アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

カラフトアイヌの強制連行

2007-02-25 21:46:17 | インポート
1855年の日露和親条約において日本とロシアの国境は千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)の間に定めました。樺太については日本人やアイヌ民族の居住地域を日本領とはしましたが明確な国境線は決められずにいました。さらに、1867年の樺太島仮規則により、樺太をロシア領、得撫島以北を含む千島18島を日本領としました。これらの話し合いにはアイヌ民族は全く無視されます。
その後、1875年(明8)、日露両国はまたもや先住民族の思いを無視して樺太千島交換条約を締結し、樺太をロシア領、千島を日本領としました。
この条約により、開拓使(明治政府)は、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住させました。最初の屯田兵198戸が琴似(札幌市)に入植、以後、各地に移住させます。
翌1876年、宗谷に移住させたアイヌを石狩国対雁に再び強制移住させるのです。
開拓使は強制移住させた人々を定住させようと、戸地を与え、学校や製網所を作り(1877年)、さらに石狩や厚田に魚場を拓くなど(1876年)方策を講じました。
しかし、海に住み、漁業を営んでいたカラフトアイヌは営農になじめなかったため、開拓使は移民鮭魚場を対雁、来札(石狩市八幡町)、知狩、シビシビウに設置(1876年、翌年に来札は増水のため決壊し、対岸の西来札に移設)、
さらに、翌年に厚田に3箇所の鰊魚場を設置し、出稼ぎに行かせるようにしました。
彼らは魚場で仮小屋を建てて出稼ぎ中に生活をしたのですが、徐々に来札などに居を移します。

このころ、和人が持ち込んだコレラや天然痘の度重なる発生で、対雁と来札あわせて約330人が命を落とすという悲劇が起こります。
悲劇を乗り越えながら、1886年前後には生存者の大半が対雁から来札に移動。日露戦争後、南樺太が日本領になると、336人が故郷に戻ります。(「対雁の碑」他、参照)

先日の新千歳空港でお会いした、カラフトアイヌの方のことを思い、簡単にまとめてみました。
彼女の先祖は、カラフトから宗谷地方(サロベツだったか)に強制移住させられたとのこと。残されていない歴史の一部です。

  ※強制移住させた1876年は、アイヌ民族にとって意味の深い年です。同年に開拓使(明治政府)は、
   アイヌ一般に氏(うじ)を用いるように通達、アイヌの戸籍完成。
   仕掛け弓・毒矢の使用禁止、鹿狩規則を定めています。 
  ※対雁=to-e-shikari(沼が・そこで・まわる)の意か。「北海道の地名」山田秀三著より


「樺太移住旧土人先祖之墓」(江別市営墓地 やすらぎ苑内)


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