アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

聖公会伝道師 辺泥五郎の足跡

2008-07-29 08:43:31 | インポート
昨日の講演2は「祖父・辺泥五郎の足跡をたどって」で、講師はお孫さんの近森聖美さん。

辺泥五郎さんは1878年釧路の春採コタン生まれ。
5歳の時、アイヌ民族27戸と共に30キロ離れたセツリ(雪裡)川の上流(現阿寒郡鶴居村)に強制移住させられる中に入っています。
移住はアイヌ民族の貧困を救済するべく農耕で自活させるという名目でしたが、実情は、釧路は鳥取士族らの移民の増加でようやく市街地設置が整い始めた中、中心地である米町、南大通、幣舞町からアイヌを追い払うのが目的でした。
与えられた土地も当時与えられるべき半分の1町歩しか認められず、さらに現地ではそれのまた半分、すなわち4分の1しか与えられなかったようです。窮地に陥ったアイヌは春採や他の漁場に出稼ぎにでるなどして、1998年には14戸だけになったとのこと。

以下の情報も得られました。

食料給与も認められなかったが、当初は鮭漁が可能であった。ところが和人漁師が沖取りまたは河口での漁獲により、鮭の遡上を阻止したから、鮭は急減した。さらに一八九三年和人のみの釧路漁業組合の出願により、雪裡川は天然孵化場に設定され、五月から十一月までの漁獲を禁じたから、鮭の漁獲は困難となった。またこれまで無税であった薪木へも課税されるようになり、一部は餓死し、出稼ぎや再移住するものがつづいた。漁業権や税法など近代法の整備が、少数民族の生活を根こそぎ奪った事例である。

「内国植民地としての北海道」( 田村貞雄,内国植民地としての北海道,大江志乃夫ほか編,岩波講座近代日本と植民地1植民地帝国日本,岩波書店,1992.11., pp.87-99)より引用
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/hokkaido1.htm

このような強制移住はいたるところで行なわれていたのですね。


大変、苦労した中で辺泥五郎は幼少期を過し、その後、英国聖公会宣教師J・バチェラーから影響を受けて1897年に受洗。当時、札幌に住んでいたバチェラーの元で学んでいた時に、アメリカ・セントルイス万博行きの話があり、自ら志願して渡米。

その時のこぼれ話もおもしろい。
セントルイスにアイヌ民族を連れてくるよう頼まれたフレデリック・スターは最初に札幌のバチェラーのところに赴きます。そこで会った辺泥は、何度も渡米を希望するのですが、スターは七三分けした「西洋かぶれ」の彼には目もくれなかった、とか。しかし、ローマ字を学び英語も出来たので通訳として許可が出たようです。
(セントルイス万博に関しては 2007年10月3日と12日のブログ参照)

帰国後、函館の神学校にて学び、伝道師として1906年に胆振支庁鵡川村のチンコタン(汐見2区)に創設された日本聖公会鵡川講義所(のちに鵡川珍聖公会)に着任。
1940年にいったん辞任し、特志伝道師として働く。

万博参加のつながりで、1913年の大凶作時をはじめ、たびたび米国から食料救済の援助を受けて人々を喜ばせたり、託児所を始めるなどの地域への奉仕を行なって朝日新聞から賞を得たりしたようです。

アイヌ民族の間ではアイヌ青年団を作り、雑誌「ウタリ乃光リ」を発行(~15号で廃刊)するなど、尽力したようです。
(「ウタリ乃光リ」は「アイヌ民族近代の記録」小川正人・山田伸一編集 草風館に収められているので読むことが出来ます)

バチェラーを含め、キリスト教が及ぼした影響はいかなるものだったかは、わたしのこれからの課題です。そのような意味で、手がかりがひとつ出来ました。



札幌途中で見つけた広大なひまわり畑
秋になったらハム太郎たちは大喜びでしょうね~