アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

国連先住民作業部会(WGIP)

2007-02-28 18:15:59 | インポート
国連経済社会理事会は1971年、人権小委員会が先住民に対する差別の実態を調査しそれを是正する処置の提案を認めます(決議1589)。
それを受けて人権小委員会はホセ・マルチネス・コーボを特別報告者として任命。調査結果をまとめたものが、1983年の「コーボ報告書」です(説明は後日に)。
さらに、人権小委員会が、委員のメンバーから5名を選び、先住民作業部会(WGIP)を発足させ、先住民の人権状況の改善状況を検討し、先住民族の権利回復のために取り組むことが認められた(1982年)。
WGIPはできるだけ多くの先住民族をWGIPに招き、差別の歴史や現状、改善方法などの報告を受け、問題点を整理しつつ、それら基づいて権利基準を作っていきます。ここでの先住民族の位置づけは各国政府と対等でした。
多くの先住民族が集まり、語り聞きあうことで、先住民族同士が同じような苦渋の歴史体験を共感しあえた(「『先住民族』という共通した存在性の認識の形成」-参考)と言います。
そして、さらにそれまで交渉のテーブルにつくことのなかった自国の政府に対して説明責任を果たさせて奪われてきた民族としての尊厳・自信を回復し、この人権侵害の問題を、解決されるべき課題として国連に認知させたのです。
これらの働きが、1985年依頼検討され1993年に最終草案として人権小委員会に上げられ、同委員会は94年に無修正で採択し、人権委員会に上程したのです(45条の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」案)

アイヌ民族はこの作業部会に1987年第5会期から参加し、先住民族としての権利を主張されています。
その後、1992年の「世界の先住民の国際年」の開幕式典で、国連の招待で北海道ウタリ協会の当時理事長であった野村義一さんが参加し、記念演説の中で日本政府に対して民族としての自決権の要求をされました。
そのときのVTRや写真をよくみます。
まとめながら勉強になっています。



白老・ポロトコタンのチセと鮭の燻製(右)

参考:「グローバル時代の先住民族」 上村英明監修 法律文化社 2004年9月25日
 以下に紹介しています 

http://u-ko-usaraye.cocolog-nifty.com/


島国・大和民族・単一民族

2007-02-27 15:16:57 | インポート
font size="2">たまたま読んでいた本「日本社会と天皇制」網野善彦著(岩波ブックレットNO.108 1988年2月22日発行)に、
日本は“島国の中の単一民族か”の問いに、はっきりと否と言っています。
「海に囲まれた島国」感覚は、海が人とひとを隔てる役割をはたすと見ているのですが、むしろ、時代を遡ればのぼるほど、海は人と人を結びつける機能を持っていることがわかる、と。

「アイヌはどこまでも続く道(海)を小さな舟ひとつで出かけていって貿易をした」と、あるエカシ(翁)が言われたことを思い出します。海はどこにでもいける道だったのですね。


白老ポロトコタンの湖に浮かぶチプ

もう一つ、よく言われる「日本は均質な民族である」との考え方にも網野さんは否を言います。
たとえば東日本と西日本はイギリス人とドイツ人、スペイン人とイタリア人などの差異と同じぐらい異質だ、と。事例として最近(昭和40年代)の統計でも、東日本人と西日本人の結婚の比率は10%以下だとか(それほど東西の交流が少ない)。そもそも縄文時代から弥生時代に移るのが東日本のほうが200年ほど遅かった、西日本と東日本よりも西日本と朝鮮半島の社会の類似性のほうが高かった、と。

「日本を単一民族とするみかたで、日本の社会をみてしまいますと、そういう違い(東西の全く違った二つの社会)がまったくわからなくなってしまいます」(同著18ページ)

「さらにもう一つ」と、網野さんは、日本と言う国は7,8世紀以来から現在まで「日本国」という一つの国家だけあったという「単一国家」説の批判を続けます。
14~15世紀には確実に成立していた琉球王国、さらに北海道の南部にかかわりがあったであろう夷千島(えぞがちしま)王と名乗る人が活動し、その使いが昆布やトナカイの角、錦・綾などの織物(蝦夷錦?)を持って朝鮮国王に献上したという事実が確実な資料から出てきた、と。当然、アイヌ民族もいたわけです。

asahi.comによると、伊吹文部科学相が、日本について「極めて同質的な国」などと発言したことについて26日、記者団に「単一民族なんて言っていない。日本国民が、大和民族がずっと統治してきた国で、そういう意味で極めて同質性があるということを言った」と述べたとありました。

