アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

『痛みのペンリウク−囚われのアイヌ人骨』を読む

2017-03-16 10:04:43 | 日記

J・バチェラー(John Batchelor 1854-1944)については過去Blogでも何度か扱いました。

彼は1877年から1940年、23歳から86歳までの63年間、アイヌ民族と共に生きた生活を送ります。

当時、外国籍のものは日英約定(1854年)により、函館から25マイル(40キロ。北限は森町)以上はなれて住むことは禁止されており、地域外に出向くときは、3ヶ月、6ヶ月というような期間でパスポートを必要としていました。バチェラーは苦労しつつパスポートを得て、アイヌ民族の元に出向きます。晩年に出した『わが記憶をたどりて』(1928年)の自伝にはアイヌ民族との思い出を綴っていますが、アイヌに魅せられ一緒に過した楽しい話が多く記されています。

その中に、ピラトリ(平取)のペンリさん(ペンリウク首長)との出会いがあります。はじめは三ヶ月のあいだ滞在させてもらいます。その後も度々おとずれるバチェラーのためにペンリさんは自分の家の隅に小屋を増設までします(『記憶』P159)。そして、平取川上流や静内などを案内してもらい、たいへん助けられた事が記されています。

ペンリウク首長は平取の義経神社に頌徳碑が建てられるほどの大物で、1903年11月に71歳の生涯を閉じています。 

この『記憶』の記述のなかに、すでに平取にだれかが「解剖学のためにアイヌの屍を掘り出して盗んで持って行った」ことがあったとバチェラーは聞いて記しています(p142)。それが事実なら、バチェラーは1879年に平取を訪ねているので、その前となります(1865年に森・落部盗掘事件があったので関連があるのか?)。 

そして、ペンリウク首長が亡くなられた数十年後には、彼の遺骨も掘り出され、北大に持ち去られます。

『北海道大学医学部アイヌ民骨収蔵経緯に関する調査報告書2013』(以下『報告書』)には、

「690番 全身骨 男 成人 個人特定可能 大学が保管に至った経緯1933年10月20日 平取1として管理」(『報告書』P171)とあり、その遺族が返還を求めた際に、明らかにペンリウク氏のものであるのでお返ししますと言う事でした。

しかし、その数ヶ月後、急に北大側が「平取1」の遺骨がペンリウク氏のものかが疑わしいと言いだし、遺族達を困惑させたという事件が起きます。遺族はこれらの一連の問題を『痛みのペンリウク−囚われのアイヌ人骨』(土橋芳美著 草風館 以下『痛み』)という本にして訴えています。

 

『痛み』によると土橋さんらは2016年3月23日に北大を訪ね、常本照樹アイヌ・先住民研究センター長、岡田真弓アイヌ遺骨返還副室長らと面会し、遺骨の返還を話しあいました。その際に、ご自分はペンリウクの弟の家系であることを告げ、自分でも引き取り手になれるかを聞きます。北大側は「大丈夫です。あなた以外に名乗り出る人がいなければ、お引き取りになれます」と全員が明るい対応をしたので彼女は安心したと記しています(P126)。

 そして、2016年7月11日、ご遺族が最初に遺骨と「対面」した際に、北大の職員は「ペンリウクさんは生前いろいろな方に計測されておりましたので。それらと照合して間違いありません」と「自信たっぷりに言って」(P123)いたのに、2ヶ月後の9月6日に突如、「ペンリウクさんの遺骨ではないという事がわかりました」と常本氏、岡田氏が発言。それはどうも、再度、頭骨を計測したところ、過去の計測値と違ったとのこと。

 

要は、北大側は遺骨をいまだに「研究材料」としか見ておらず、真摯に遺骨を返そうという気持ちはさらさらないのです。「アイヌ遺骨返還室」を開設し、HPにて遺骨の情報公開はしているものの、その遺骨について計測と言う確認すらしていない。思いがあるならば、「照合」を最初からきちんとしているはずで、あとから計測し直して「違うかもしれない」などという問題を犯すはずはない(いや、そもそも盗んだ側が、確認出来る情報を元に遺族に会いに行き、謝罪と返還をするべきはずが、HPだけの公開で済ませていること自体が大問題。ネット環境にない遺族は知る由もないのだから)。

『報告書』P17には、山崎春雄解剖学第一講座教授が1931年に浦河郡でアイヌ墓地を発掘。1933年に沙流郡、1934年に旭川のアイヌ墓地を発掘したと書かれています。

1950年に解剖学第一講座は収蔵人骨(アイヌ人骨47体)を解剖学第二講座に移管。

47体のうち19体(杵臼5、東幌別2、野深2、平取1、荷負2、上貫気別6、近文1)は、氏名記載があると書いています。この「平取1」がペンリウク氏の遺骨。発掘年月日は1933年10月20日とあり、さらに、山崎は「アイヌ人骨発掘の意図、アイヌ墓地発掘・アイヌ人骨収蔵にいたる経緯を記していない」と。

『報告書』を読み続けると、1936年7月10日付『時事新報』記事で、「平取の土人が学術研究のため土中から尊敬するペンリウクの骨格を掘り返し北大医学部に寄贈し」、J.バチェラーがそれはアイヌ人骨ではないと異を唱えたが、山崎春雄が計測し、かつ小金井良精が生前に計測した数値と合致したのでペンリウクと確認したと報じている事を紹介。さらに、発掘は「遺族の承諾のもとに行われた」とも。もちろん、これを読んだ土橋さんは怒り、北大に質問書を送り、そのやり取りの途中までが『痛み』に収められています。

土橋さんは遺骨との面会の際、「平取1号と書かれた箱の中に頭蓋骨と少しの骨片があるのみ。頭蓋骨に「平村ペンリウク」とマジックのようなもので書かれた文字を確認」をされたとあります(『痛み』P126)。昨年7月に浦河町杵臼コタンの墓地に80年ぶりに再埋葬された小川隆吉さんのご遺族の遺骨も資料には「全身骨」とありながら、少しの骨と頭蓋骨のみでした。そして、頭蓋骨には大きくマジックで名前が書かれていました。遺骨にマジックで名前を記入することが出来るのも「実験材料」としか扱って来なかったからなのでしょう。

土橋さんはご自分の先祖の名前が北大の納骨堂にある事を知った時、「自分が裸にされ、十字架に架けられ、札幌の大通街にでもさらされているかのような恥ずかしさ、悔しさに涙した」と著書の中で綴っています(P119)。この痛み、悔しさに共感し、わたしたちも協力出来ればと願っています。 

来る、3月18日午後5時より、平取から盗掘された遺骨を考える学習会「先人たちの遺骨を故郷の地 平取へ」が二風谷生活館で行われます。『新版学問の暴力』の著者の植木徹也さんも講演されます。

北大開示文書研究会HP