陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

490.東郷平八郎元帥海軍大将(30)そうですかね。しかし、パイも捨てたものじゃないですよ

2015年08月14日 | 東郷平八郎元帥
 皇太子(昭和天皇)の教育を受け持つことになった東宮御学問所は、東郷平八郎元帥が総裁になった大正三年五月から高輪の東宮御所内でスタートした。

 始業式で東郷元帥は直立不動で、「殿下には、ますますご健全に、御学事に精励あそばさんことを乞い願いたてまつる」と震え声であいさつした。その時、六十六歳。昭和天皇は十三歳の少年だったが、すでに陸海軍少尉に任官していた。

 東大、学習院教授らが御用掛(教師)となって、倫理、歴史、地理、国文、武術、軍事など多数の科目が実施された。

 帝王学の徳育倫理担当は杉浦重剛(すぎうら・しげたけ=じゅうごう・滋賀県大津市・藩校遵義堂・大学南校・文部省派遣英国留学・文部省・東京大学勤務・東大予備門校長・東京英語学校創立者の一人・読売・朝日新聞の社説担当・衆議院議員・東京文学院設立・國學院学監・東亜同文書院院長・東宮御学問所御用掛・摂政宮=昭和天皇御進講役)が選ばれた。

 杉浦の帝王学は「三種の神器」「五箇条御誓文」「教育勅語」を柱に進講した。杉浦は後に皇太子の結婚をめぐる「宮中某重大事件」で妃殿下の家系に色盲色弱の可能性があるとして、ご婚約取り消しの動きがあった時、「綸言汗の如し」と辞表をたたきつけた。

 「君主の言は汗のように一度出たら引っ込まない」という杉浦倫理学で、「いったん成立した婚約を破棄するのは人倫にもとり、私の教えた倫理は破たんする」というのだった。

 病気の東郷元帥に代わって御学問所幹事の小笠原長生が杉浦をなだめ、結局大正十年二月十日、内務省は「東宮妃内定に変更なし」と発表した。

 宮内大臣・中村雄次郎(なかむら・ゆうじろう・三重県津市・フランス留学・陸軍中尉・陸軍大学校教授心得・士官学校教官・砲兵少佐・陸軍大学校教授・参謀本部陸軍部第一局第一課長・砲兵中佐・軍務局砲兵事務課長・大佐・軍務局砲兵課長・軍務局第一軍事課長・兼砲兵会議議長・少将・陸軍士官学校校長・陸軍次官・陸軍総務長官・軍務局長・中将・予備役・製鉄所長官・貴族院勅選議員・男爵・南満州鉄道総裁・関東都督・宮内大臣・枢密院顧問)が引責辞任して一件落着した。

 翌日の新聞にはじめて、「某重大事件」の記事が現れ、「お健やかに御機嫌麗はし」の見出しで、当時流行の「二百三高地」型ヘアスタイルの良子女王(後の昭和天皇皇后)の写真が掲載された。

 冬の間、沼津御用邸での講義には、東郷元帥は必ず出かけた。進講者によっては多少意見も異なるので、自分も一緒に同席して講義を聞いた。

 進講が終わると、近くの定宿「三島館」に泊まった。杉浦らも一緒だった。ある日、東郷元帥と杉浦が二人そろって松林の中の道をトボトボと宿へ帰った。直ぐ後を小笠原長生がついていた。どんな天下国家の話をしているのだろうかと、小笠原は聞き耳を立てた。それは次のようなものだった。

 東郷「杉浦さん、あなたはパイというものは好きですか」。

 杉浦「食べないことはありませんが」。

 東郷「あの、パイというものは作り方が大変難しくて、パイが一通り作れるようになると一人前の料理人だそうですよ」。

 杉浦「そうですかね。私はパイを食べても、そんなにうまいものとは思いませんが」。

 東郷「いやそうじゃありませんよ。よくできているのは、なかなかうまいものです」。

 それから、東郷元帥がパイの作り方の講釈を始めた。

 杉浦「そんなものですか。しかし、私はやっぱり玉露で藤村の羊かんを食べた方がいいです」。

 東郷「そうですかね。しかし、パイも捨てたものじゃないですよ」。

 二人はまるで子供のように夢中になって食べ物の話をしていたのだ。「元帥や帝王学の先生といっても、堅苦しい話ばかりではなかった」と小笠原は述べている。

 東宮御学問所で教務主任だった白鳥庫吉(しらとり・くらきち・千葉県茂原市・千葉中学・一高・東京大学文科大学史学科卒・学習院教授・東京帝国大学文科大学史学科教授・東宮御学問所御用掛・文学博士・帝国学士院会員・「東洋学報」創刊・東洋文庫設立・理事長)は東郷元帥死去に際して次のように語っている。

 「ご教育の大方針を決める時集まって協議したが、東郷さんは自分の意見を述べられるような方ではなかった。黙ってみんなの意見を聞き、一致するところをつかんで決められた。だから異論はなかった。自宅に伺うとじゅんじゅんとして話され、指導もされたので、どこまでも黙っている人ではない」(昭和九年五月三十日、朝日新聞)。