今日は11月最後の日。ブログ更新もそれなりに出来ました。いつも見て下さり感謝です。
冬に入り、寒い日が続きますのでブログも暖かみのある配色で模様替えをしました。
今日はアイヌ民族委員会で札幌に出ます。ついでに調べものもしてきます。
遅くに帰ることになるので、今のうち更新しておきます。
昨日の補足ですが、
バチェラーさんは幌別の愛隣学校をはじめとして、春採(はるとり1891)、
茂尻矢(もしりや1891)、頓化(とんけし1891)、塘路(とうろ1891)、白糠
(しらぬか?年)、姉去(あねさる?年)、函館(1893)、白人(ちろっと1896)
釧路、十勝に学校を設立します。
その生徒の中から優れた教育者や伝道者が出ています。
アイヌ語を使用禁止にした政府はこれに危機感を持ちます。
そこで1901年にアイヌ小学校(一般に「土人学校」と称した)の設立に踏み切ります。
「旧土人保護法」7,9条にそって、1901年より10ヵ年計画で行なわれました。平取から始まり、
1940年の全廃までに29校が設けられます。
その教育内容は偏ったもので、アイヌは「心性ノ発達和人ノ如クナラザル」として一般の修学年齢より
1年遅らせて7歳からとしたり、6年制を4年間に短くしたり、科目も歴史、地理、理科は除かれ、
「修身と国語とは国民的性格養成上特殊の地位を占むべく…」と、皇民化教育を徹底するものでした。
アイヌ語も禁止され、さらに時々、「高貴な来賓=皇族」が来て見世物にされたりと、
民族固有の文化を尊重し守り育てる教育ではなく、民族性を全面的に否定し皇民化を行なったわけです。
そんな中で、バチェラーさんは堂々とアイヌ語を教えていたわけです。
また、ご存知のように教会においてもアイヌ語を用い、聖書もさんびかもアイヌ語で翻訳して用いたのです。
※明治政府はもう少し前からアイヌの教育をしています。
1877年に対雁に学校設置、その後も瀬棚、千歳、白糠など学校を建て、
中には農耕を熱心に教えたりしたものもあったのですが、ほとんどはアイヌ
文化に理解のない押し付けだったためこどもたちは激減し、失敗に終わっています。
小川正人著「近代アイヌ教育制度史研究」参照
寒い日が続きます。ご自愛下さい。
冬に入り、寒い日が続きますのでブログも暖かみのある配色で模様替えをしました。
今日はアイヌ民族委員会で札幌に出ます。ついでに調べものもしてきます。
遅くに帰ることになるので、今のうち更新しておきます。
昨日の補足ですが、
バチェラーさんは幌別の愛隣学校をはじめとして、春採(はるとり1891)、
茂尻矢(もしりや1891)、頓化(とんけし1891)、塘路(とうろ1891)、白糠
(しらぬか?年)、姉去(あねさる?年)、函館(1893)、白人(ちろっと1896)
釧路、十勝に学校を設立します。
その生徒の中から優れた教育者や伝道者が出ています。
アイヌ語を使用禁止にした政府はこれに危機感を持ちます。
そこで1901年にアイヌ小学校(一般に「土人学校」と称した)の設立に踏み切ります。
「旧土人保護法」7,9条にそって、1901年より10ヵ年計画で行なわれました。平取から始まり、
1940年の全廃までに29校が設けられます。
その教育内容は偏ったもので、アイヌは「心性ノ発達和人ノ如クナラザル」として一般の修学年齢より
1年遅らせて7歳からとしたり、6年制を4年間に短くしたり、科目も歴史、地理、理科は除かれ、
「修身と国語とは国民的性格養成上特殊の地位を占むべく…」と、皇民化教育を徹底するものでした。
アイヌ語も禁止され、さらに時々、「高貴な来賓=皇族」が来て見世物にされたりと、
民族固有の文化を尊重し守り育てる教育ではなく、民族性を全面的に否定し皇民化を行なったわけです。
そんな中で、バチェラーさんは堂々とアイヌ語を教えていたわけです。
また、ご存知のように教会においてもアイヌ語を用い、聖書もさんびかもアイヌ語で翻訳して用いたのです。
※明治政府はもう少し前からアイヌの教育をしています。
1877年に対雁に学校設置、その後も瀬棚、千歳、白糠など学校を建て、
中には農耕を熱心に教えたりしたものもあったのですが、ほとんどはアイヌ
文化に理解のない押し付けだったためこどもたちは激減し、失敗に終わっています。
小川正人著「近代アイヌ教育制度史研究」参照
寒い日が続きます。ご自愛下さい。