陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

203.山本五十六海軍大将(3) 甲板士官なんて、真平御免!

2010年02月12日 | 山本五十六海軍大将
 井出大将は、山本中佐が「私を二年間欧州各地に遊ばせておけば戦艦一隻くらい製造する費用は獲得できるでしょう」と言ったと、反町栄一に語った。

 そのあと井出大将は誤解を恐れたのか、反町に「(山本は)もちろん、そのためにけっして仕事の遅延をきたしたことはない」と付け加えた。

 欧米視察の途中、モナコのカジノでルーレットをやり、大勝ちして入場を拒絶されたという伝説がある。

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・文藝春秋)によると、山本五十六は勝負事の三徳を次の様に言ったという。

 1、勝っても負けても、冷静にものを判断する修練ができる。2、機をねらって勇往邁進、相手を撃破する修練ができる。3、大胆にしてしかも細心なるべき習慣を養うことができる。

 著者の高木惣吉元海軍少将(海兵四三・海大二五首席)は、「少なくとも、山本提督の場合、己にとっては修練の具となり、同時に上下親睦の功徳をもったことは誇張ではない」と述べている。

 また、山本五十六は「自分の利欲のために勝負事をやったのでは決して冷静的確な判断は生まれない。すべて勝負事は私欲を挟まず、科学的、数学的でなければならぬ。熱狂しては駄目だ。冷静に観察し、計画すれば必ず勝つ機会がよく判る。そして好機は一日に数回は必ず廻ってくる。それを辛抱強く待つ忍耐が大切だ。モナコの賭けも高等数学で勝てる」と述べたという。

 山本五十六は大正十四年十二月、大使館附駐米武官に任命された。山本大佐が武官として米国に滞在していた時、後任補佐官として三和義勇大尉(海兵四八・海大三一次席)が山本大佐に仕えた。また太平洋戦争開戦時には、三和義勇大佐は山本司令長官の下で、連合艦隊の航空参謀として勤務した。

 長年、山本五十六に仕えた三和大佐も昭和十九年八月二日、第一航空艦隊参謀長としてテニヤンで戦死した(戦死後少将)。三和大佐は山本五十六に心酔していた人物で、戦死直前まで記した「山本元帥の想い出」を大判のノートに書き残していた。

 このノートに三和が山本に初めて会ったときのことを書き残している。このとき三和はまだ中尉で、霞ヶ浦航空隊で飛行学生として勤務していた。

 その頃、大正十三年九月一日付けで、山本五十六大佐が霞ヶ浦航空隊付を命ぜられ、赴任してきた(山本はそれから三ヵ月後に同航空隊の副長兼教頭になった)。その時のことを三和はノートに次の様に記している。

 「何日か忘れて仕舞ったが、日曜日の夕食后、私達は其の前日午後からの休みを利用して東京に遊びに行き、暮方上野を出る常磐線で土浦指して帰って来た。連れは同僚小十人も居った」

 「列車は横にずらりと並ぶ旧式の二等車で、私達以外には左前隅に一人の壮年の方が乗って居られた丈で誰も居ない。我々は之を幸ひに列車の中を傍若無人に談論して居た」

 「フト此の壮年(と見ゆる)紳士を見ると、始終私達の方を注視して居られる。服装及び持って居られた大型のスーツケースは洋行帰りを思はしめるものがあるが頭髪は短く、眼、口等何となく軍人だナと直感せらるる人だった」

 「汽車が土浦に着いた。私達はドヤドヤと降りて隊から来てゐる定期自動車便に乗ろうとしたら、件の人はツカツカと来られて、之は霞空の定期かと尋ねられたので、ソウですと答えたら黙って乗り込まれた」

 「誰か知らず、大方出張にでも来られた少佐位の人だろうと思って居た所、実は此の人が新しく隊附で来られた山本大佐だと判った」

 霞ヶ浦航空隊には「飛行機に縁の無いそんな人が、いきなり航空隊の頭株にやって来て、一体何をするつもりなんだ」というような反発的気分があった。

 三和義勇も血気盛んで小生意気な、飛行学生教程を終えたばかりの若い中尉だった。山本五十六が副長就任後間もなく、三和中尉は、内務主任の松永少佐から副長付の甲板士官として推薦された。

 だが、三和中尉は「もうすぐ操縦教官になろうとしているものを、甲板士官なんて、真平御免!」と、頑として承知しなかった。

 「それなら、貴様直接山本大佐のところへ行ってそう言え」と松永少佐から言われ、三和中尉は肩をいからせて、山本大佐に直談判で断りを述べに言った。

 三和中尉が山本大佐に会ってみると、妙にその気迫に押されて言葉が出なくなってしまった。結局、甲板士官の役を引き受けさせられただけでなく、「懸命の努力をいたします」と誓って引き下がってくることになった。

 「参りました」と三和中尉が報告すると、松永少佐が「ほれ見ろ」と言って笑った。それから三和中尉は日々山本大佐に接して、この上なく山本五十六が好きになってしまった。