網野さんの説によればそれも間違いですね。
そして、単一民族とは言ってはいませんが、日本が「日本民族が、大和民族がずっと統治してきた国」と言うときに、少なくともアイヌ民族や琉球王国の人々は入りませんね(もっぱら大和民族とは「本州・四国・九州の領域に住む民族」(ウィキペディア)との説明がありますが)。

「海で隔てられた島国」、「単一民族」という考えから発想すると、「大和民族がずっと統治してきた国で」「極めて同質的な国」となるのでしょうね。

その発言に対して安倍晋三首相は、首相官邸で記者団に対し「(日本は)だいたい仲良くやってきたということじゃないか。特に問題だと思わない」と擁護した(毎日新聞)、と。「だいたい」って?「じゃないか」って? なんだか、真面目な返答ではありませんね。


先住民族のみならず、日本・大和民族・単一民族ということも深めて行きたいです。

アイヌ民芸展 情報

2007-02-26 18:11:24 | インポート
来る3月28日~30日に北海教区中高生春の集いが旭川で計画されているとのことで、
担当の方から29日に川村カ子トアイヌ記念館を見学・実習したいとの相談を受け、
今日、川村館長と久恵さんにお願いに行って来ました。
いろいろ話が盛り上がり、楽しく過させていただきました。
帰りにはKILLAのテープをおみやげに頂きました~ ラッキ~。


なお、新たなイヴェント情報をゲット。
来る3月24日(土)に、旭川近文生活館(錦町14丁目)にてアイヌ民芸展を開催するとのこと。
旭川近郊の方はどうぞ。



新千歳空港でお会いした加藤町子さんデザインの切手


カラフトアイヌの強制連行

2007-02-25 21:46:17 | インポート
1855年の日露和親条約において日本とロシアの国境は千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)の間に定めました。樺太については日本人やアイヌ民族の居住地域を日本領とはしましたが明確な国境線は決められずにいました。さらに、1867年の樺太島仮規則により、樺太をロシア領、得撫島以北を含む千島18島を日本領としました。これらの話し合いにはアイヌ民族は全く無視されます。
その後、1875年(明8)、日露両国はまたもや先住民族の思いを無視して樺太千島交換条約を締結し、樺太をロシア領、千島を日本領としました。
この条約により、開拓使(明治政府)は、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住させました。最初の屯田兵198戸が琴似(札幌市)に入植、以後、各地に移住させます。
翌1876年、宗谷に移住させたアイヌを石狩国対雁に再び強制移住させるのです。
開拓使は強制移住させた人々を定住させようと、戸地を与え、学校や製網所を作り(1877年)、さらに石狩や厚田に魚場を拓くなど(1876年)方策を講じました。
しかし、海に住み、漁業を営んでいたカラフトアイヌは営農になじめなかったため、開拓使は移民鮭魚場を対雁、来札(石狩市八幡町)、知狩、シビシビウに設置(1876年、翌年に来札は増水のため決壊し、対岸の西来札に移設)、
さらに、翌年に厚田に3箇所の鰊魚場を設置し、出稼ぎに行かせるようにしました。
彼らは魚場で仮小屋を建てて出稼ぎ中に生活をしたのですが、徐々に来札などに居を移します。

このころ、和人が持ち込んだコレラや天然痘の度重なる発生で、対雁と来札あわせて約330人が命を落とすという悲劇が起こります。
悲劇を乗り越えながら、1886年前後には生存者の大半が対雁から来札に移動。日露戦争後、南樺太が日本領になると、336人が故郷に戻ります。(「対雁の碑」他、参照)

先日の新千歳空港でお会いした、カラフトアイヌの方のことを思い、簡単にまとめてみました。
彼女の先祖は、カラフトから宗谷地方(サロベツだったか)に強制移住させられたとのこと。残されていない歴史の一部です。

