フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月4日(金) 晴れ

2009-12-05 13:03:49 | Weblog

  9時、起床。ベーコン&エッグ、ごはん、茄子の味噌汁の朝食。授業の準備をして11時過ぎに家を出る。このところ日替わりで天候が変化する。今日は青空。コートはいらない。


落葉間近のメタセコイヤ

  昼休み、研究室で文構3年生のS君の卒業研究仮指導。文構ではゼミか卒業研究(ゼミには属さない)かを選択できるようになっているが、大部分の学生はゼミに所属し、卒業研究の学生は少数派だ。当初の予定ではもう少し卒業研究を選択する学生がいるものと見込んでいた。群れることを好まず、独立独歩を好む学生は昔も今も一定数はいるものと見込んでいた。しかし、蓋を開けてみると、実情はそうではなかった。「ゼミのある大学生活」というイメージは文構の学生の間に広く浸透している。ゼミはたんなる科目の1つではなく、学生の生活空間を構成する準拠点(居場所)の1つとなっている。ただ、ゼミ数(10)やゼミ定員(15)がゼミ所属を希望する学生数とアンバランスなため、選外や過密といった問題を生んでいる。卒業研究という選択肢が学生の目にもっと魅力的なものに映るにはどうしたらよいか。いま、日々、そのことを考えている。今日の仮指導では、S君が最近読んだ本を持参して自身の問題関心を詳しく話してくれた。意欲的な語り口で、卒業研究を進めていくために不可欠な内的エネルギーは十分にあると感じられた。
  3限は講義「ライフストーリーの社会学」。4限・5限は空き時間(先週で基礎演習が終ったので)。キャンパスの向かいの「ニュー・スクール」というカフェに行ってみる。初めて入る店だ。タコライスと紅茶の昼食。オーガニックをコンセプトにしている店である。ポットで出てきた紅茶は大きなカップにたっぷり2杯は飲める量があり、長居をするにはもってこいだが、道に面した大きなガラス窓のためか、暖房を節約しているためか、少々足元が寒かった。室温は上げなくていいから、映画館にあるようなひざ掛けの貸し出しがあるとよいと思う。そうしたらますますオーガニックな雰囲気が出るのではないだろうか。

  6限・7限はゼミ。前半のテーマは現代人の語りにみる「宗教的なるもの」。明確に宗教という形はとらずとも、われわれの日々の生活には「宗教的なるもの」の存在を認めることができる。いま、その「宗教的なるもの」の位座を、「聖」と「俗」という軸と「自己」と「超自己」という軸を直交させて考えるならば、「聖」かつ「超自己」の領域にはいわゆる神(絶対者)が、「聖」かつ「自己」の領域には「聖なる私」というものが、「俗」かつ「超自己」の領域には愛着や献身の対象としての集団・組織(家族・会社・国家・民族などなど)が、そして「俗」かつ「自己」の領域には個人の世俗的欲求が存在する。通常、最後のものは「宗教的なるもの」とは考えられていないが、たとえば拝金主義(金がすべてだ)は一つの宗教的形態として考えるべきものである。人が何かを選択するとき、自分の人生を人に語るとき、これら「宗教的なるもの」のどこかに軸足をおいている。


今日のスイーツはスイートパンプキン

  後半はいよいよライフストーリー・インタビュー調査のケース報告が始まる。これまでで学んできた社会学や心理学の知識を総動員してケースの分析にあたることになるが、分析の前に、まずは対象者本人の説明(主観的因果連鎖=物語)にしっかりと耳を傾け、その語りを理解しなければならない。収集されたデータが不十分であったり不確かであったりすると、理解が困難になる。インタビュー調査を担当した学生からの報告に他の学生たち(私も含めて)が了解することができるか、それがケース報告の最大のポイントである。ここで注意すべきは、報告者(インタビュアー)は、対象者の考えを憶測して報告してはならないということである。報告されるのはあくまでも対象者が語った内容に限定すべきで、語っていないこと、対象者の胸の内を憶測で代弁してはならないということである。そうした憶測は分析過程ではかまわないが(主観的因果連鎖の分析的因果連鎖への組み換え)、ケース報告は分析のための原材料を提供する場なので、本人以外の人間の解釈が加わったものはNGなのである。3ケースが報告、検討され、終了したのは10時4分。大幅な記録更新である。
  蒲田に着いたのは11時15分頃。「満月」で天ざるを食べる。ここの天ざるは天ぷらが旨い。天ぷらが旨いことは蕎麦屋としての必要条件だと思うのだが、実際は、遊園地やコンビニで売っているアメリカンドッグのような衣の天ぷらにときに遭遇することがある。また、せっかく旨い天ぷらが出てきても、麺汁と天汁が同じ器という場合があり、これだと蕎麦を全部食べてしまってからでないと天ぷらが食べられない(天ぷらの油が蕎麦につくから)。しかも、汁は冷たい。「満月」の天ざるは、ちゃんと麺汁(冷)と天汁(温)が別々の器で出てくる。これなら蕎麦を食べつつ、天ぷらも食べることができる。

  帰宅して、風呂を浴び、『不毛地帯』の第8話(録画)を観る。壱岐の妻が死んだ。病死するのかと思っていたら、交通事故だった。あの死に方は夫としては堪えるだろう。しかし、これで壱岐と千里が接近する(できる)条件は整ったというわけだ。