鏡沼公園に設置されている松浦武四郎像の写真を
撮ろうと行ってみたのですが、雪対策で像も覆られていたのか
どこにあるのか分かりませんでした。
天塩川歴史資料館も10月から4月まで休館とのことで断念
(開いていても行く時間は取れなかったほど教会員宅で話がはずみましたが)。

明日は、また旭川へ向かい、木彫り名人のエカシをお訪ねし、
夜は、OKIのコンサートに行ってきます。楽しみ楽しみ。
また、報告します。


ブヌン民族とアイヌ民族の子ども交流

2007-01-27 23:59:32 | インポート
21日のアジア民族音楽祭Ⅱに引き続き、
今晩は台湾原住民族であるブヌン民族の子どもたち23名が旭川に来て、
アイヌ民族の子どもたちと交流を持ちました。
わたしも家族づれで参加しました。一緒にディヴァン宣教師も札幌から駆けつけ合流。
アイヌ民族のこどもたちもとても可愛らしく歌や踊りを披露してくれました。
ブヌンのこどもたちのコーラスが素晴らしかったこと!
それぞれが自分の音色を奏で、見事な和音でした。よかった~。
民族のメロディを聞かせて頂きました。感謝。
ディヴァン宣教師もブヌン民族出身。
コーラスを聞きながら、小さい頃よく歌ったといわれていました。
お別れの際に引率の校長先生がディヴァン宣教師に祈ってくださいと依頼し、
祈りで別れました。

原住民族(ユエンツーミンツー)はクリスチャンが多いのですね。
アジア音楽祭の時にとても素敵だったジャジャとハオエンのCDを買ったことを書きましたが
(ジャジャはなんとサミンガの妹さんとのこと。今日ディヴァンさんから聞きました)、
ハオエンもアミス民族の牧師の息子さんだとCDの解説に書いているそうです(ディヴァン情報)。

今日も豊かな一日でした。



松浦武四郎の像

2007-01-26 20:29:48 | インポート
今日は羽幌病院に入院中の教会員のお見舞いに行きました。
留萌と羽幌は片道60キロ。その半分ほどに小平町鬼鹿という地があり、
留萌の数少ない「観光地」である鰊番屋があります。そこで写真を撮ってきました。
[詳しくは、道の駅小平鰊番屋HP参照ください。
http://www.vm-net.ne.jp/obira-sci/kankou/nisinbanya.htm ]


鰊番屋の海岸側に、身長150センチほどの着物に結いをした銅像があります。
その人の名は、松浦武四郎。
「北海道」の名づけ親であり、アイヌ民族に寄り添って和人のアイヌ民族への暴力、殺人を
書き記し、世に伝えた人物です。彼は留萌を三度訪ねたようです。
彼の碑は全道にあるようですが、像は小平・天塩に2箇所、そして釧路にあるようです
(釧路が最古とのことですが留萌管内は2つですからね~。さらに留萌望洋公園に碑もある!!)。


[写真を撮ろうとしたら慌てて台に乗ってポーズしてくれました。
写真右中央に足跡が見えるでしょ(笑)]
   

松浦武四郎と留萌周辺のことも、もう少し詳しく調べてみますね。
札幌、旭川のアイヌ民族フィールドワークに加えて、
今年はもう少し留萌周辺を調べてフィールドワークできるように準備を始めようと思います。

ちなみに、小平・鬼鹿・羽幌は以前に書いたようにアイヌ語です(1/14日誌)。


明日は、楽しみにしていた台湾原住民(ユェンツーミン)であるブヌン民族の子どもたちと
アイヌ民族の子どもたちとの交流会が午後7時から旭川市民生活館(緑町15)にて行われます。
わたしたち北海教区がお招きしたディヴァン宣教師の出身民族なので、
お誘いしたら、なんと、彼女のお友だちのお子さんも来られているとのこと。
楽しんできます。みなさんもどうぞ(無料)。


北大が「アイヌ・先住民研究センター」を4月に開設

2007-01-24 13:01:08 | インポート

昨日の道新記事の紹介をします。詳しくは以下へ。
北海道新聞 2007年1月23日(火)
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20070123&j=0031&k=200701220756

北大が先住民族の研究に専念するとのこと。特に法的に学者を集めてのチームとのこと。
期待します!!
暑寒別岳
お知らせ
来る、2月9日(金) 午後6時 札幌エルプラザホール(北区北8西3)にて、第13回アイヌ民族シンポジウムが行われます。講演は常本照樹(北大法科大学院教授)「先住民族の権利に関する国連宣言と国際人権規約の日本政府第5回報告について」です(主催:北海道新聞社・札幌市・道ウタリ協会札幌支部)。入場無料。札幌近郊にお住まいの方はご一緒しましょう。