  ※強制移住させた1876年は、アイヌ民族にとって意味の深い年です。同年に開拓使(明治政府)は、
   アイヌ一般に氏(うじ)を用いるように通達、アイヌの戸籍完成。
   仕掛け弓・毒矢の使用禁止、鹿狩規則を定めています。 
  ※対雁=to-e-shikari(沼が・そこで・まわる)の意か。「北海道の地名」山田秀三著より


「樺太移住旧土人先祖之墓」(江別市営墓地 やすらぎ苑内)


いい出会いでした

2007-02-24 19:59:27 | インポート
23日は情報センタースタッフ会があり札幌行きでした。
一年のまとめとあり、活動報告などで3時間半が飛ぶように流れ、結局、大事な会計予算や機関紙ノヤの件は後日、あらためて話し合うことになりました。
大事なスタッフが途中で帰られたので、即、送別会へと流れていきました(苦笑)。

今年度は、より、こまめに旭川や札幌のアイヌ民族の皆さんのところへ通わせて頂いてるため、
昨年以上に情報を得ることが出来、その分、諸行事に参加させて頂くチャンスが多く与えられました。
より早く情報を得、来年はみなさんと一緒に行けるようにしたいです。
活動費は皆さんの募金でなっていますが、今年も大変苦しいです。根本的に見直しを迫られています。

今日はディヴァン宣教師と一緒に千歳空港まで足を伸ばし、空港ターミナルビル2階で開催しているアイヌ工芸品の展示、実演、アイヌ刺繍の講習(主催・北海道ウタリ協会)を見に行きました。
行ったところ、二風谷の彫刻家の高野繁廣さん・啓子さん夫婦がおられ、お話をしました。
偶然、空港に来られたとのこと。刺繍講習を受けながら、二風谷と違うわね~と 高野啓子さん
(啓子さんの刺繍もすばらしいです)。
ふと講師を見ると、見たことのある人だなと思ったら(失礼)、な、なんと加藤町子さんではありませんか。
思わず「数年前の加藤さんデザインの切手を今も大切に持っているんですよ。この間も小川早苗さん(加藤さんの姉)のアトリエに行って加藤さんの刺繍も見たんです」と、興奮してしまい・・・。もちろん、加藤さんはわたしが誰だか分からない。アーティストと一般ファンってこんな感じなのか。

さらに会場をまわっていると、ある方が親しげに語りかけてくださいました「あれ? 逢ったことあるね」
伺うと白老の方なので、先週に訪れたことを言うと、納得されました。
お隣ではトンコリやムックリ販売していたので話が弾み、この間のムックリ・トンコリ大会の話題になり、
あの会場にいてトンコリ大会に出られた話などから、わたしのムックリ13位はすごいと誉められたりしました(なにげに自慢し続けている)。

あるところでは、「わたしはカラフトアイヌです」と言われた方がおられ、ゆっくりお話させていただきました。
その方はロシアと日本の関係を年代も性格に詳しく、さらに短く、分かりやすく説明してくださいました。
わたしも昨年6月に行われた対雁(江別)での樺太移住殉教者墓前祭に参列したことや、「対雁の碑」を読んだこと、小川隆吉さんにガイドをして頂きフィールドワークをしたことなどを話し、あわせていろいろな話が出来ました。また、是非ともゆっくりお話を聞きたいです。感謝な一日でした。


新千歳ターミナルビル2Fにて アイヌ工芸品の展示・実演会

2007-02-22 19:41:59 | インポート
明日の23日は札幌で情報センタースタッフ会があり、その後、長年、アイヌ民族委員会にたずさわってくださった成田信義さん(江別教会牧師)が北海道を離れるので感謝会を行います。
北海道に来られて最初からアイヌ民族の権利回復のために働かれました。わたしも多くを助けられました。
離れるのはさみしいですが、新たな地で豊かに用いられますように。

