goo blog サービス終了のお知らせ 

新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

古代の仙台-秋田連絡路

2025-03-04 22:55:59 | 秋田古代史

今日は東京でも雪の予報で、恒例の大騒ぎ状態。こちらは3月に入ってからは雪は降るものの積もるほどではなくとける方が多いため、積雪はピーク(2/23)の126cmから70cm台まで減ってきて、玄関前の水路沿いは地面が出始めた状態になってきましたし、運動不足で少し体がなまり始めています。

さて、歴史のお勉強は秋田に出羽柵が移された(733年)時の話。陸奥国の国府は多賀城が724年に出来、出羽国の国府は酒田周辺にあったとみられるが、733年に秋田に(第二次)出羽柵として移され、ヤマト王権の支配地域がグッと北上した形になったとのこと。但し出羽国府が秋田に移ったのは800年頃とも。

それぞれ南からの交通路はあったものの、陸奥や出羽で蝦夷の反乱がおきると、ヤマト王権は片方だけに軍を派遣するだけでは、同調した反乱に対応できないとして、その時代、必ず両地域に征討軍を派遣していた。当時の征討軍となる軍団は、陸奥(多賀城)方面に多く駐在しており、秋田と多賀城を結ぶ連絡路の必要性が高くなっていたとのこと。。

このため当時の陸奥按察使(長官)兼鎮守将軍であった大野東人が737年にこの連絡路を開通させた、と史料にあります。

横手市史では、5695人の陸奥国兵と狄俘(帰属した蝦夷)249人、更に出羽国兵500人と狄俘140人が従事したとのこと。併せて6584人。賀美郡家(現加美町にあった郡役所)から奥羽山脈を越えて玉野(大室とも、現・尾花沢市)、平戈(ひらこほ・比羅保許とも、現)まで道路を開削したとあります。

横手市史ではかかった日数などが書かれていませんが、秋田県史では4月1日に色麻柵を出てその日のうちに大室駅(玉野)に到着したとのこと。開削という言葉が使われていたので、道路工事をしながらと思っていましたが、どうもすでに道があったようで、秋田県史では酒田にあったとされる(第一次)出羽柵への連絡路が尾花沢辺りまではすでにあったためとしている。

現在の道路地図を見ると、現在の加美町から尾花沢市までは国道347号があり、このルートかとも思われますが、秋田県史では「銀山を通って」とあるため、国道347号から脇道に入り、峠は少し南側を通って銀山温泉に抜けるルートが考えられるようです。

この時にこのルートが使われたようですが、その後秋田県南部や岩手県南部の蝦夷がヤマト王権に従うようになるにはもう少し時間がかかりますが、帰属するともっといいルートができ、現在では古川-新庄(陸羽東線)や北上-秋田(北上線)ルートが生活では使われています。国道347号ルートは冬季通行止めになることもあり、こちらがもっと頻繁に使われることがあれば、今の秋田県や山形県で街の場所など大きく違ったのか、などと考えてしまいました。

一時

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 温泉施設の休業・廃業2025 | トップ | 帰服から征伐、更に共存へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

秋田古代史」カテゴリの最新記事