陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

624.山本権兵衛海軍大将(4)権兵衛さんの手の早さには、兄弟誰もかなわんかった

2018年03月09日 | 山本権兵衛海軍大将
 その二歳頭とは、黒田仲太郎了介、後の黒田清隆(鹿児島・薩英戦争・鳥羽伏見の戦い・薩摩藩小銃第一隊長・参謀・北越戦争・函館戦争指揮官・維新後明治政府の開拓次官・開拓使長官・陸軍中将・参議兼開拓長官・西南戦争征討参軍・内閣顧問・農商務大臣・第二代内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)だった。

 文久三年七月二日~四日(一八六三年八月十五日~十七日)英国と薩摩藩の間で戦われた薩英戦争が行われた。

 この薩英戦争の発端は、文久二年八月二十一日に起きた生麦事件である。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主・島津光久の行列を横切ったイギリス人四名を島津家家来が殺傷した事件だ。イギリス人は死者一名、負傷者二名だった。

 文久三年五月九日、イギリス公使代理・ジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金一〇万ポンドを受け取った。

 六月二十二日、ジョン・ニールは、次に、薩摩国との交渉のため、七隻の艦隊を従えて横浜港を出港。六月二十七日イギリス艦隊は鹿児島湾に到着した。

 六月二十八日、英国艦隊を訪れた薩摩藩の使者とイギリス側は交渉が決裂し、薩摩藩の砲台と英国艦隊との間で砲撃戦が開始され、薩英戦争となった。

 戦闘の結果、薩摩藩は多数の民家を焼失し、藩の汽船等を失ったが、人的損害は少なかった。だが、英国艦隊は戦死者二〇名、負傷者四三名を出し、上陸戦を諦めて、撤退、七月十一日横浜港に入港した。沈没艦はなかった。

 山本権兵衛が最初に実戦を経験したのが、この薩英戦争である。まだ十一歳だった。従軍は許されなかったが、砲弾運搬などの雑役を行った。権兵衛は初めて外国の軍艦を見た。

 慶應元年(一八六五年)父、山本五百助盛眠が死去した。権兵衛が十三歳の時である。

 「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、父五百助盛眠が死去した時の山本家の家計はかなり窮迫していた・

 山本権兵衛の母・常子は、子供たちを集めて、「お父様が亡くなられても、おまえたちは決して余計な心配をしてはならぬ。家のことはみな私が始末をつけていくから、お前たちは心静かに、めいめいがお国の役に立つ立派な人物になるよう、わき目も振らずに励みなさい」と言い聞かせた。

 常子は女丈夫で、権兵衛の負けず嫌いはこの母の血を伝えており、一生を貫く忠誠愛国の念は、両親の庭訓に負うところが多かった。

 だが、薩摩の貧乏士族である。夫亡き後、残された大勢の子供たちを養育する常子の苦労は並大抵では無かった。文字通り三度の飯も満足に食べられなかった。ほとんどは粥鍋、ふかした薩摩芋が主食だった。

 薩摩は長幼の序が極めて厳格だった。年長の者が箸をとらない間は、年少者はどんなにひもじくても、空腹をこらえて我慢しなければならなかった。

 ところが、腕白盛りの権兵衛少年は我慢出来ずに、サッと玉杓子に手をのばして、いち早く粥鍋を占領、一番コクのある鍋の底をすくって、平らげていた。

 兄や姉はあっけにとられて、見ているだけだったという。母・常子も権兵衛を叱らなかった。権兵衛をどこか見どころがあると見抜いていた常子は、いつも心を配っていた。

 権兵衛より四歳年上の姉・栄子は、よくこの粥鍋の話をして、「権兵衛さんの手の早さには、兄弟誰もかなわんかった」と述懐していた。

 「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)によると、慶應三年(一八六七年)王政復古のため、薩摩藩は藩兵を募集した。

 当時権兵衛はまだ十五歳だった。長兄は御小姓を勤めていたので国許に残ることになったが、二十二歳の次兄・吉蔵は入隊して従軍するというので、権兵衛も戦争に行きたくて仕方がなかった。

 薩英戦争の時雑役に加わったこともある権兵衛は、早速役所に行き、「従軍したい」と志望を述べた。上役の人から、「おまえ、何歳か?」と尋ねられた権兵衛は、十八歳以上でないと従軍させられないと知っていたので、「十八です」と答えた。

 当時は、戸籍を調べるということもなく、体が大きかったので疑われなかったのか、すぐ採用と決まった。権兵衛は飛び上がって、喜んだ。