アジア民族音楽祭

2007-01-22 00:16:08 | インポート
今日は旭川の東川町で、アジア民族音楽祭があり、礼拝後に行って来ました。
チカップニアイヌ民族文化保存会の踊りと歌からはじまり、
東川出身の塚田たかやさんらのバンド“たう”が豊かで心響く演奏を披露してくれ、
さらに、台湾AMオールスターズの演奏がよかったこと!!
ハオエンとジャジャは今年の台湾音楽の新星として登場し、
まことに感動的な歌声を披露してくれました。
ふたりはその後もバックでコーラスをしていましたが、これまた見事!
つい惚れてしまってCDを買いました~ ついでにサインもしてもらいました。


ジャケットがLP版ほどの大きさなのでハオエンさんの顔が切れてしまった。失礼。

続いて、バナイさん、陳建年さんと聞き惚れ、最後にサミンガと全員の演奏。
みなさん、とっても歌唱力があり美声でした。
とにかく感動・感動の数時間でした。行って良かったです。

今月はまだまだコンサートやイベントが続きます。
27日午後7時からは旭川市民生活館(緑町15)にて、
台湾原住民のブヌン族の子供たちとの交流会が行われます。
さらに、30日にはトンコリ奏者のオキが旭川スガイビルにてコンサート。
旭川近郊の方は是非、ご一緒しましょう。


二風谷ダム裁判の判決文

2007-01-19 17:14:41 | インポート
気がつくとブログ訪問のカウントが1,100を越えているのですね。
数名の方が頻繁に見て下さっていることも伺っています。
でも・・・昨日は23人も・・・そして、今日も今で18人も・・・。
関心を示して頂き、感謝です。さらに豊かな情報を流すよう努めますので、
今後ともよろしくお願いします。
うれしいので、今日も更新します。
今日も奨学金事務のために作業所のふたりが来てくれて事務作業し、
午後は滞っていた募金趣意書印刷費と発送費の支払いを終えました。
前半の雪のない冬を取り返すかのように留萌は雪・雪・雪。

1月16日のブログで、二風谷ダム裁判の判決文(札幌地方裁判所平成5年(行ウ)第9号権利取得裁決及び明渡裁決取消請求事件 判例時報1598号33頁以下)では、アイヌを先住民族としていることに触れました。



原告の故萱野茂さんと田中宏弁護士編集代表の「二風谷ダム裁判の記録」(三省堂)に、裁判記録がすべて掲載さています。その判決文を読み直していますが、皆さんにもいくつか紹介しましょう。

二風谷ダム判決は,アイヌ民族の先住民族性についてこう言っています。


「国は、先住少数民族であるアイヌ民族独自の文化に最大限の配慮をなさなければならないのに、二風谷ダム建設により得られる洪水調節等の公共の利益がこれによって失われるアイヌ民族の文化享有権などの価値に優越するかどうかを判断するために必要な調査等を怠り、本来もっとも重視すべき書価値を不当に軽視ないし無視して、本件事業認定をなしたのであるから、右認定処分は違法」(判決理由の骨子2より)。

「アイヌ民族は,我が国の統治が及ぶ前から主として北海道に居住し、独自の文化を形成しており、これが我が国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお民族のとしての独自性を保っているということができるから、先住民族に該当するというべきである。」(判決理由の要旨より)

昨年、福岡地裁の日の丸・君が代問題を扱った、いわゆる「こころ裁判」(福岡地方裁判所 平成8(行ウ)22,平成12(行ウ)4 戒告処分取消等請求事件)の判決文を詳細に読んだので、「判決文」というものの読み方が分かるようになり(笑)、二風谷ダム裁判判決の内容にぐんぐんと引き込まれます。
センターにありますのでお貸しします。

二風谷ダム裁判判決の「検討」の部分にはこんなことも述べられています。
アイヌ民族は文字を持たない民族であるからチプサンケ(舟おろしの儀式)やチャシ(砦)等の遺跡は「アイヌ民族の文化を探求する上で代替性のない貴重な資料であって、その重要性は文字を持つ民族における重要性とは比ぶべきもない程高いといわなければならない」、しかし、その調査をしていなかったことに違法性がある、と(すごい!)。
もっと、くわしく紹介したいのですが今日はここまで。


