陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

627.山本権兵衛海軍大将(7)上村にしても、山本にしても、多くの生徒らが、よく殴り合いのけんかをしていた

2018年03月30日 | 山本権兵衛海軍大将
 権兵衛は、上村を圧倒する態度で、次のように熱烈に反論し、説得した。

 「おいは西郷さあから、『将来、最も大切な任務は海軍じゃ。その道を修め、国家に奉公せよ』といわれもした。そいで勝先生の援助を得て、兵学寮に入寮したが、おいは将来海軍に尽くす決心じゃ。おはんも目的を変ずべからずじゃ。おはんはのちに、海軍に対して十分ご奉公ができもそ」。

 この権兵衛の熱い説得の言葉を聞いて、上村は退寮を思いとどまった。

 だが、権兵衛と、上村の海軍兵学寮生活には、いろいろあった。学術と腕力では権兵衛が上で、頭の上がらない上村が、ある時、「権兵衛、おはんがいくら威張っても、ただ一つ、おいにかなわんものがあっど」と言った。

 権兵衛が「なんど」と聞くと、上村は「酒じゃ、酒ならおいの小指にも及ばんじゃろ」と答えた。「バカ言うな」と権兵衛はケンカを買った。

 二人は新橋の江木写真館近くの居酒屋に行き、それぞれ自分の前に酒が一合入ったグラスを十個並べた。ガブガブ勢いよく飲んだ権兵衛は、いち早く十個のグラスを空にした。ところが、たちまちバッタリ倒れてしまった。

 上村は、ゆっくり飲み、十個のグラスを明け、さらに五杯飲んだ。しかし、そのあと苦しみ出し、吐いてしまった。

 それまで、権兵衛はよく酒を飲んでいたが、以後、深酒はぷっつりやめたという。

 とにかく、当時は、上村にしても、山本にしても、多くの生徒らが、よく殴り合いのけんかをしていたのは事実らしい。また、そういう生徒たちに対して、鉄拳制裁が加えられていた。

 ちなみに、この頃、明治五年十一月九日(陰暦)、「十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト為ス」という改暦の詔書が発布され、明治五年十二月二日で陰暦が終わり、翌日から太陽暦となった。

 明治六年十一月十九日、次の二名が海軍兵学寮を卒業した。

 平山藤次郎(ひらやま・とうじろう・徳島・徳島藩士・海兵一期・少尉・コルベット「筑波」乗組・西南戦争で功績・オーストラリア・中尉・大尉・少佐・大佐・「摂津艦」艦長・コルベット「筑波」艦長・スループ「天城」艦長・スループ「葛城」艦長・日清戦争・通報艦「八重山」艦長・「テールス号」事件で予備役・商船学校長・勲二等瑞宝章・功四級・オーストリア=ハンガリー帝国星章飾付フランソワジョゼフ第二等勲章)。

 森又七郎(もり・またしちろう・東京・海兵一期・少尉・コルベット「龍驤」乗組・西南戦争・少佐・海軍兵学校編修長・海軍兵学校水雷術教授・軍艦「春日丸」艦長・大佐・コルベット「筑波」艦長・水雷練習艦「迅鯨」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・水雷練習艦「迅鯨」艦長・水雷術練習所長・水雷母艦「山城丸」艦長・日清戦争・輸送船「近江丸」艦長・呉知港事・呉鎮守府予備艦部長兼呉知港事・呉水雷団長・呉鎮守府軍港部長・少将・予備役・港務局長兼横浜港務局長・神奈川県港務長・従五位)。

 二人は試験の成績が優秀のため卒業を認められ、少尉補(後の少尉候補生)となった。この二人が、海軍兵学校の第一期生である。平山が二十三歳、森が二十六歳だった。

 明治七年一月、海軍兵学寮生徒らは、適性や本人の希望により、測量(後の航海)科二十三名、砲術運用科七十七名、蒸気科二十六名、造船科三名に区分された。

 山本権兵衛、日高壮之丞、上村彦之丞らは砲術運用科に入った。ただ、同じ砲術運用科でも、山本権兵衛と、日高壮之丞は一号生徒、上村彦之丞は五号生徒だった。

 七十七名は、学業成績によって、一号十四名、二号十六名、三号十五名、四号十五名、五号十七名に分けられたのだが、上村彦之丞は学業成績が劣っていたので、五号生徒にされた。しかも、五号生徒の中でも末席だった。

 明治六年十月末、征韓論に敗れた西郷隆盛は、桐野利明陸軍少将以下の部下を連れて、東京を去り、鹿児島に帰った。

 明治七年二月下旬、山本権兵衛は、西郷隆盛の真意を確かめなければ気が済まなくなり、兵学寮に休暇願を出して、同僚の左近充隼太とともに鹿児島に向かって旅に出た。

 旅の途中、二人は議論を続け、お互い、どんなことがあっても、生死を共にすることを誓い合った。京都に着いたときは、丁度佐賀の乱が勃発していたため、交通が妨げられ、その鎮静の後、鹿児島に向かった。