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あれこれ検討?(その6)

2023-06-25 07:10:10 | 歴史

香春岳周辺の銅鉱山はどんな様子か?

これもいろいろ調べた資料あります。

香春岳周辺の銅鉱山、地図で見ると三の岳周辺の北部域に鉱山跡が多い様です。

 

                                                 

 

現時点では10箇所強の鉱山遺跡が発見されていますが、各遺跡とも採掘時期は近年の明治期以降が主流です。

鉱山周辺では古い時代の遺構は発見されてないものの、元々ないのか、埋没しているのか、消滅したのか、どーなんでしょう?

ただ長光遺跡の様に平安時代付近にまで遡る銅精錬?の遺跡もあるため、当然その頃に掘られた鉱山ある筈です。

やはり、長登鉱山同様、今後の考古学調査が待たれます。

鉱山資料はこんな様子で纏められています。

 

                 

 

また、香春岳周辺の銅鉱山を調査した資料もあります。

この銅山、現在は特に遺構等は残されておらず、1980年(昭和55年)頃に都市計画の工事等により、撤去された記録があります。

資料によれば、陽成天皇の時代(880年頃、元慶時代の資料)に掘られた銅鉱山の可能性がある様ですが、詳細な時代考証はされていない感。

 

                 

 

以上の結果からは、香春地区周辺の銅が長門へと運ばれた可能性は低い様子ですが、地元郷土史家は

奈良の大仏や皇朝十二銭の原料は、この香春の銅が使用され、時として周防国に運ばれていると考えており、

前記資料中に各種の論考があり、ロマン感じます。

 

なお銅精錬遺跡とは異なりますが、香春岳周辺に磁鉄鉱を原料とした鉄生産遺跡があります。

国道バイパス建設に伴い実施した発掘調査で出土した製鉄遺跡とのことで、

製鉄炉操業時の鉄滓が10t以上出土する遺跡で、出土土器から950~1250年(10世紀後半~13世紀中頃:平安~鎌倉時代)

に操業したと考えられる製鉄遺跡で、宮原金山遺跡と命名されています。

金属精錬の技術者がこの域にいたと考えられるため、より時代を遡っての金属製錬系の技術集団があっても

おかしくはないのですが・・・・、なかなかその種の資料は見つからない様です。

 

 

 

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あれこれ検討?(その5)

2023-06-20 17:50:18 | 歴史

次はこれ!

2. 考古学史料からの同鉱山での銅採掘の可能性

長登鉱山自体からは各種考古学史料見つかっていますが、長登周辺ではどんな採鉱関係の遺跡があるのか?

銅精錬に関係する周辺遺跡は、国秀、中村、於福金山、平原第Ⅱ遺跡等があり、600~700年代の長登銅山以前~同時代の遺跡になる様です。

いろいろな金属関連の遺跡があるため、長登一帯は銅の一大生産地と考えても良かったのでしょう!

では、香春周辺にはその種の遺跡等があるのか?

あればより長門鋳銭司への銅の供給の可能性も高まるのだが、どんなもんだろう?

まずは本体の香春岳周辺の各種遺跡調べてみましょう!

ここに前回書いた購入書籍が役に立ちます!!

これらの資料にもいろいろ書かれていますが、香春町のHPにしっかり古代の遺跡に関する資料が纏められています。

それによれば、うーん残念ながらこっちが思う様な遺跡はない様です。

簡単に時代毎の遺跡を示してみましょう。

・旧石器時代 約1.3万~2.2万年前

五徳畑ヶ田~湯無田遺跡   出土品は当然石器類で、目ぼしいものはありません。

・縄文時代  約2400~1.3万年前

五徳畑ヶ田~湯無田遺跡 縄文中期~晩期の土器片、打製石斧、土偶等が出土、銅関係の出土はありません。

二の岳遺跡  黒曜石石鏃が発見されている。

・弥生時代  約1800~2400年前

遺跡の数が一気に増加しており、人の流入が予想されます。

五徳畑ヶ田、ミノ・大熊、宮原、岩原、上高野、一本松遺跡等で、集落跡や墓地が見つかる。

甕、高杯等の土器、磨製石斧、石戈、石族が出土。

宮原遺跡では内行花文鏡等4枚の青銅鏡が出土した石棺墓群墓が出土。

浦松古坊遺跡では石棺墓や土壙墓合わせて20基が出土。

上記の時代同様、どの遺跡からも銅絡みの遺構や滓等の出土はない感じ。

・古代 飛鳥~平安時代前半(約1200~1800年前)

長光、宮原金山遺跡で、銅や鉄の製錬跡等の遺構が確認されている。

これらはいわゆる和同開珎の鋳造時期より遅く、長門鋳銭司との関連は低く、あっても周防鋳銭司絡みか?