明後日は足を伸ばして、新千歳空港ターミナルビル2階にてアイヌ工芸品の展示、実演、アイヌ刺繍の講習・ビデオ上映・パネル展示 (主催・北海道ウタリ協会)を見に行こうと思います。
18日から25日(日)まで開催中とのこと。
実は、数年前にセンター関連の来客をお迎えに行ったときに偶然、この工芸展があり、
あるフチ(おばあちゃん)のオヒョウの木の皮で小さな籠を編んでいる実演を感心しながら見ました。
すると、知らぬ内に道新の記者がぼくらの写真を撮り、翌日の新聞に載ったではありませんか。
たまたま翌日、仲間が見つけてくれたので、その新聞を買い、今もその切抜きが我が家の冷蔵庫に貼ってあります。
どうでもいいことですが・・・(笑)。

そんなわけで、はたまたblogも更新できにくくなるので、今日は二つ目を書いている次第です。
近くの山に行って柳の芽を見つけました。
春も、もうすぐですのでテンプレートも春らしく変えてみました。


94年権利宣言案と06年権利宣言案の違い

2007-02-22 17:50:04 | インポート
さて、「先住民族の権利に関する国際連合宣言(案)」(以下、「権利宣言案」)について続きを書きます。
1994年に人権委員会で採択した「権利宣言案」(以下、「94年案」)と、2006年6月に人権理事会で採択した「権利宣言案」(以下、「06年案」)の比較のまとめを常本教授は以下のように述べます(要点のみ記述)。


全体を通して見ると、94年案に比べて、06年案では、自決権は認めるが、その行使にあたっては出来るだけ先住民族の分離独立には行かないように枠をはめ、あくまでも国内における自治というレベルのみにするという方向で修正が加えられた。
さらに、集団的権利というものについても、とりわけ土地に対して返還や代替地に限らず、金銭による保障も入った。
そして、人権の尊重とか民主主義という西欧的な価値観に合致するようにしなければいけないという修正が加わった。
(※「西欧的な価値観に合致する」というのは当然のように考えるかもしれないが、しかし、世界の先住民族のあり方は非常に様々であり、生き方や信条、生活様式を考えるとここで言う西欧的な民主主義とマッチしないような生活を送っている民族は少なくない。そういう点から、この制約は響いてくる。)




以上の修正をして06年6月29日に人権理事会を通過した後、第3委員会にて審議され、2006年11月28日に審議はストップしました。
その際、ペールー案とナミビア案がテーブルに上り、審議されました。

ペルー案は「人権理事会が採択した宣言案を本会議で出来るだけ早期に採択する」ことを提案(イギリス・ドイツなどを含むヨーロッパ諸国と中南米諸国が支持)。

ナミビア案は「極めて重要な内容の宣言であるからコンセンサスによる採択が見込めるようになるまで話し合うべき」と延期を提案(カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・アフリカ諸国が支持)。多数決ではなく、コンセンサスを得て全員一致の賛成というかたちで採択されると、条約と違って法的拘束力がない「宣言」であっても効力が出てくることをナミビア案は意図してのこと。加えて、各国内法との整合性を協議するべきとの点も入れて、継続を主張(否決案ではない)。

結果、賛成82、反対67、棄権25(米・日含)で、ナミビア案が採択され、宣言案は継続となったわけです。

ちなみにオーソトラリア・ニュージーランドがナミビア案を支持したのは両国とも人権理事会国ではなく、人権理事会での採択では反対するチャンスがなかった。しかし、第3委員会では投票権があったため(ペルー案)反対票を投じた。
日本はとある国?の圧力があったために苦渋の選択として棄権したとか。

第3委員会の決議の意義として、恒元教授は、マイナスとして勢いがなくなることを指摘し、
さらに、この決議はペールー案、ナミビア案のどちらに賛成したのがいいかという判断ができるほど単純なものではなく(たとえば、ナミビア案に賛成したカナダ・オーソトラリア・ニュージーランドなどは世界での先住民法のもっとも先進国であり、先住民族を認めその権利を認めている。逆にペルー案に賛成したイギリスやドイツは他人事)、要は、この宣言が自国において直接的だと思っているか、よそ事とおもっているかによることを指摘されました。

今後について、ナミビア案のコンセンサスを得られるかに関しては強力に反対しているオーソトラリア・ニュージーランドがどうなるかによるそうです。さらに自決権や集団的権利がどこまで調整できるかが課題としてあったり、
他方、それぞれの国の内部事情によってこの問題に対する対応が変わりうる。
では、日本はどうかと言うと、宣言の採択には賛成しているとのこと(条件付ではあるが)。

う~ん。分かりやすくまとめたつもりですが・・・。


阿分 あわけ?

