大正七年八月三十一日、山本五十六は東京芝の水交社で結婚式を挙げた。五十六は少佐の四年目で三十四歳、妻の礼子は二十二歳だった。
礼子は旧姓、三橋礼子といい、会津若松出身だった。父三橋康守は旧会津藩士で判事であった。だが当時は判事を辞職し牛乳業を営んでいた。礼子は会津高等女学校を卒業し、家事手伝いをしていた。
礼子の母、三橋亀久は山下源太郎と従兄妹だった。旧米沢藩出身の山下源太郎は当時海軍大将で、五十六と礼子が結婚式を挙げた日の翌日、九月一日に連合艦隊司令長官に就任している。五十六は山下大将の自宅をよく訪問している。
五十六と礼子の二人の間には、結婚後十四年間に四人の子供が生まれた。子供が四人もできると妻の座が重くなるのはどこの家庭でも同じだが、気性の強い礼子は一たん言い出したらめったに後に引かなくなり、夫婦喧嘩が始まると、五十六は直ぐ布団をかぶって寝てしまったという。
山本は礼子を人前に出すことをあまり好まなかったようで、部下の細君から「奥さまお元気ですか」と聞かれると、「あんな松の木みたいなもの、大丈夫だよ」と答えたという。
ある時、礼子の母親、亀久が会津から出てきて、「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変わらずでさぞお困りでしょう」と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどいた。
すると、山本は紙に和歌を一首書いて、これを読んでくださいと渡した。それは「見る人の心々にまかせておきて雲井にすめる秋の夜の月」という古歌で、山本の自分の心境を示していた。
大正八年四月五日、山本少佐は米国のボストンに駐在、一年間ハーバード大学に留学した。当時、在学中の仲間に小熊信一郎がいた。小熊は軍人ではなく、父親が日露漁業の基礎を造った人で、小熊もその関係で財界で働いていた。
山本少佐も小熊もともに負けず嫌いであった。二人はよく将棋を指した。ある日、山本少佐に立て続けに五番負けた小熊が、口惜しがって「将棋も五番や七番指したくらいで、本当の腕はわからないな」と言った。
すると山本少佐が「じゃあ何番させば分かるんだ」と開き直った。売り言葉に買い言葉で、「倒れるまで指してみなければ分からない」。それで、日を改めて、どちらかが倒れるまで指そうということになった。
山本少佐は果物やサンドイッチをたくさん詰めた袋を持って、小熊信一郎の下宿を訪ねると、カバンからグラフ用紙に百回までの成績記入欄を作ったものを取り出した。
友人の森村勇らは、食料を補給する係りで、その夜はいい加減なところで引揚げた。翌朝、森村が小熊の下宿の下から見上げると、まだ山本少佐と小熊は指していた。
その日の夕方、食べ物を差し入れに行って見ると、二人はまだやっていた。友人達はまわりで、勝手にポーカーや八八をして遊びだしたが、午後七時になり、八時になり、まる一昼夜経っても、二人はやめなかった。
しかし、そのころ、二人の将棋は次第に粗雑になってきて、一回が十五分くらいで片が付き、やがて、どちらからともなく「オイ、あっちのほうがおもしろそうだなあ」と言い出したのが、午後十一時で、始めてから二十六時間後だった。
結局、山本少佐と小熊の二人とも、倒れないままの七十五番で打ち切りとなり、二人とも花札の仲間入りをしてしまった。小熊は、八八の手が付かなくて下りている間に、ちょっと仰向けになったら、それきり死んだように寝込んでしまったという。
大正十一年二月六日、ワシントン軍縮条約が調印された。「山本五十六・悲劇の連合艦隊司令長官」(豊田穣・吉田俊雄・半藤一利他・プレジデント社)によると、この条約により主力艦保有量の対米英比率が五・五・三となった。
このことについて、山本五十六は後に「五・五・三なんてあれでいいんだよ。あれは向こうをしばる条約なんだから」と意見を述べた。
山本五十六は、やがて飛行機の時代になるだろうし、主力艦にこだわることはないという思いがあったのだろう。軍縮条約に随行した山本の兵学校同期の親友、堀悌吉(海兵三二首席・海大一六首席)も「ワシントン会議は、国際的にも経済的にも日本を救った」と論評している。
山本五十六は無類のバクチ好きだった。ひまさえあれば、賭け将棋、囲碁、マージャン、トランプ、花札、ルーレット、玉突きなどをやっていた。
大正十二年六月二十日山本五十六中佐は欧米各国への出張を命ぜられ、軍事参議官・井出謙治大将(海兵一六)に随行して欧米諸国を視察した。
「海燃ゆ」(工藤美代子・講談社)によると、この欧米視察はワシントン会議成立後の情勢を視察するためだった。
前述のように山本中佐は賭博が好きだった。モナコでは、山本中佐があまりに勝ち続けるので、カジノの支配人がとうとう入場を拒否した。これは史上二番目のことだった。
