陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

489.東郷平八郎元帥海軍大将(29)てつ子は本気に怒りだして、さっと顔色が変わった

2015年08月07日 | 東郷平八郎元帥
 東郷大将は大勲位代表として御供申し上げた。桃山御陵斂葬の御儀は十五日午前五時に執り行われ、諸式もすべて滞りなく終わったので、東郷大将は即日帰京の途に就いた。

 東郷大将が乃木大将夫妻の殉死を耳にしたのは、この御供奉の途中であったが、他の供奉員たちが愕然として色めき立つ中を、東郷大将は静かにうなずき、瞑目しただけで、何事もなかったかのように平然としていた。

 東郷大将には、”来るべきものが来た”という感じしかなかった。しかし、乃木大将の死を最も悲しみ、同時に最も喜んでやっていたのも、東郷大将であった。

 九月十六日の午前中、東郷大将は海軍大将の正装で乃木邸を訪問し、恭しく夫妻の霊前に深く頭を垂れた。

 東郷大将は乃木大将の歌を詠んだ。それは次のようなものであった。乃木大将としては百万の読経よりも嬉しいものであったに違いない。

 「見るにつけ聞くにつけてもたゞ君の 真心のみぞしのばれにける」。

 大正二年四月二十一日、軍事参議官であった東郷平八郎海軍大将は、「元帥府ニ列セラレ特ニ元帥ノ称号ヲ賜フ」と、元帥の称号を受けた。この時、東郷大将は六十六歳、海軍生活四十四年目だった。

 元帥というのは軍事上の最高顧問で、陸海軍大将の中から「老功卓抜、尊敬信頼される人」が選ばれた。軍人としては最高の地位で、生涯現役として処遇された。宮中の席次も大臣と同列だった。

 ちなみに、昭和九年五月、東郷元帥が死去の際、「時の話題」として、「元帥」について新聞に次のような記事が掲載された。

 「明治五年、西郷隆盛が元帥に任ぜられたが、これは当時の官制で大将の上役にあるものを元帥に任じたもので、今日のいわゆる元帥とは事情を異にしている。今の元帥は明治三十一年一月二十日、軍務に関する最高顧問機関として元帥府が設けられ、陸海軍大将の中から「老功卓抜」なるものを選び、これを列せしむるとの詔勅が出され、同時に元帥府条例が発布されたのに基づいている」

 「この元帥府条例は、その後大正七年八月に改正されたが、その要旨は、一、元帥府に列せられる陸海軍大将は特に元帥の称号を賜う。一、元帥府は軍事上の最高顧問とす。一、元帥は勅を奉じて陸海軍の検閲をおこなうことがある。一、元帥には元帥佩刀及び元帥徽章を賜う」

 「この元帥府条例が発布されてから(昭和九年五月までに)元帥府に列せられたのは陸軍十四人、海軍十人の計二十四人。うち八人が皇族、十六人が一般軍人である。病が危篤になって特に元帥府に列せられる者もいたが、東郷の二十二年間は最古参である」

 「一般の軍人は大将になっても定年があるが、元帥府に列せられると生涯現役として待遇され、終身その栄誉をになう。だから真に武人の典型で軍の内外から尊敬信頼の的となる陸海軍大将中のいわゆる「老功卓抜」の士でなければならない」

 「元帥には刀と徽章を賜るが、元帥佩刀は黄金作りで柄の長さは五寸五分、鞘の長さ二尺六寸、金銀線入りの紫革の円紐のついたものである。副官として佐尉官各一名を常時付けるなど軍人最高の優遇を与えられている」。

 東郷元帥の夫婦仲は睦まじかった。乃木大将が妻の静子に対して表向きには愛情を見せまいとしたのとはまるきり反対で、他人が見ていても羨ましいほどの愛情を東郷元帥はむき出しにした。

 東郷元帥は妻のてつ子とよく碁を打った。ことに閑職になってからはよく打った。東郷邸に出入りして、東郷元帥に愛され、碁の相手をよくしていた近所の人で阿部真造という人がいた。

 阿部がある日、東郷邸に伺って見ると、東郷元帥はてつ子と碁を打っていた。「いま勝負がつくから……」と東郷元帥が言うので、傍で観戦していたが、まあ、どちらもザルの域を出ていない。

 そのうち、てつ子が見落としをして、継ぐべきところを、継がなかった。それを見るなり、間髪を入れずに東郷元帥はピシッとそこを切った。

 そうなっては大石が死にである。「アッ」と、てつ子が叫んで、「見落としよ、待ってちょうだい」と言った。東郷元帥はギョロリと大きな目玉を動かして、「待たぬ」と答えた。

 「だって、これは誰が見ても見落としじゃありませんか、待ってよ」とてつ子が言うと、東郷元帥は「戦争に待ったがあるか」と言った。「だって、ここを切られちゃ負けよ。だから……」「駄目だ」。

 散々言い合っているうちに、てつ子は本気に怒りだして、さっと顔色が変わった、かと思うと、ガラガラっと、盤上の石を引っ掻き回して、さっと立って行った。

 東郷元帥は、ふっと笑って阿部の顔を見て、パチパチと眼をしばたたかせた。阿部は、おかしくておかしくて、とうとう笑い転げてしまった。