陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

626.山本権兵衛海軍大将(6)海軍のことは技術的なことが多くて難しいから、止めた方がいい

2018年03月23日 | 山本権兵衛海軍大将
 だが権兵衛が実際に面会してみると、勝海舟は、黄八丈の着流しで、タバコ盆を下げて出てきた。勝は実にやさしい人で、十八歳の権兵衛を、子供の面倒を見るように親切に取り扱ってくれた。

 ところが、権兵衛が、勝海舟に自分の志を告げ、「是非、ご指導願いたい」と申し出ると、勝は首を縦に振らなかった。権兵衛は朝九時頃から午後四時ころまでいて、ねばった。

 勝は「海軍のことは技術的なことが多くて難しいから、止めた方がいい」と言って、どうしても許してくれなかった。権兵衛はその日は退去した。

 翌日、権兵衛は改めて出直し、勝に嘆願を重ねた。また、一日中ねばったが、やはり、「よろしい」と勝は言わなかった。

 権兵衛は、三日目も勝邸を訪れ、前回と同じことを繰り返して嘆願した。その根気に、さすがの勝も兜を脱いだ。「そう熱心にやる考えなら、やれ」と、初めて許された。

 権兵衛は、その日から、勝海舟邸の食客になった。翌日から、権兵衛は勝に色々質問をしたりして海軍知識を教授してもらった。

 勝は権兵衛に次のように教え諭した。

 「皇漢学も大切だが、これからは洋学の知識がなければ、本当の海軍学術を身に着けることはできない。その為には、まず、高等普通学、数学等を修めて素養を作らなければならない。そうしてから、海軍に入り勉強すれば、きっと海軍に通暁することができよう」。

 この教えに従って、権兵衛は昌平黌や開成所に入って勉強した。その後海軍に入った。海軍操練所に入ってからも、権兵衛は、毎週一回は勝海舟のもとを訪れて、教えを受けていた。

 明治三十二年一月十九日勝海舟が死去した時、海軍大臣・山本権兵衛中将は、特に勅裁を仰いで現職の海軍大臣と同一の儀仗兵を出した。

 それから山本海軍大臣は勝海舟の銅像を海軍省の正面に建設する計画を立て、勝海舟の女婿・目賀田勇男爵に相談した。

 すると、目賀田勇男爵は、「海舟は銅像が嫌いだったようだから、辞退した」と言ったので、山本海軍大臣は、仕方なく取りやめた。

 明治二年九月十八日、東京築地安芸橋内に海軍操練所が開設された。政府は各藩から海軍修業生を推薦させた。推薦された貢進生は寮生活だった。また、一般志願者からも通学生として採用した。

 山本権兵衛も日高壮之丞(ひだか・そうのじょう・一八四八年生・鹿児島・海兵二期・防護巡洋艦「松島」艦長・海軍兵学校校長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)とともに薩摩藩からの貢進生五人の中に入っていた。

 明治三年十一月四日、海軍操練所は海軍兵学寮と改められ、旧海軍操練所の生徒はそのまま兵学療に引き継がれた。

 十一月八日、通学生と百余名が廃せられ、在寮生も七十余名中から、わずかに、幼年生徒十五名、壮年生徒二十九名だけを選抜ということになった。山本権兵衛は幼年生徒として採用された。

 その後、幼年生徒は予科生徒と、壮年生徒は本科生徒と改編され、山本権兵衛は明治五年八月二十日本科生徒(二期)に進んだ。

 「海軍の父 山本権兵衛」(生出寿・光人社・1989年)によると、海軍兵学寮四期生に上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう・一八四九年生・鹿児島・海兵四期・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・海軍省軍務局長・兼軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)がいた。

 薩摩藩士の家に生まれた上村彦之丞は、戊辰戦争に従軍し、山本権兵衛より三歳年長だが、遅れて明治四年八月に海軍兵学寮に入った。海軍兵学寮での成績は悪く常に最下位で、卒業席次も最下位だった。

 明治五年九月、四期生の上村彦之丞(一八四九年生・二十三歳)が、二期生の山本権兵衛(一八五二年生・二十歳)と日高壮之丞(一八四八年生・二十四歳)に次のように不満をぶちまけた。

 「こげな窮屈なところにいて、たかが船頭になるちゅうよか、広い世間に出て、大きく国家のために働きか」。