とはいえ、より新しい時代での銅や鉄精錬の遺構はあるため、長光遺跡周辺はまだまだ古い銅関連の製錬遺跡存在の

可能性あるかも知れません。

地図で見ると、こんな様子です。

 

                                                                 

 

 

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あれこれ検討?(その4)

2023-06-14 20:41:33 | 歴史

先ずはこの方、地元の郷土史家が論文?資料として纏めたのかと思い、名から検索!

結果は人文系の大学教育学部の研究者で、それなりの研究履歴もあり、そこそこの研究者。

となれば、信頼性ある資料として考えられるため、しっかり読み解く必要ありそうです。

確かにこの方、他の文献としてー金属伝説で日本を読むー(2018年 東信堂)を出版しています。

 

この資料で、これらの地区に関し、どう書いているか、調べてみます。

論文の流れからは、地元(下関)の伝説からこの地の銅山の歴史を検証し、長門鋳銭司を考察している。

この論説もなかなかのものですが、ここでは本題から外れるため割愛しますが、今後の課題には・・・。

この地の銅採掘、製錬を行った渡来人部族の存在を推察し、その部族が祭ったと考えられる神々からその部族の実態を検討しています。

香春岳の銅は、和同開珎の原料として利用されたとしており、この根拠に『北九州市立考古博物館常設展示図録』(1985)を挙げています。

そこには和同開珎の原料に香春岳の銅の供 給が書かれており、その根拠等、一考に値するのか?

香春の地名は朝鮮由来、銅の関与があるとし、香春岳の周辺にある神社には新羅系渡来人由来の神々が祭られていると考えている。

 

先ず豊前国最古の神社といわれる古宮八幡宮を取り上げよう。社伝によれば古宮八幡宮は709年(和銅2年)に創建された。

この神社、もともと香春岳の三の岳山麓の阿曽隈の地に祭られ、1599年に牛斬山の東側の現在地に移転したものである。

祭神は豊比曄命であり、のち859年(貞観元年)に神功皇后と応神天皇の二神を勧請して八幡宮となった。

 

次は香春岳の一の岳山麓に位置する香春神社である。社伝によればこの神社は250~350年頃(崇神朝)の創建とされる。

祭神は第一座に辛国息長大姫大目命、第二座に忍骨命、第三座に豊比売の三神である。

主神である辛国息長大姫大目命について、谷川健一氏は辛国は韓国すなわち新羅国であり、息長は「ブイゴの風がよく通る」の意味で、

大姫は巫女的性格を示し、大目は「ダイマナコ」で「一ツ目の鍛冶神」につうじるものと解釈している。

すなわち「新羅からやって来て、ふいごを使って銅を鋳造する一つ目の神に仕える巫女」と捉えている。

第二神忍骨命について、谷川氏は「忍」は「大」、「骨」は「穂」で、『記』『紀』にいうところの天忍穂耳命であり、

それは天大耳命につうじ、南方渡来系種族の奉斎した神ではないかとしている。

第三神豊比売は、この地の地母神とみるのが妥当といえるだろう。ただし豊国につうじる豊比売の名称の由来については

未解決の問題といわなければならない。

 

香春岳の三の岳の東方には都怒我阿羅斯等を祭神とする現人神社がある。この神社について金達寿氏は香春岳をとりまく古宮八幡宮、

香春神社、現人神社のうち、この現人神社が最も古い神社であると考えているが、他の研究者は必ずしもそうではないと、

研究者により、いろいろな説がある様です。

香春岳をめぐってはもう一つ、ニノ岳の山麓に最澄の建立とされる天台宗の神宮院がある。最澄は唐に渡るに際し、

航海の安全を願って宇佐八幡宮と賀春(香春)神社に参詣し,無事帰朝したのち神宮院を建立したとされる。

最澄や空海と香春の地がどのような関係にあったかは定かではないが,彼らの学んだ密教は採鉱と深いかかわりをもつ山岳宗教であり、

そのような観点から神宮院の存在は理解しなければならないと思われる。つまり古代採鉱地帯が最澄・空海を引き寄せたということである。

 香春岳をめぐっては以上のような寺社が存在する。その寺社と祭神についての検討結果をまとめれば、まず新羅系渡来人が採鉱目的にこの香春の地に渡来し、

地母神として古宮八幡宮の主神としての豊比嘩命を祭り、それがのちに辛国息長大姫大目命と重ね合わされて香春神社に祭られた。

祭神等から採鉱関係や朝鮮系の関与が考えられ、かなり古い時代から銅等の鉱石採掘がなされていたとも想定される。

 

以上の点からは、香春の銅鉱石が長門鋳銭司に運ばれ使用された可能性は高い!と考えてもさほどおかしくはない?と思うのはオラッチャ1人?

 

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あれこれ検討?(その3)

2023-06-10 10:00:12 | 歴史

先ずはこれから検討しましょう!