先住民族アイヌ

2007-01-18 17:11:30 | インポート
1966年に「国際人権規約」が成立し(1976年発効)、
日本は1979年に批准したことを1月16日のブログ日誌に書きました。
今日はその補足と続きです。
批准国は批准後1年以内に、その後は5年ごとに報告書を規約人権員会に提出する義務を負い、問題があれば改善勧告が出されることになっています。
その第1回の日本政府の報告書が1980年に提出されています。
しかし、「本規約に規定する意味での少数民族は我が国に存在しない」と報告したのです。
本来のこの報告書は少数民族の権利がどのように守られているかを報告するべきなのにもかかわらず、日本政府はアイヌ民族の存在そのものを否定したのです。
さらに、86年9月、中曽根康弘(当時)首相が単一民族国家発言をします。
これに対し、北海道ウタリ協会は同11月、国連人権センター宛に「日本政府の単一民族国家論」を払拭するための調査・審議を要請し、同センターはこの要請を国連人権委員会と国連差別防止及び少数者保護小委員会に付託しました。
翌87年8月、北海道ウタリ協会の野村義一理事長らは国連先住民会議に民族衣装を着て初参加し、アイヌ民族の苦渋の歴史と現状を訴えられました。

同じ国連先住民会議に参加していた日本政府代表は「・・・本政府は、日本が単一民族国家と主張するものではない。アイヌの人々の存在を否定するものでもありません」と、前回の報告では抹殺していたアイヌの存在をかろうじて認めるようになりました。

さらに、道内の動きが活発化し国も重い腰を上げ内部検討を行います。そして、1991年の定期報告書で、アイヌ民族が「少数民族であるとしてさしつかえない」と基本姿勢を転換するに至りました。

が、先住性を認めつつも先住民族、先住権の表現はその後の審議や報告には示されていないのです。現在も国が出す文書には「アイヌ民族」という言葉はなく、「アイヌの人々」と記されているのです。


新得教会訪問 道東地区のアイヌ語地名 

2007-01-17 20:45:05 | インポート

今日は道東地区諸教会のアイヌ語地名ポスターを作成するために、
新築した新得教会の写真を撮りに新得を訪問しました。
そして、芳賀牧師にお会いして情報センターのアピールさせて頂きました。
滝川~富良野~狩勝峠を通ってちょうど往復400キロ。
、一日仕事でした。
吹雪いていたのは留萌地方と狩勝峠付近だけでしたので楽に行けました。
今年は教会・伝道所に頻繁に出かけてセンターの働きを知って頂き、
センターを活用して頂こうと考えています。


新得教会

アイヌ語地名の解説です。
車中で風景を眺めながら再度、意味を確認しつつ向いました。
いづれも山田秀三著「北海道の地名」参照。


新得  Shittok
シットク(shittok)は元来は「肘」の意。川曲がりや山の突出部をいう。新得山の突出部のことであろうか。

帯広 オペレペレケプ
帯広川のアイヌ名オペレペレケプ(陰部・いくつにも裂けている・者)、即ち(河口がいく条にも分かれている川)の上部の音と、十勝平野の広大さに因んで広をつけたと「北海道駅名の起源昭和29年版」にあり。

置戸 o-ketu-un-nai
南の山から流れている緑川をオケトウンナイ(川尻に・獣皮を乾かすその張り枠・がある・川)と言い、それが略されて置戸のとなったものであろう。

釧路
クシル(kush-ru通る・道)、チクシル(chi-kush-ru我ら・通る・道)、クスリ(kusuri温泉)、クッチャロ(kutcharのど口→沼水の流れ出す口)の諸説のほか、クシ・ペッ(通り抜ける・川)、クシ・シル(川向こうの山)などの説がある。アイヌ民族の知里博士は、クスリとは読んだものの意味は不明と言っておられる。

中標津 (標津) shi-pet
明治21年標津村から分村して中標津となる。標津はシペッ(大・川)の意。松浦武四郎はこの辺りが鮭場所であったことから、シベオツ(shipe-ot 鮭・多くいる)と解釈したが、前者の方が正しいだろう。

春採 ar-utor
松浦東蝦夷日誌は「ハルトル。ハルは黒百合やエンゴサクなどの喰草、ウトルは沼」と書いた。永田地名解は「ハルトゥル。向ふ地」と書いた。ar-utor向こう側の・側面、→岬山の向こうの土地、の意味であろう。
北見 (野付牛) nup-hon-kesh
1942年以前の北見の名称。ヌプ・ホン・ケシ(野の・腹の末端)、沼の原、野の原の意味。


