新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

岩手県宮古まで遠征① ラサの煙突・鍬ケ崎貯鉱場跡

2023-07-12 23:04:55 | 鉱山

本日は少し時間に余裕が出来たし、金曜から連休のお客様が始まりますので、思い切って太平洋を見に宮古まで遠征。こちらも数年前から是非にと考えていたのですが、なかなかチャンスがありませんでした。最初の目的は、地元では「ラサの煙突」と呼ばれ、街のランドマークとなっている旧宮古製錬所跡地。

かつてこの大煙突は、高さ160m、直径は10mの巨大なもので、当時国内2位の高さがあり、その下には宮古製錬所があって、田老鉱山の鉱石を鉄索(ゴンドラリフト)で運んでいたとのこと。製錬所はすでに撤去され、一部は体育館になっており、煙突だけ残っている状態。いつ撤去されてもおかしくないので、是非見てみたいと思っていまいた。煙突の下には、当時製錬所を所有していたラサ工業の事業所が残っていました。街に住んでいる方には、普通の光景になっているのでしょうが、遠く離れた人間にとっては、あこがれでもありました。

湊にある道の駅近くには、架空鉄索の終点駅であった鍬ケ崎貯鉱場があり、現在でも崖沿いにコンクリート製の施設の一部が残っています。せっかく宮古まで来たので、その現場も見てきました。

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宮古製錬所

宮古製錬所は、宮古市の閉伊川河口近くに建てられた田老鉱山の銅製錬所。本来、製錬所は山元に付属施設として設置されることが多いが、鉱山を経営していたラサ工業㈱の当時社長が宮古市沿岸部に総合工業都市を構想しており、既に元山と宮古間で鉄索輸送が行われていたこと、物流などを勘案した結果、鉱山から離れた場所に昭和13年(1938)に製錬所が設置された。

これにより以前は朝鮮の長項製錬所まで鉱石を搬送していたが、ここで処理ができるようになったほか、銅製錬の副産物である金、銀の抽出や同じく副産物(廃棄物)の硫酸から、本来の目的であった燐酸肥料の生産を開始した。鉱石は田老鉱山から架空索道(鉄索)で鍬ヶ崎貯鉱場に運ばれ、そこから専用鉄道で当製錬所まで運び込まれた。また周辺の中小規模の鉱山からの買鉱もあった。

太平洋戦争時には最初は増産が計られたが、昭和20年4月に軍需省の命令で休止、人員を松代大本営建造に徴用された。終戦間際に8月に2度の空襲を受け、製錬所は大きな被害を受けた。

戦後は真っ先に硫酸工場を再建し、翌年からは鉱山も再開し、戦後復興の需要に加え、昭和25年から始まった朝鮮戦争特需により増産するが、その反動不況などもあり、多角化を図る。その過程で昭和37年には製錬所では、ビスマス、カドミウム、インジウム、テルル、アンチモンなどの生産プラントを増設。この頃が宮古製錬所の最盛期と云われている。

昭和46年に輸入鉱石の増大とそれに伴う市況悪化、鉱石の品位低下などで田老鉱山が休山したが、宮古製錬所はその後も国内外の買鉱製錬所として稼働が続いた。昭和54年(1979)に電気精錬部門が操業停止、翌55年肥料工場の人員削減とスリム化を図ったが、56年(1981)に宮古製錬所を合同資源㈱に譲渡、58年肥料工場をコープケミカル㈱に営業譲渡。そして平成2年には小山田用地を宮古市総合体育館用地として宮古市に譲渡、大正8年(1919)に始まった宮古でのラサ工業の歴史に終止符が打たれた。

現在、跡地の高台には製錬所の大煙突が残っており、「ラサの煙突」と呼ばれ宮古のランドマークとされている。建設当時、亜硫酸ガスなどの排気が公害問題になる恐れがあり、出来るだけ高い場所で放出というのが、当時の考え方であった。

のち


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