大正七年三月のある日、小笠原長生少将が一人で三島館に投宿すると、それを待ちかねていたように倉吉がやってきた。
「乃木と東郷・下」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、三島館というのは、静岡県沼津の牛臥海岸の松林にある小さな旅館で、当時御用邸に参上する顕官貴紳士はこの三島館に泊まることにしていた。東郷平八郎元帥も常宿にしていた。
倉吉というのは、白鳥倉吉ではなくて、この三島館の風呂番のことで、落合倉吉という名前だった。極めて無邪気で実直な男だった。しかもどんな偉い人が来ても怖れず対等に話をするというので、みんなから可愛がられていた。
その倉吉が、三島館に着いた小笠原少将のところに来て、両手をついて、「閣下にお願いがあるのですが」と神妙に言った。東郷元帥が小笠原少将を可愛がっていたことを倉吉は知っていた。
小笠原少将が「なんだね、改まって」と言いうと、倉吉は、一尺四方位の桐の箱を差し出して「へえ、実はこれに閣下の箱書きが頂きたいのでして……」と言った。
「箱書きというが、軸ものでもないようだが……?」と小笠原少将が言うと、倉吉は「はい、これは東郷様のお肌に着けられていた物です。東郷元帥が御使用になった物に間違いがない、という事を書いて頂きたいので……」と答えた。
小笠原少将が不審に思って霧箱の蓋を開いて見ると、縮緬の袱紗に包んだ物が入っていた。それをさらに開けて驚いた。中には薄汚れた越中ふんどしが、洗濯もされずに安置されていた。
「一体どうしたというんだね?」と小笠原少将が訊ねてみると、倉吉は自慢そうに「へえ、これは私が頂戴しましたもので」と答えた。
「閣下がこんな使い古した物をおやりになる筈はないが……」と小笠原少将が言うと、倉吉は次のように答えた。
「実は先日おいで遊ばした時に、新しいのとお取替えになるんで、倉吉すまんがこれを処分しておいてくれんか、と仰せられました。これぞまさしく千載一遇の好機というやつで、閣下のお肌にじかに触れた物が手に入るなんて…」。
小笠原少将が「それも特に大切な部分に触れたものをな」と言うと、倉吉は「そうなんで。天下広しといえど、これほどの物を持っているのは私ぐらいでして…」と言った。
「しかし、閣下は捨てろと仰ったんだろう」と小笠原少将が訊ねると、倉吉は「いえ、捨てろとは申されません。処分をしろと…」と答えた。
「それはついでの折りに焼却でもしてくれという意味だ」と小笠原少将が言うと「とんでもございません。こんなお宝を捨てたり、焼いたりできるものですか。そこで私が処分させて貰ったんですが……」と倉吉は答えた。
倉吉は早速、指物師に頼んで箱を作り箪笥にしまったが、どうも盗られそうで心配だった。毎晩、置き場所を替えて、おちおち眠れないほどだったが、しかし、これが東郷元帥の物だということを誰かしっかりした人に証明して貰わなくては、人が信じてくれないだろうと思った。
そこで、小笠原少将が東郷元帥のお気に入りだと世間からも信用されているから、この方に頼むのが一番いいと考えついたのだという。
他の者なら断るところだが、倉吉のことだし、元帥にこんなエピソードの一つくらいあってもいいだろうと、小笠原少将は茶目っ気を出して次のように言った。
「他なるぬお前のことだから引き受けてもいいが……まさか東郷元帥御愛用品、小川原長生識でもあるまいから、何か別のことを書いてやろう」。
小笠原少将は考えた。いくらなんでも元帥の名前を出すのは憚れる。だから明白に東郷元帥と言わずに、それ悟らせるうまい文句はないかな…。文か詩か歌か…といろいろ感がえて、そうだ、物が物だけに一番ふさわしいのは狂歌だろう、と思いついた。そこで箱蓋の裏にさらさらと筆を走らせて次のように書いた。
「日本海(二本買い)ぐるぐる巻きに敵を締め きつい手柄をかくはたち布(切り)」。
倉吉は躍り上がって喜んだ。自慢して見せ廻っているうちに、「これじゃあまだ元帥のものだということは解らないよ」と言う者がいた。そういえば、この箱書きには元帥の名もなければ、小笠原の雅号もない。倉吉はすっかりしょげかえってしまった。
そこへやって来たのが、杉浦重剛だった。倉吉は、今度は杉浦をくどきにかかり「小笠原様も書いて下さったのですから……」と、とうとう攻め落としてしまった。杉浦は漢詩で次のように箱書きした。
「非学晉時放免俗 猶思賢宰苦心ノ痕 誰知襤褸三尺布 留得英雄一片魂」。
この読みは次の通り。(晉時放免ノ俗ヲ学ブニ非ズ 猶オ思ウ賢宰苦心ノ痕 誰カ知ル襤褸三尺ノ布 留メ得タリ英雄一片ノ魂)。
これに力を得た倉吉は、投宿する名士を片っ端から頼み込んで、五条橋上の弁慶よろしく、ばったばったとかき集め箱書きさせた。箱書きが増えるたびに、さらに外箱を作るので、箱は次第に大きくなり、遂には長持ちのようになってしまったという。