2007-02-21 20:33:44 | インポート
今週は所用があっていつもの奨学金関連等の作業は今日だけ行い、
今日もいつもの作業所のおふたりが午前中に来て、事務作業を手伝ってくださいました。
その後、昨日のブログの続きを書くべく、常本教授の講演の要点をテープで起こしていたのですが、音が聞きにくく、1994年に人権賞委員会で採択した「権利宣言案」(以下、「94年案」)と、2006年6月に人権理事会で採択した「権利宣言案」(以下、「06年案」)の比較を文章化するのに難儀してしまいました。
どこかで、06年案が日本語になってUPされるまで待つほうが正確だと思い、今後は常本教授の指摘された部分だけ紹介するようにと思っています。



午前の作業中に出た会話で、興味深いものがありました。
留萌の海岸沿いの南に位置するところに阿分(あふん)という地名があります。
わたしはずっと「あわけ」と読んでいたのですが(「この、あわけっ」って怒られそう)、
ひとりの方が、阿分には「あの世の入口」という意味があると聞いた」と言うので、いつもの「北海道の地名」(山田秀三著)で調べてみました。

するとあるではありませんか。
まず、松浦氏再航蝦夷日誌では「アフセ(セは?)。アフリと訛るなり。小川有」と書いてあるとの説明がされていました。
さらに、永田地名解では「アフニ。入り込みたる処」とあり、説明はこう続くのです。

  「また方々の土地に、アフン・ル・パル「(あの世へ)入る・路の・口→通称地獄穴」
  と呼ばれる洞穴がある。あるいはその意味だったかもしれない」

と。あの世に入る口のことが言及されているではありませんか。
ところで、ここに言われている「方々に、洞穴がある」と言うのはどこだろう。
今までそのような穴があることは聞いたことがなかったので、
今度、太田マルクさんなどに聞いてみようと思います。阿分にもその洞穴があるのでしょうか。
春になったら調べてみる価値がありますね。

この地域を知っておられるエカシやフチが近くに住んでおられたら、その話も伺えたのに・・・。残念です。
でも、マルクさんは数年前に留萌地方のアイヌ語地名の調査に来られていたので、分かるかもしれません。楽しみです。


先住民族の権利に関する国際連合宣言(案)への日本の態度

2007-02-20 16:57:02 | インポート
1/18 blog記事の続きと、
さる2月9日に行われた常本(北大法学部)教授の講演を聞いての報告(2/12 blog)を、
少しづつUPしていきます。

この数年で、国連の先住民族の権利における動きがありました。
昨年(‘06年)の6月29日に人権理事会にて「先住民族の権利に関する国際連合宣言(案)」(以下、「権利宣言案」)が賛成多数で採択され、いよいよ本会議にて審議されることになりました。

しかし、道年11月28日に、本会議の前の第3委員会(人権・社会問題をあつかう部 本会議と同じ191カ国の代表による)にて審議がストップし、現在に至っています。

さて、昨年に「権利宣言案」が人権理事会にて採択された際、賛成は30カ国(日本・イギリス。ドイツ含む)、反対2カ国(カナダ・ロシア)、棄権12カ国でした。

しかし、ここで注が必要で(先日の常本教授の講演より)、投票に当たって各国が、どういう意味で賛否するかの演説をつけるそうです。

その際に、日本が述べたのは

  『自決の権利は国家の領土主権を害さないものと宣言を解釈する。集団的権利は認めない』

というもの。

ここでの、自決の権利とは「民族の政治的地位を自由に決める権利」で、たとえばその国の特別な政治的参加権を得たり、国内に自治区を作る権利なども考えられます。同時に、その国から分離独立する権利も含まれていると考えられています。