先住民族

2007-01-16 14:52:28 | インポート
ちょっと調べなおしてみました。
分かりやすく説明できればいいのですが。

国連は1948年に「世界人権宣言」を決議しました。
しかし、それは「宣言」であったため法的拘束力を持たなかったことから
人権保障を法制化するため、1966年12月に採択されたのが「国際人権規約」です(1976年発効)。
規約はA規約(「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」)と、
B規約(「市民的、政治的権利に関する国際規約」)とに分かれ、
B規約には人権侵害を受けた個人による国連人権委員会への救済申し立てを認めた「選択議定書」が付されています。
日本は1979年に批准し国連へ報告書を提出しています。
しかし、実際には守られていない部分が多く、1998年に勧告されることがありました。
[参照 http://homepage2.nifty.com/jinkenken/kiyaku.htm]

国連は1982年より「先住民族の権利に関する国連宣言」の草案作成作業に取り組み、
昨年の2006年6月に国連人権理事会にて採択しました。


笹で出来た仮小屋(二風谷 アイヌ博物館前)

一方では国際的に先住権を認める流れがある中で、
日本政府が昨年(2006年)の12月20日に行った国際人権(自由権)規約に関する報告には、アイヌ民族を先住民族との位置づけを避けました(北海道新聞12月30日付)。同新聞によると「政府は、認知すれば、アイヌ民族の土地の扱いなど、先住権の問題が生じるため、姿勢を変えようとしていない」とのことのようです。

アイヌ民族は先住民族と位置づけたのは司法であって(二風谷ダム裁判の判決文 1997年3月)、
政府はいまだ認めていません。
昨年11月4日、鈴木宗男衆議院議員が提出したアイヌ民族の先住権に関する再質問に対する政府の答弁書にも、
「 「先住民」及び「先住民族」については、現在のところ、国際的に確立した定義がなく、また、日本国政府としての明確な定義はない。」と言っています。
  [参照 http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b163057.htm]
これが現状なのですね。
 
あらためて、先住民族について考えていきたいと思います。


留萌近隣のアイヌ語地名

2007-01-14 18:37:28 | インポート
先週の金曜日(12日)、大雪も少々落ち着いた中、調べもので二風谷を訪れました。
平取町立アイヌ文化博物館はお休みでしたが、
博物館前に立てられた数件のチセ(家)の間に、小さく立てられていた「仮小屋」の写真を撮ってきました。
山に狩猟や山菜取りに出かけた際、何日も山に滞在するために、
仮の小屋を建てたそうですが、この小屋がそうなのかな、と思いつつ撮ってきました。
(もし、違ったら後日、訂正しますね。スミマセン)。


小枝で作った小屋

先日の日誌で、冊子「るもいのアイヌ語地名」をご紹介しましたが、もっと教えて欲しいとのひでぼおさんの書き込みのリクエストにお答えして、今日は、山田秀三著「北海道の地名」(草風館)を参考にしながら、留萌周辺のいくつかのアイヌ語地名をご紹介します(ひでぼおさん、いつも書き込みありがとう)。

小平(おびら)  
o-pira-ush-pet (川尻に・崖・ある・川) [永田地名解]
鬼鹿(おにしか)は二説紹介します
 (1) ニシ(雲)・カ(上)と読んだ説 [上原熊次郎地名考]
 (2) オニウシ・カ (森林の中を流れている川) [北海道駅名の起源]
力昼(りきびる)
  ri-kipir(高い・崖)  [松浦:西蝦夷日誌]
羽幌(はぼろ)
  ハ・ポロ・ペッ (流出・広大の・川) [永田地名解]


留萌周辺のアイヌ語地名

2007-01-08 19:43:51 | インポート
低気圧の影響で留萌も今朝から吹雪き、札幌での集会を断念しました。
留萌の冬は風が強く、地吹雪も常にあってどんよりとしています。
今年はそれでも暖かい日が続き、昨日までは雪は少なかったのですが。

「るもいのアイヌ語地名」という冊子があります(編集・発行:留萌市教委 1988年3月)
留萌周辺の地名の語源であるアイヌ語の解釈をしています。松浦武四郎や永田方正、そしてアイヌ民族の知里真志保らの文献を調べながら、地名をひも解いています。
地図も載っており、実際にこの冊子を片手に現地に行くなどしています。