「乃木と東郷・下」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、三島館というのは、静岡県沼津の牛臥海岸の松林にある小さな旅館で、当時御用邸に参上する顕官貴紳士はこの三島館に泊まることにしていた。東郷平八郎元帥も常宿にしていた。
倉吉というのは、白鳥倉吉ではなくて、この三島館の風呂番のことで、落合倉吉という名前だった。極めて無邪気で実直な男だった。しかもどんな偉い人が来ても怖れず対等に話をするというので、みんなから可愛がられていた。
その倉吉が、三島館に着いた小笠原少将のところに来て、両手をついて、「閣下にお願いがあるのですが」と神妙に言った。東郷元帥が小笠原少将を可愛がっていたことを倉吉は知っていた。
小笠原少将が「なんだね、改まって」と言いうと、倉吉は、一尺四方位の桐の箱を差し出して「へえ、実はこれに閣下の箱書きが頂きたいのでして……」と言った。
「箱書きというが、軸ものでもないようだが……?」と小笠原少将が言うと、倉吉は「はい、これは東郷様のお肌に着けられていた物です。東郷元帥が御使用になった物に間違いがない、という事を書いて頂きたいので……」と答えた。
小笠原少将が不審に思って霧箱の蓋を開いて見ると、縮緬の袱紗に包んだ物が入っていた。それをさらに開けて驚いた。中には薄汚れた越中ふんどしが、洗濯もされずに安置されていた。
「一体どうしたというんだね?」と小笠原少将が訊ねてみると、倉吉は自慢そうに「へえ、これは私が頂戴しましたもので」と答えた。
「閣下がこんな使い古した物をおやりになる筈はないが……」と小笠原少将が言うと、倉吉は次のように答えた。
「実は先日おいで遊ばした時に、新しいのとお取替えになるんで、倉吉すまんがこれを処分しておいてくれんか、と仰せられました。これぞまさしく千載一遇の好機というやつで、閣下のお肌にじかに触れた物が手に入るなんて…」。
小笠原少将が「それも特に大切な部分に触れたものをな」と言うと、倉吉は「そうなんで。天下広しといえど、これほどの物を持っているのは私ぐらいでして…」と言った。
「しかし、閣下は捨てろと仰ったんだろう」と小笠原少将が訊ねると、倉吉は「いえ、捨てろとは申されません。処分をしろと…」と答えた。
「それはついでの折りに焼却でもしてくれという意味だ」と小笠原少将が言うと「とんでもございません。こんなお宝を捨てたり、焼いたりできるものですか。そこで私が処分させて貰ったんですが……」と倉吉は答えた。
倉吉は早速、指物師に頼んで箱を作り箪笥にしまったが、どうも盗られそうで心配だった。毎晩、置き場所を替えて、おちおち眠れないほどだったが、しかし、これが東郷元帥の物だということを誰かしっかりした人に証明して貰わなくては、人が信じてくれないだろうと思った。
そこで、小笠原少将が東郷元帥のお気に入りだと世間からも信用されているから、この方に頼むのが一番いいと考えついたのだという。
他の者なら断るところだが、倉吉のことだし、元帥にこんなエピソードの一つくらいあってもいいだろうと、小笠原少将は茶目っ気を出して次のように言った。
「他なるぬお前のことだから引き受けてもいいが……まさか東郷元帥御愛用品、小川原長生識でもあるまいから、何か別のことを書いてやろう」。
小笠原少将は考えた。いくらなんでも元帥の名前を出すのは憚れる。だから明白に東郷元帥と言わずに、それ悟らせるうまい文句はないかな…。文か詩か歌か…といろいろ感がえて、そうだ、物が物だけに一番ふさわしいのは狂歌だろう、と思いついた。そこで箱蓋の裏にさらさらと筆を走らせて次のように書いた。
「日本海(二本買い)ぐるぐる巻きに敵を締め きつい手柄をかくはたち布(切り)」。
倉吉は躍り上がって喜んだ。自慢して見せ廻っているうちに、「これじゃあまだ元帥のものだということは解らないよ」と言う者がいた。そういえば、この箱書きには元帥の名もなければ、小笠原の雅号もない。倉吉はすっかりしょげかえってしまった。
そこへやって来たのが、杉浦重剛だった。倉吉は、今度は杉浦をくどきにかかり「小笠原様も書いて下さったのですから……」と、とうとう攻め落としてしまった。杉浦は漢詩で次のように箱書きした。
「非学晉時放免俗 猶思賢宰苦心ノ痕 誰知襤褸三尺布 留得英雄一片魂」。
この読みは次の通り。(晉時放免ノ俗ヲ学ブニ非ズ 猶オ思ウ賢宰苦心ノ痕 誰カ知ル襤褸三尺ノ布 留メ得タリ英雄一片ノ魂)。
これに力を得た倉吉は、投宿する名士を片っ端から頼み込んで、五条橋上の弁慶よろしく、ばったばったとかき集め箱書きさせた。箱書きが増えるたびに、さらに外箱を作るので、箱は次第に大きくなり、遂には長持ちのようになってしまったという。