そこで日本は、分離独立は認めないとの意味で「領土主権を害さない」を条件としているのです。さらに、集団的権利(民族の土地取得権利)は認めないと。

しかし、このようなことを言っているのは日本ばかりではないと常本教授はイギリスやドイツの例を出しました。
ヨーロッパの国々はかねてから宣言についてはわりと支援する立場ではあり、イギリスもドイツも今回の採決で賛成票を入れましたが、賛成にあたっての演説において

  「宣言に言う自決権は先住民族に特有の権利であり、国家の領土主権を害さないものと考える。」
と日本と同じことを言っています。さらに、
  「自国の国民および領土には本宣言の適応対象は存在しない」


と、自国にも海外領土にも関係がないけれど、いいことだから賛成するよと述べていのです。

その点で言えば少なくとも、日本はそのようなことは述べていなわけですね。

(続く~
 聞いたことを文章化する手間もあり、調べながらのことなのでゆっくりUPしますね)



昨夜の月夜 細く光る月ですが、肉眼では
うっすらと明るく丸い月が見えたので撮ったのですが、これでは真っ暗ですね。


道北地区にある2つのセンター

2007-02-20 09:09:25 | インポート
18日、道北地区委員会出席のため名寄の道北クリスチャンセンターへ。
道北地区は四国ほどの面積を持つ広い地域に点在している10教会・伝道所と2センターがあります。
センターのひとつはわたしたちアイヌ民族情報センター。
もうひとつは、名寄にある道北クリスチャンセンター。


館長のロバート・ウイットマーさんと主事の藤吉求理子さん、そしてウイットマー圭子さんが活躍しています。
センターが行っている道北三愛塾のHP(http://www8.ocn.ne.jp/~sanai333/)から
センターの活動が見られます。



名寄へ行く途中で士別教会を訪問し、礼拝参加と地区アイヌ語説明ポスターをお渡ししました。
地区委員会においてもセンター報告とアピールをさせて頂きました。

先日、紹介したアイヌアートプロジェクトの
メンバーのひとり太田裕実さんのブログには
札幌白石区のミニFM番組「風の帰る場所」のバックナンバーが聞けます。
いろんなゲストとアイヌ関連の歌が聴けます。
(ブログ http://www.with-s.fm/radio/kaze/index.html )



留萌の日没

動物のアイヌ語

2007-02-17 23:05:17 | インポート
今日は、過日、小川隆吉さん宅へお邪魔した際に、頂いた資料をコピーし、
小川さんに資料返却をしました。

その後、再度、センター所蔵のビデオや講演テープのリストを整理していました。
確認すると、あるだろう録音テープなどたくさんリストアップ出来ました。
それらが実際にあるかどうかを調査して、センター資料をより充実させようと思います。
ご期待頂くとともに、皆さんの情報提供もお願いします。



キツネの足跡(この先にはうさぎの足跡もあり、死闘が行われた跡がありました)
以下は、「萱野茂のアイヌ語辞典」を参照して。


 うさぎはアイヌ語ではイセポ isepo (鵡川地方ではカイクマ)
 鹿は ユク yuk (獲物)
 狸は モユク mo-yuk (小さい獲物)
 キツネは ci=ronnu-p(我らー殺すー者)
 熊は カムイ kamy(=神)
 ヨタカは エロクノキ erokroki
   ヨタカの体の白黒の横縞はアイヌの墓標に巻くウトキァという紐に似ている。
   それで墓標に巻いた紐が朽ちて大地に落ち、それを見たオキクルミカムイが
   ヨタカとして魂を与えたと言われる。
   夜、ヨタカに追われたらその素性を暴くと追うのをやめるという)―


高校生(山形県小国町)時代、山でキャンプをし、
クックッ(だったかな?)とヨタカの鳴き声を聞きながらシュラフにくるまって外で寝ていたら、
突然、バタバタと羽音が聞こえ、目を覚ますと、
な、なんと、ヨタカが目の前に羽ばたきながら空中に停止して(変な表現で失礼)、
こちらの様子を伺っているではありませんか。
突かれるなど被害にあうところだったかもしれません。
今度、そのようなことや追われることがあったら「おまえはウトキァやろ~」と正体をばらします!