礼子は旧姓、三橋礼子といい、会津若松出身だった。父三橋康守は旧会津藩士で判事であった。だが当時は判事を辞職し牛乳業を営んでいた。礼子は会津高等女学校を卒業し、家事手伝いをしていた。
礼子の母、三橋亀久は山下源太郎と従兄妹だった。旧米沢藩出身の山下源太郎は当時海軍大将で、五十六と礼子が結婚式を挙げた日の翌日、九月一日に連合艦隊司令長官に就任している。五十六は山下大将の自宅をよく訪問している。
五十六と礼子の二人の間には、結婚後十四年間に四人の子供が生まれた。子供が四人もできると妻の座が重くなるのはどこの家庭でも同じだが、気性の強い礼子は一たん言い出したらめったに後に引かなくなり、夫婦喧嘩が始まると、五十六は直ぐ布団をかぶって寝てしまったという。
山本は礼子を人前に出すことをあまり好まなかったようで、部下の細君から「奥さまお元気ですか」と聞かれると、「あんな松の木みたいなもの、大丈夫だよ」と答えたという。
ある時、礼子の母親、亀久が会津から出てきて、「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変わらずでさぞお困りでしょう」と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどいた。
すると、山本は紙に和歌を一首書いて、これを読んでくださいと渡した。それは「見る人の心々にまかせておきて雲井にすめる秋の夜の月」という古歌で、山本の自分の心境を示していた。
大正八年四月五日、山本少佐は米国のボストンに駐在、一年間ハーバード大学に留学した。当時、在学中の仲間に小熊信一郎がいた。小熊は軍人ではなく、父親が日露漁業の基礎を造った人で、小熊もその関係で財界で働いていた。
山本少佐も小熊もともに負けず嫌いであった。二人はよく将棋を指した。ある日、山本少佐に立て続けに五番負けた小熊が、口惜しがって「将棋も五番や七番指したくらいで、本当の腕はわからないな」と言った。
すると山本少佐が「じゃあ何番させば分かるんだ」と開き直った。売り言葉に買い言葉で、「倒れるまで指してみなければ分からない」。それで、日を改めて、どちらかが倒れるまで指そうということになった。
山本少佐は果物やサンドイッチをたくさん詰めた袋を持って、小熊信一郎の下宿を訪ねると、カバンからグラフ用紙に百回までの成績記入欄を作ったものを取り出した。
友人の森村勇らは、食料を補給する係りで、その夜はいい加減なところで引揚げた。翌朝、森村が小熊の下宿の下から見上げると、まだ山本少佐と小熊は指していた。
その日の夕方、食べ物を差し入れに行って見ると、二人はまだやっていた。友人達はまわりで、勝手にポーカーや八八をして遊びだしたが、午後七時になり、八時になり、まる一昼夜経っても、二人はやめなかった。
しかし、そのころ、二人の将棋は次第に粗雑になってきて、一回が十五分くらいで片が付き、やがて、どちらからともなく「オイ、あっちのほうがおもしろそうだなあ」と言い出したのが、午後十一時で、始めてから二十六時間後だった。
結局、山本少佐と小熊の二人とも、倒れないままの七十五番で打ち切りとなり、二人とも花札の仲間入りをしてしまった。小熊は、八八の手が付かなくて下りている間に、ちょっと仰向けになったら、それきり死んだように寝込んでしまったという。
大正十一年二月六日、ワシントン軍縮条約が調印された。「山本五十六・悲劇の連合艦隊司令長官」(豊田穣・吉田俊雄・半藤一利他・プレジデント社)によると、この条約により主力艦保有量の対米英比率が五・五・三となった。
このことについて、山本五十六は後に「五・五・三なんてあれでいいんだよ。あれは向こうをしばる条約なんだから」と意見を述べた。
山本五十六は、やがて飛行機の時代になるだろうし、主力艦にこだわることはないという思いがあったのだろう。軍縮条約に随行した山本の兵学校同期の親友、堀悌吉(海兵三二首席・海大一六首席)も「ワシントン会議は、国際的にも経済的にも日本を救った」と論評している。
山本五十六は無類のバクチ好きだった。ひまさえあれば、賭け将棋、囲碁、マージャン、トランプ、花札、ルーレット、玉突きなどをやっていた。
大正十二年六月二十日山本五十六中佐は欧米各国への出張を命ぜられ、軍事参議官・井出謙治大将(海兵一六)に随行して欧米諸国を視察した。
「海燃ゆ」(工藤美代子・講談社)によると、この欧米視察はワシントン会議成立後の情勢を視察するためだった。
前述のように山本中佐は賭博が好きだった。モナコでは、山本中佐があまりに勝ち続けるので、カジノの支配人がとうとう入場を拒否した。これは史上二番目のことだった。
阿川弘之さんは戦時に十代。山本元帥と個人的に親しかったわけでもない人の書いた本より、上記の本を読んでみて下さい。