陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

325.岡田啓介海軍大将(5)海軍では同期生の大臣、次官というのは例のないことだった

2012年06月15日 | 岡田啓介海軍大将
 大正十一年六月、加藤友三郎大将は多くの信望を得て、内閣を組閣した。海軍大臣を兼務し、海軍次官に岡田啓介中将を選んだ。

 岡田啓介中将(海兵一五・海大二)と加藤寛治中将(海兵一八首席)は、ともに福井県の出身で同郷だった。

 二人は、条約派(軍縮派)と艦隊派(軍拡派)ということでよく比較されていた。岡田中将は清濁併せ呑む性格であったが、加藤寛治中将は潔癖で妥協が嫌いな性分だった。二人に共通するところはともに酒豪だった。

 信条は異なっていたが、二人は、仲が悪いということではなかったと言われている。旧藩主松平侯の祝いの席などで同席したときには、加藤寛治中将は、岡田中将に対して、先輩・後輩の礼を失わず、ともに愉快に飲み交わしていたという。だが、主義はあくまで異なり、「和して同ぜず」の仲だった。

 大正十二年五月、加藤友三郎大将はワシントン会議の後始末が終わったことから、兼任していた海軍大臣に、岡田中将と兵学校同期の財部彪大将を起用した。

 その後八月二十五日、加藤友三郎大将は首相在任のまま、大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で死去した。享年六十二歳だった。

 大正十二年五月に岡田中将の兵学校同期の財部彪大将が海軍大臣に任命され、岡田中将はその下の次官であった。

 海軍では同期生の大臣、次官というのは例のないことだった。職務に関しては「貴様」と「おれ」の関係は許されなくなる。

 さらにすでに財部彪大臣は大将に昇進(大正八年)しているのに、次官の岡田啓介はまだ中将だった(大正十三年六月大将昇進)。

 だが、この関係はうまくいった。両雄互いに時をわきまえ、公私を混同しなかった。財部大将の才と岡田中将の度量の大きさを示すものだった。

 大正十三年六月岡田啓介は大将に昇進し、その年の十二月一日、第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官に任命された。第十五代の連合艦隊司令長官だった。前任の十四代は鈴木貫太郎大将だった。

 鈴木貫太郎大将と岡田啓介大将は、よく似た運命だった。ともに二・二六事件で青年将校により襲撃され、終戦時は、ともに祖国を滅亡から救うために尽力した。

 なお、岡田大将の後任の、第十六代連合艦隊司令長官は加藤寛治大将だった。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、連合艦隊司令長官について、岡田啓介は次のように述べている。

 「東郷元帥は別にして、そのころまでは、連合艦隊司令長官といっても、一般が英雄のように見る傾向はなかった。世間からもてはやされるようになったのは加藤寛治が長官になったり、末次がやったりしたころからだろう。ごく平穏におさまっていた世の中で、どうという思いでもない。思い出のないのが、たいへんいいことで、日本も平和だったよ」。

 ちなみに末次信正中将は昭和八年に二十一代連合艦隊司令長官に任命されている。

 昭和二年四月二十日、岡田啓介大将は、田中義一(山口・陸士八・陸大八・陸軍大臣・陸軍大将・勲一等旭日大綬章・男爵)内閣の海軍大臣に就任した。

 昭和二年五月、中国では中国国民党の蒋介石軍が北京を支配している張作霖を倒すため北伐を開始、内乱状態になった。

 田中義一内閣は在留邦人の保護を名目に、陸軍部隊を青島経由で済南市に派遣した。山東省は三井、三菱など多くの商社が進出していた。

 日本は権益保護ということで出兵した。「居留邦人百二十名虐殺」の虚報があり、翌年昭和三年には。第二次、第三次と出兵が続いた、新聞は誇大ニュースで国民の愛国心や同胞感情をあおった。

 岡田啓介海相は、このような陸軍の派兵について閣議の折、陸軍のやり方について反対意見を述べた。

 だが、田中首相を中心とした陸軍は耳を貸そうともしないで第三次派兵には一万五千名もの軍隊を送った。