室蘭知利別教会訪問

2007-02-17 09:38:51 | インポート
昨日(16日)は、朝6時に家を出て、札幌でディヴァン宣教師と待ち合わせ、
アイヌ民族の小川隆吉さんに資料をお返しするべく、お連れ合いの早苗さんのアトリエにお寄りしました。
ゆっくりお話しさせて頂き、室蘭へと向いました。
ディヴァンさんが白老のポロトコタンに行ったことがないというので、途中で寄って行きました。
たまたま、台湾の観光客と一緒にいたので、ポロトコタンでの説明してくださる方が
ほとんど漢民族の単語で説明されていました。
ですから、ディヴァンさんがぼくに日本語で通訳してくれたのでした(笑)
ディヴァンさんも、「なんでわたしが通訳するの?」と大笑い。



ポロトコタンにて 干された鮭  おいしそう!

その後に、室蘭知利別教会を訪問しました。
小橋牧師が歓迎してくださり、苫小牧地区の現状も伺いました。
苫小牧地区は西は洞爺湖教会から東は襟裳岬(幌泉教会)までの海岸線270キロの面積を持ちます。
その中に8教会・伝道所があり、連帯・協力を続けています。
しかし、牧師が少なく、みなさん大変ご苦労されているとの話から、
ディヴァン宣教師に苫小牧地区応援をお願いしようとの話が盛り上がりました。

気がつくと、すでに6時。結局、行きたいと思っていた日弁連(日本弁護士連盟)の
アイヌ民族の権利の勉強会には行けませんでした~。残念。
島松・千歳・苫小牧にも尾よりできず、たしかに無謀な計画だったことを反省し、
夜遅くに留萌に到着。往復600キロの道のりでした。


利尻富士

2007-02-14 22:27:37 | インポート
今日は教会員の方のお見舞いに羽幌病院をお訪ねし、その後に初山別の教会員のお宅を訪ねました。
遠方ゆえ、お二方で一日がおわりますが、常日頃すぐにお会いしてお話できないため、
時々こうしてゆっくりお話できることはうれしいです。
北へ向かう途中、利尻島が「ri・shir 高い・島」 (北海道の地名 山田秀三)のごとく
そびえたっているではありませんか。
太陽の光を受けて雪に覆われた表面が青い海の真っ只中に浮き彫りにされたその姿は
なんとも美しいものでした。


利尻富士 大きな写真で載せられないのが残念です。


往復170キロの道中は、先日の常本教授の講演をまとめるべく繰り返しテープを聞いていました。
頭の回転がよければもっと情報をスムーズにながせるのですか、しかたがありません。
(いそがしいことも言い訳にしていますが・・・すみません)。
神さまが赦してくださることを信じて、マイペースでいきます。

明後日は、台湾ブヌン民族のディヴァン宣教師と共に苫小牧地区の諸教会を訪問します。
予定としては最初に小川隆吉さん宅を訪れ、その後に島松~千歳栄光~苫小牧
~室蘭知利別の諸教会を回る予定です。
時間が許されれば、苫小牧の博物館に寄って、600年前に使われていたチプ(丸木舟)を
見ていきたいと思います(8/26のブログ記事参照)

夜は、弁護士会館にて行われる日弁連の研修会「先住民族の権利」を聞きに行きます。
報告には「アイヌ史資料集人権侵害裁判」で活躍された秀嶋ゆかり弁護士もお話されます。
ひさしぶりにお会いできることを楽しみにしています。


関連イヴェント

2007-02-12 10:01:41 | インポート
先週金曜日(9日)は石狩空知地区の教会の訪問から始まりました。
最初に訪れたのは滝川二の坂伝道所。中田両牧師に歓迎され、昼食もご馳走になり
さらに美唄まで案内して頂きました。美唄教会でも歓迎を受け、会堂を見せていただきました。
その後、江別教会、野幌教会へとお訪ねし、札幌に到着。
30分ほど遅れて、常本照樹(北大法科大学院教授)さんの講演
「先住民族の権利に関する国連宣言と国際人権規約の日本政府第5回報告について」
を伺うべくエルプラザへ。

