陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

396.真崎甚三郎陸軍大将(16)真崎に万一之に類することありては迷惑なりと仰せらる

2013年10月24日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 また、「本庄日記」七月二十日の日記に、天皇に対して新旧教育総監の参内拝謁の様子が次のように記してある。

 「午後一時三十分、新任教育総監渡辺大将、前任教育総監真崎大将葉山御用邸に参内拝謁す」

 「繁は拝謁に先だち、新任者には『ご苦労である』、前任者には『ご苦労であった』との意味の御言葉を賜らば難有存ずる旨内奏す」

 「陛下は之に対し真崎は加藤の如き性格にあらざるや、前に加藤が、軍令部長より軍事参議官に移るとき、自分は其在職間の勤労を思い、御苦労でありし旨を述べし処、彼は、陛下より如此御言葉を賜りし以上、御親任あるものと見るべく、従て敢て自己に欠点ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、真崎に万一之に類することありては迷惑なりと仰せらる」

 「繁は之に対し、真崎としては自己の主義主張を曲ぐることは出来ざるべきも、かりそめにも御言葉を自己の為に悪用するが如き不忠の言動を為すものには断じてあらざる旨を奉答せし処、陛下は、夫れならば結構なりと仰せられ、拝謁に際し、渡辺大将には御苦労であると仰せられ、真崎大将には在職中御苦労であったとの御言葉を給わりたり」

 「尚は、此日真崎大将は出来れば、御言葉を賜りし際、一言自己の立場を奉答したき旨武官長に漏らすところありしも、夫れは当の主任者なる大臣の奏上に対立することとなり、恐懼の次第なること又事件に引続き何事か奏上することは、其結果の如何なるものをもたらすかをも余程考慮すべきことなりと、真崎大将も能く諒解し右思ひ止まりたり」。

 以上が、天皇に対して新旧教育総監の参内拝謁の様子を記した「本庄日記」の内容である。

 「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、当時陸軍省整備局長であった皇道派の重鎮、山岡重厚中将の手記が残っており、「昭和十年八月一日夜林陸相との会談メモ」では、次のように記されている。

 山岡「真崎大将は何故に免ぜられたるや?」

 大臣「南、永田の工作にしてその他稲垣次郎中将(閑院宮別当)、鈴木荘六大将(前参謀総長)、植田謙吉、林弥乃吉中将等より総長宮に申し上げ、殿下は真崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、総監を免ずるだけとせり」

 山岡「総長宮に対し、しからば私も大臣をやめましょうとて、大臣と真崎閣下と二人して後任大臣と総監を決定して申し上ぐること不可能なりしや?」

 大臣「(しばらく答うる能わず)……閣僚という地位もありて、そう簡単にはいかぬ」

 山岡「永田は如何?」

 大臣「即刻転職を必要とす。次官も永田をかえることを申し出たり。官僚と手を握るなどはなはだ不可なり。パンフレットは工藤の馬鹿が……」

 山岡「後任に今井は如何?」

 大臣「不可……今井が軍務で、橋本が次官は不可、今井と橋本は引き離すべく考えあり……。若山中将を新たに師団長たらしむべく両名に申し出たるも、予は前に真崎と相談し足ることもあり、断乎としてこれを排せり。元来今回の画策は、南と永田にて、南もっとも悪し。打ち切るを可とするも今は如何ともしがたし」

 山岡「今井が軍務として不可なれば山下(奉文)を可とせん。彼は土佐なれども元来東京なり。その妻君は永山氏の女なり。世上荒木系、真崎閥云々というもいずこに閥ありや?」

 大臣「しかり閥云々という者あるも、予もそうでもないと思う。予は林弥乃吉らの言は決して信ぜず、彼は不可なり。真崎は武藤元帥の児分にして、予もまたしかり。故に元来真崎と善し、いまさら宇垣、南に降参するをえず」

 山岡「大臣が将来更迭せらるる場合は、誰を押さるるや?安部大将なりや?」

 大臣「阿部なんか不可なり。寺内、川島らならん。荒木には困難なる事情あるべし」