陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

625.山本権兵衛海軍大将(5)あんたは頭が働きすぎる。いい力士にはなれない。おやめなさい

2018年03月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 当時、島津久光公の御殿に奉公していた姉・栄子が作ってくれた出陣の服装を着て、次兄・吉蔵とともに元気よく出陣した。

 薩摩藩兵小銃第八番小隊に編入された権兵衛は、慶應三年十一月十三日、島津忠義(しまづ・ただよし・島津久光の長男・薩摩藩第十二代・最後の藩主・維新後薩摩藩知事・公爵・貴族院公爵議員・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・国葬)に随従して鹿児島を出発、二十三日に京都に到着した。

 十二月九日には朝廷から王政復古の大号令が発せられた。十二月二十八日、兄・吉蔵が一斗樽をさげて相国寺別院に駐屯している権兵衛を訪ねてきた。

 二人は大いに飲み、大いに語った。吉蔵が「互いに命を的にするとはいいながら、弾丸傷ではなく、刀傷にしようじゃないか」と言うと、弟・権兵衛も「その通り」と大きくうなずいた。

 慶応四年正月、いよいよ戊辰戦争が勃発、権兵衛は薩摩藩兵として官軍に従い、鳥羽伏見の戦いには八幡の戦線に参加した。

 勇ましい川村純義(かわむら・すみよし)隊長(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争で参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死後海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)は剣を抜き、「進め、進め!」と、よく号令したが、さすがに十五歳の権兵衛は突撃がつらかったという。

 この戦いでは、兄弟はついに会う機会がなかった。吉蔵は白河口へ、権兵衛は越後口へ向かったが、権兵衛は、兄・吉蔵から次のような書簡を受け取った。

 「兄弟戦に死せざるは賀すべきなり。然れども一の傷をも受けざるは、人皆吾等が勇戦せざりしと思ふならん。依て今後大に進撃して兄弟互に大功を立てたと言はれんことを希望す」。

 権兵衛の隊は慶応四年五月十日京都を発し、越後口に進軍、転戦後、奥羽に進んだ。

 慶應四年九月八日、「慶応」の元号が「明治」と改められた。九月二十六日、庄内藩が帰順したので、権兵衛の隊は凱旋の途につき、江戸を経て、十一月十四日京都に到着、その後鹿児島に帰った。

 権兵衛の隊が、奥羽から凱旋の途につき江戸へ戻った頃のことである。当時、江戸に、相撲取りで、陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう・島根・江戸相撲・秀ノ山部屋・松江藩抱え力士・薩摩藩抱え力士・大関・慶応三年第十二代横綱・戊辰戦争・薩摩藩志士・維新後大阪相撲頭取総長・実業家に転進)という横綱がいた。

 陣幕久五郎は、維新動乱になり、相撲を止め、戊辰戦争では官軍として働いた後は、薩摩藩主・島津忠義の護衛をしていた。

 山本権兵衛は、郷里薩摩の甲突川の中州で行われる宮相撲で、「花車」という醜名(しこな=四股名)の大関になっていた。

 権兵衛は本物の力士になろうと思い、横綱の陣幕久五郎に相談した。ところが、「あんたは頭が働きすぎる。いい力士にはなれない。おやめなさい」と言われ、力士志願を断念した。

 慶應四年五月一日、兄・吉蔵の隊は、会津戦で白河口に攻め入った。この時、吉蔵は、敵の隊長と渡り合い、ついにこれを倒したが、自分も頸と頭に負傷し、後送された。横浜の病院で治療し、八月十九日、まだ全快はしていなかったが、退院してまた会津に向かった。

 戊辰戦争は奥羽平定で幕を閉じた。薩摩藩は藩兵の中から五〇名を選んで遊学生とし、東京、京都、その他の要地に分遣させた。山本権兵衛もこの中に入り、東京に遊学することになった。明治二年三月、十八歳だった。

 東京に出た権兵衛は、西郷隆盛が薩摩藩兵を率いて函館戦争に赴くのを見て、志願、従軍した。西郷隊が函館に到着した前日、五月十八日にすでに函館は鎮定されていたので、権兵衛は帰京、まもなく開成所に転学した。

 権兵衛の東京遊学に当たり、西郷隆盛は、特に勝海舟(かつ・かいしゅう・東京・江戸幕府異国応接掛附蘭書翻訳御用・長崎海軍伝習所・軍艦操練所教授方頭取・咸臨丸乗組教授方頭取として渡米・帰国後護武所砲術師範・軍艦操練所頭取・軍艦奉行並・陸軍総裁・西郷隆盛と会談・江戸城無血開城・維新後・明治政府外務大丞・兵部大丞・海軍卿・元老院議官・枢密顧問官・伯爵・『海軍歴史』『陸軍歴史』等の執筆・伯爵・従三位)に紹介状を書いてくれた。

 西郷隆盛は、山本権兵衛に将来は海軍に入って、国家に尽くすことをすすめ、権兵衛もその志を持っていた。だから西郷は勝海舟に紹介し師事する事をすすめたのだ。
それで権兵衛は上京するとすぐ、勝海舟邸を訪れた。勝海舟と言えば、西郷隆盛と江戸開城の大談判をやった大人物である。見るからに大英雄・大豪傑の人だろうと思っていた。