台湾の先住民族の皆さんは自称「原住民族」(ユェンツーミンツー)と呼びます。なぜなのかについては、たしか自分たちが決めたとしか聞いていませんでしたが、歴史とそのわけを知りました。※1
数日前のblogに表にしましたが、1994年に正名運動(ジェンミンユンドン)により、憲法条文にある「山地同胞」という呼称から「原住民」という正式名称に変更させることを勝ち取りました。
原住民族はそれまで、様々な呼ばれ方をしてきています。
「番」(清朝時代)、
「蕃人」「蕃族」「高砂(たかさご)族」(日本時代1895-1945年)
「高山族」「山地同胞」(中華民国時代)
民間では「番仔(ホァナ)」(ホーロー語=中国大陸南部から渡ってきた人々のうちマジョリティの言葉 での差別語)で呼ばれた歴史があるとのこと。
自称を「先住民族」(シェンジュミンズー)とする案も出たようですが、中国語の語感での「先」には「すでに滅んでしまったもの」という意味が含まれることから、「もともとの」という意味をより強く持つ「原住民族」が広く採用されることになったそうです。知りませんでした。
正式呼称への要求運動は、このような過去の差別の事実を明らかにし、正しい理解と、権利やアイデンティティーの回復にもつながりますね。
翌年の1995年に「姓名条令」が修正公布されましたことも大きなことですね。
この修正によって自分の本当の名前が認められ、戸籍に登録されることが出来るようになりました。
隣町の増毛(ましけ)の港
アイヌ民族の歴史を見ると、1871年(明4)に戸籍法制定でアイヌは「平民」に編入されます。この年開拓使による耳輪、入墨、家屋葬送等が禁止され、日本語の使用を強制されます。すなわち、皇民化が強制されていくのです(強制同化政策)※2。この時はまだアイヌ名で良かったようですが、1876年(明9)、開拓使はアイヌ一般に氏を用いるように通達し(創氏改姓)、アイヌの戸籍が完成されます。1978年(明11)には「旧土人」と名称統一され、この頃には創氏改姓はほぼ完成されたといわれます。※3
現在は法的にアイヌ民族名を禁止されているわけではありません。が、先のように自分たちの民族名やアイヌ語での正式名を禁止された長い「失われた時代」があったこと、さらに、植えつけられた差別という壁が今もアイヌ語名を付けることを阻ませているのかと考えます。
台湾に話を戻しますが名前を回復させて以後、原住民族の権利回復の動きは加速されていきます。1996年には、中央政府レベルの原住民族専門の行政機関「行政院原住民委員会」が設置されました(のちに原住民族委員会と改称)。1998年には「原住民族教育法」が公布されました。それ以後は前回blogと重なりますのでご覧下さい。
参考
※1 中村平著「台湾先住民族(原住民族)の10年を振り返って」『先住民族の10年News』115号より。
※2 上村英明著「知っていますか? アイヌ民族一問一答」(解放出版)
※3 宮島利光著「アイヌ民族の歴史と日本の歴史」(三一新書)
25日世界先住民族ネットワークAINUの創立の集いでのアイヌ・アート・プロジェクトの演奏。最後は大きなリムセ(輪)になって踊りました。
そうそう、26日の北海道新聞の写真にはわたしの姿も映っていたと書きましたが、道新のHPでカラー写真が出ていたのを見たら、わたしではありませんでした。似ていたのですが、違うことが決定的となったのは腕時計(わたしは時計を持ち歩きません)。
今日は奨学金の事務と明日の準備で部屋にカンヅメでした。明日、明後日は北海教区総会のために札幌です。
数日前のblogに表にしましたが、1994年に正名運動(ジェンミンユンドン)により、憲法条文にある「山地同胞」という呼称から「原住民」という正式名称に変更させることを勝ち取りました。
原住民族はそれまで、様々な呼ばれ方をしてきています。
「番」(清朝時代)、
「蕃人」「蕃族」「高砂(たかさご)族」(日本時代1895-1945年)
「高山族」「山地同胞」(中華民国時代)
民間では「番仔(ホァナ)」(ホーロー語=中国大陸南部から渡ってきた人々のうちマジョリティの言葉 での差別語)で呼ばれた歴史があるとのこと。
自称を「先住民族」(シェンジュミンズー)とする案も出たようですが、中国語の語感での「先」には「すでに滅んでしまったもの」という意味が含まれることから、「もともとの」という意味をより強く持つ「原住民族」が広く採用されることになったそうです。知りませんでした。
正式呼称への要求運動は、このような過去の差別の事実を明らかにし、正しい理解と、権利やアイデンティティーの回復にもつながりますね。
翌年の1995年に「姓名条令」が修正公布されましたことも大きなことですね。
この修正によって自分の本当の名前が認められ、戸籍に登録されることが出来るようになりました。
隣町の増毛(ましけ)の港
アイヌ民族の歴史を見ると、1871年(明4)に戸籍法制定でアイヌは「平民」に編入されます。この年開拓使による耳輪、入墨、家屋葬送等が禁止され、日本語の使用を強制されます。すなわち、皇民化が強制されていくのです(強制同化政策)※2。この時はまだアイヌ名で良かったようですが、1876年(明9)、開拓使はアイヌ一般に氏を用いるように通達し(創氏改姓)、アイヌの戸籍が完成されます。1978年(明11)には「旧土人」と名称統一され、この頃には創氏改姓はほぼ完成されたといわれます。※3
現在は法的にアイヌ民族名を禁止されているわけではありません。が、先のように自分たちの民族名やアイヌ語での正式名を禁止された長い「失われた時代」があったこと、さらに、植えつけられた差別という壁が今もアイヌ語名を付けることを阻ませているのかと考えます。
台湾に話を戻しますが名前を回復させて以後、原住民族の権利回復の動きは加速されていきます。1996年には、中央政府レベルの原住民族専門の行政機関「行政院原住民委員会」が設置されました(のちに原住民族委員会と改称)。1998年には「原住民族教育法」が公布されました。それ以後は前回blogと重なりますのでご覧下さい。
参考
※1 中村平著「台湾先住民族(原住民族)の10年を振り返って」『先住民族の10年News』115号より。
※2 上村英明著「知っていますか? アイヌ民族一問一答」(解放出版)
※3 宮島利光著「アイヌ民族の歴史と日本の歴史」(三一新書)
25日世界先住民族ネットワークAINUの創立の集いでのアイヌ・アート・プロジェクトの演奏。最後は大きなリムセ(輪)になって踊りました。
そうそう、26日の北海道新聞の写真にはわたしの姿も映っていたと書きましたが、道新のHPでカラー写真が出ていたのを見たら、わたしではありませんでした。似ていたのですが、違うことが決定的となったのは腕時計(わたしは時計を持ち歩きません)。
今日は奨学金の事務と明日の準備で部屋にカンヅメでした。明日、明後日は北海教区総会のために札幌です。