陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

323.岡田啓介海軍大将(3)実力で出世しても、妻のお陰で偉くなったと言われるぞ

2012年06月01日 | 岡田啓介海軍大将
 東郷艦長は、船長その他乗組員などを「浪速」に収容して、輸送船を撃沈しようとしたが、船長以下が「浪速」に移ることも清国将校が許さなかった。

 東郷艦長は、再度「艦を見捨てよ」と信号を送り、マストに赤旗を掲げ警告した。それでも応じなかったため、東郷艦長の命令で「浪速」は水雷と大砲を撃ち、「高陞号」を撃沈した。

 このことが日本内地に伝わると、英国の船を沈めたと大騒動になった。当時の伊藤博文総理大臣は西郷従道海軍大将を難詰した。だが、西郷大将は「東郷がでたらめなことをやるはずがない」とすましていたという。

 日本国は朝野をあげて、海軍はとんでもないことをしてくれたという空気だった。ところが、当時世界一流の国際法の権威だった英国の学者、ウェストレーキ・ホルラントが「東郷艦長の取った処置は正しい」という論文をタイムズ紙に発表したので、東郷批判はピタリと止んでしまった。

 そして、国際法に精通しているということで東郷大佐の声望が高まった。岡田少尉は東郷大佐の偉大さと国際法の持つ意味内容を改めて知った。

 「宰相岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版)によると、明治三十四年五月、岡田啓介少佐は海軍大学校甲種(二期)を卒業した。

 これで岡田啓介少佐は、海軍大学校の甲乙丙のすべてを卒業したわけで、当時はきわめて珍しいことであった。ところがその割に出世が遅かった。当時のことを、岡田啓介は次のように語っている。

 「私のクラスでは、財部彪が宮様なみに、どんどん進級していくだけで、わたしはなかなかうだつがあがらなかった。それで、若い者が学生を志願すると、上の人が『学生なんか受験するのはよせ。岡田を見ろ、片っ端から学生をやったが、一向にうだつがあがらんじゃないか』と言ったそうだ」。

 財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五首席・海軍次官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン会議全権)は秀才でもあったが、彼の妻は、今をときめく海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(海兵二・防護巡洋艦「高千穂」艦長・軍務局長・海軍大臣・男爵・海軍大将・伯爵・首相・功一級金鵄勲章・大勲位菊花大綬章・大勲位菊花頸飾)の娘だった。

 この縁談が話題になったとき、明治三十年一月、ロシア留学を目の前にした、同期の広瀬武夫大尉(海兵一五・ロシア駐在武官・日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死)は、当時常備艦隊参謀であった財部彪大尉を訪れ、次のように言った。

 「貴様は、大臣の娘などもらわなくても十分偉くなれるのだ。実力で出世しても、妻のお陰で偉くなったと言われるぞ。残念なことではないか。この縁談はなかったことにしろ」。

 さらに広瀬大尉は山本権兵衛海軍大臣官邸を訪れた。山本海相に面会できた広瀬大尉は、山本海相に声を大きくしてこの結婚で被る財部大尉の不利を述べ、「この結婚は破談にしていただきたい」などと言った。

 だが、山本海相は聞き入れず、結婚はとりおこなわれた。そのせいか、財部彪は海軍兵学校十五期生では昇進が最も早かった。大将にも一番早く昇進している。同期の岡田啓介の出世と比べてみると次のようになる。

 海軍少佐進級は、二人とも明治三十二年九月二十九日で同じ。中佐進級は、財部が明治三十六年九月二十六日(三十六歳)、岡田は明治三十七年七月十三日(三十六歳)。

 大佐進級は、財部が明治三十八年一月十二日(三十八歳)、岡田が明治四十一年九月二十五日(四十歳)。少将進級は、財部が明治四十二年十二月一日(四十二歳・同日海軍次官)、岡田が大正二年十二月一日(四十五歳・大正四年人事局長)。

 中将進級は、財部が大正二年十二月一日(四十六歳・大正六年舞鶴鎮守府司令長官)、岡田が大正六年十二月一日(四十九歳・大正十二年海軍次官)。大将進級は、財部が大正八年十一月二十五日(五十二歳・大正十二年海軍大臣)、岡田が大正十三年六月十一日(五十六歳・昭和二年海軍大臣)。

 「岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版局)によると、大正七年十一月にはドイツが降伏し、四年四ヶ月にわたる第一次世界大戦が終結した。

 大正八年一月から、パリで講和会議が開かれ、六月にベルサイユで講和条約が調印された。日本は西園寺公望(さいおんじ・きんもち・京都・ソルボンヌ大学・侯爵・オーストリア特命全権公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・枢密院議長・首相・元老・大勲位菊花大綬章・大勲位菊花章頸飾・公爵)が主席全権としてとして参加した。

 日本は戦勝国側に立ってイギリス、アメリカ、フランス、イタリアと並んで押しも押されぬ世界五大強国の一つとなった。