1. 過去の文献からの香春鉱山の銅採掘に関する可能性

いろいろ文献ありますね。

最も有名なのがこれか!

香春の銅山ってことではないが、銅鉱石の発見が世の中に関与した出来事。

それを記述している文献は「続日本紀」巻四になります。

現在の埼玉県秩父市黒谷(武蔵国秩父郡)から和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊が発見され、朝廷に献上された。

それを祝い年号が慶雲から和銅に改められ(708年)、その年に作られた銅銭が「和同開珎」?である。

あまりに出来すぎな感、実際いろいろ意見もあるし、それ以外、それ以前の銅銭に関する文献もある様です。

実際この文献には「和同開珎」の名はなく、銅銭=和同開珎かは?の点も。

その時代、どんな文献があるか、年代順に並べてみましょう。

あれこれ調べようと思ったら、先日購入の資料にしっかり論文ありました。

郷土史誌 かわら 第86集 「日本における銅生産の始まり ー文献史料・考古資料・鉛同位体比分析の総合化」 亀田修一

上記史料より古い7世紀末(650~700)に、最も古い銅等の鉱物生産に関する史料がある様です。

その中から山口、福岡県に関する文献史料を抜粋してみます。

698 「続日本紀」文武天皇2年9月壬午(25)条   「周芳国献銅鉱。」 

710 「続日本紀」和銅3年春正月丙寅(15日)条    「大宰府献銅銭。」

713 「豊前国風土記」逸文(和銅6年編纂命令)         「田河郡 鹿春郷・・・第二峯有銅・・・。」

730 「続日本紀」天平2年3月丁酉(13日)条      「周防国熊毛郡牛島西汀・・所出銅・・以充長門鋳銭。」

7~8世紀にかけて、ほぼ同時期に福岡・山口の銅や銭に関する史料がある。

これらから7世紀末ころから、日本で銅が生産され始めたことが推測される。としています。

全国的には因幡、周防、武蔵、豊前、長門が生産国として挙げられ、9世紀以降の史料では石見、山城、備中、備後、美作、備前、摂津の国がある。(計12ヶ国)

 

上記史料や同時期に出現する「鋳銭司」や「催鋳銭司」と云う単語がある。

「鋳銭司」:貨幣鋳造を専業とする宮司で、持統・文武朝よりみられる。

「催鋳銭司」:大宰府や国司が行う鋳銭事業を監督し催促する宮司と考えられる。

これらから大宰府で銅銭を鋳造、献上した?とも考えられ、大宰府での銅銭の原料供給地として豊前の香春を充ててもおかしくはない。

ただ残念ながら大宰府と鋳銭所が結びつく史料は見当たりません。

現時点で判明している鋳銭司(鋳造所)は、中国地方以西では山口県の長門・周防のみの様です。

 

さらにあれこれネットで見ていると、いろいろ面白い論文、ブログありました。

先ずは「古代採鉱民族の構成 ー長門・周防・豊前を中心にー」  井上孝夫

正にドンピシャ、こっちが探してる内容の文献?です。

緒言の文章、チョイ問題ある感ですが、問題の豊前に関しどう纏めているか?が問題。

次回、この文献中心に、銅採掘に関する史料を纏めてみましょう。

 

 

 

 

 

 

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あれこれ検討?(その2)

2023-06-05 07:16:22 | 歴史

鋳銭司講習会では、銅銭の原料は長登や蔵目喜鉱山からの銅鉱石との結論であった。

こっちの思いは、香春の銅鉱石も使われていたのでは?との思い。

残念ながら、それはないとの回答であったため、うーん実際どーなのかな?の素朴な疑問である。

 

なんせ、エリアとしては、長門鋳銭司(下関市長府)は、香春・長登、距離的にはほぼ同範囲と云うよりより近い。

 

                  

                   

これらの鉱床形状(スカルン鉱床)にも、差があるとは思えない。

また最初の鋳銭司が長門であれば、なおのこと長登、香春と、距離的な点でもより近いのでは?

 

称徳天皇・道鏡における宇佐八幡宮神託事件(769年)に関する銅鏡も、香春で造られた銅鏡が関与とも。

この八幡宮の放生会に奉納する御神鏡の鋳造は養老四年(710年)からとも云われており、かなり

古い時代から鉱山があったとも考えられる。

そーなると、当然銅銭鋳造の時期とも重なり、どーなの?の思い。

 

そんな考えをもとに、以下の流れで資料を当たり、その可能性を考察してみよう。

その方法として3種類のアプローチで検討してみる。

1. 過去の文献からの香春鉱山の銅採掘に関する可能性

2. 考古学史料からの同鉱山での銅採掘の可能性

3. 銅銭や銅鉱石からの化学分析結果による同鉱山鉱石使用の可能性

 

実際どーなるかな?

大部分は過去資料の蒸し返し、それでも考え方で結果に差がでる?

 

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