若干、この本から留萌周辺のアイヌ語地名をピックアップして紹介しましょう。

礼受 レウケ rew-ke-p 
    (曲がることをーするーもの) (知里:地名アイヌ語小事典)
三泊 サントマリ sam-chip-tomari
    (隣国人―舟のー入り江) (松浦:西蝦夷日誌)
臼谷 ウスヤ us-ya
     (入り江・岸)  (知里:地名アイヌ語小事典)


留萌の海岸沿いです。

漢字の当て字だけなら、意味がわかりませんね。
また、おいおい紹介します。


風雪の群像

2007-01-06 17:45:24 | インポート
お正月もアイヌ奨学金事務(募金領収証発送)をしながら過しましたが、
更新できる内容がなく、おひさしぶりです。
新年もよろしくお願いいたします。
以前に情報誌“ノヤ”に掲載した文ですが、UPします。
旭川アイヌ民族フィールドワークの際に、最初に訪れる場所の紹介です。

旭川の常盤公園の一角に「風雪の群像」があります。
この群像は、北海道「開拓」記念碑として建てられました。
制作者は著名な彫刻家・本郷新(札幌大通公園の「泉の像」、稚内市の「氷雪の門」、戦没学生記念像「わだつみのこえ」、など作品多数)。
像には“波涛”“大地”“沃野”“朔風”そして“コタン”をあらわす5人の裸像が配されています。


風雪の群像(写真左に座っているのが“コタン”

この“コタン”のアイヌ老人像をめぐって、創作当初に旭川在住の作家・三好文夫の間で激しい論争が展開されました。
本郷の試作過程のデッサンは、アイヌ老人が和人の役人の足元にひざまずき、
身をかがめて案内している屈辱的なポーズで発表され、それを三好は「杞憂を感じ」「それは過去の和人の不遜な感覚であり、適切でないと思った」(1970・5・27北海道新聞)と指摘(しかし、像はアイヌの老人像を木の切り株に腰を下ろす姿勢にかえただけで続けられました)。

本郷は三好の批判に対し、「アイヌは開拓前から北海道に定着していた民族であり、和人は後からこの地に来て開拓の仕事をはじめたという歴史を知っている人なら、アイヌの古老だけを切り株に腰かけさせていることの象徴性と寓意性を感じてくれると思う」と反論(?)しました。が、はたして観る側はどう感じたらいいのでしょう。本郷には、「開拓」行為がアイヌ民族にとって「侵略」行為なのだという歴史認識が欠落していたのでしょう。

除幕式には川村カネトエカシ(翁)も参列しました。その日のプログラムにはカネトエカシの名が載せられているにもかかわらず、その場で突然のスピーチ依頼だったそうです。エカシは型どおりのことばの後にこう語りました。―若いころ、測量の仕事を40年間もやったのですが、賃金はシャモの半分ぐらい、寝とまりする小屋もシャモとは別でした。―(旭川人権擁護委員会連合会『コタンの痕跡』)
「開拓」時代からアイヌは苦しめられ、カネトエカシご自身の過去も差別された苦しみであり、こうした群像が出来たこと自体がその延長の何ものでもない、反省も謝罪もなく、あいも変わらず無視と差別を繰り返しているおまえ達よ、なぜ気付かないのか、とエカシは言いたかったのではないでしょうか。そのような思いが込められている重く痛い言葉に感じます。

そもそも「開拓」記念なる催しや像を立てることがアイヌ民族の苦難の歴史を無視する行為です。「風雪の群像は原始の大地に名もなく消えた一世紀北海道開拓者の涙と呻きと歓喜の像である」と、この像の「建立の趣旨」にも「開拓」側の苦労を述べるのみに留まっています。

著名な彫刻家である砂沢ビッキはこの日、旭川の街にて抗議のビラを配りました。
―・・・朔風・波涛・沃野・大地というテーマはなんと洋々とし蕩々とした空間の中でのびのびしているかにくらべ、何故アイヌはコタン(部落)という偏狭な地点に座しなければならないのか! この大自然と大地はわれわれアイヌのものではなかったか! ― (新谷 行著『増補アイヌ民族抵抗史』)

 この像は北海道大学文学部のアイヌ関連資料を収めた北方文化研究施設のケースと共に’72年10月23日、「東アジア反日武装戦線“狼”」によって爆破されます。北大のそれは「アイヌの遺産を略奪して見世物にしている許し難い施設であったし、ブロンズ像は侵略行為の誇示そのものと見える」(「狼煙を見よ」)との理由でした。北大は被害が少なかったですが、群像は四体が破壊されました。現在ある群像は’77年に再建されたものです。