すると、いい感じのメロディが聞こえてきました。アイヌアートプロジェクトの皆さんです。
小さな子どもも一緒に踊り歌い、以前から注目しているグループです。
先日は聴けませんでしたが今回は満喫しました。
特に、最後の歌はこれまた感動! CD作っていたら絶対買う! 
素敵な歌でした。今も頭で聞こえてきます。メディアにのったら絶対に大ヒットしますよ。
アイヌ発信であり、今を奏でるメロディ性といい、イチ押しです。



アイヌアートプロジェクトの皆さん
(アイヌアートプロジェクトHP  http://members.goo.ne.jp/home/jido0608)


演奏が終わり、お待ちかねの常本教授のお話が始まりました。とても内容も豊富でしかも分かりやすいもので、
大変勉強になりました。
資料をパワーポイントで大きく写してくださったのはよかったのですが、
それらをレジュメとして印刷して頂けたら、持ち帰って再確認できたと思います。
ただ、報告集のようなかたちで資料を印刷される事も言われていたので、楽しみにしたいと思います。
テープもとりましたので、希望をされる方はセンターまでどうぞ。
より詳しくは、今後のブログに続けて掲載します。

翌日(10日)は朝から2・7カデルに向かい、その日から始まった
「北海道アイヌ伝統工芸展」(主催・北海道ウタリ協会)を鑑賞してきました。
きめ細やかな刺繍には感動します。欲しいと思った作品は受賞していました(本日13日12:00迄)
その後はサッポロピリカコタン(小金湯温泉)へ向かい、
「インカルシペ・アイヌ民族文化祭 (主催:ウタリ協会札幌支部)」に行き、
第14回全道ムックリ大会に初出場し、13位と、なんと賞金まで頂きました。
実は優勝を目指していたのですが、はじめての舞台演奏で、
マイクを通したのも初めてだったので、鼻息が聞こえたり(苦笑)、マイクにムックリが当たったりで
ずいぶんと下がってしまいました。残念。
しかし、わたしより上手な方がたくさんいました。
音も魅了しますが、奏でている姿も優雅な方が多かったです。
賞金はこれからを担うアイヌの子どもたちへとお返ししました。
さて、来年に向けて今日もムックリの練習を始めるとしますか。


国際人権規約 第5回報告

2007-02-08 15:45:51 | インポート
明日(2/9)はいよいよ常本照樹(北大法科大学院教授)さんの講演「先住民族の権利に関する国連宣言と国際人権規約の日本政府第5回報告について」が札幌エルプラザで行われます。
そのためにあらためて日本政府報告を調べたところ、外務省HPの人権のところにありました。
93頁もの報告ですが、その最後に「第27条」として「少数民族の権利」の項目でアイヌ民族のことが短く報告されています。
一読して感じることはアイヌ文化の保存と振興についてはお金を出しているよ、と言ってるのが分かる文です(アイヌの生活向上にも出してるとも)。しかし、以前の日誌にも書いたように民族としてのアイヌに関しては触れられていません。当然、「アイヌ民族」という言葉は避け、「アイヌの人々」であり、民族としての権利についても何も書かれていません。

いっぽう、外務省は今回の報告書作成に関して、意見募集と非公式ヒアリングの案内を人権問題に関わる各NGOに向けて送付したようです(2003年9月)。しかし、その「ヒアリング」というのは、NGOの質問や要望に対して政府は回答する必要はないことを明言しての開催で(何のためのヒアリング? 一応はみんなの意見は聞きましたよという見せかけでしょうか)、NGOからヒアリングのあり方について要望が出されていますね。
(参照:http://www.imadr.org/japan/statements/oct.1st.2003.html)

この4月から開設される北大の「アイヌ・先住民研究センター」におおいに期待します。法的な面でも他国の先住民族の権利を調べ、アイヌ民族のために役立ててもらいたいものです。早くセンター名称の「アイヌ」と「先住民族」の間にある“・”(中黒)がなくなり、アイヌ民族と正しく呼ばれるように。

明日の講演会後も一杯いきますか。参加される方、ご一緒しましょうか。




野幌の百年記念塔
(アイヌ民族にとっては侵略の塔だと、あるエカシは語ります)