この霞ヶ浦航空隊に、副長・山本五十六大佐と同じ長岡中学校の五年後輩の大崎教信少佐(海兵三六)が副官として勤務していた。
大崎少佐が土浦の神龍寺という寺の境内に地所を借りて家を建てた。この家が完成しないうちに、山本大佐が霞ヶ浦航空隊に着任した。
この家が出来上がるという時に、山本大佐は大崎少佐に、同郷同窓という懇意さから、「大崎、貴様は少佐のくせに、家を建てるのは生意気だ、俺に譲らんか」と言った。
大崎少佐も初めて建てた家だから、暫くは住みたい。それで「自分が転任する時はきっと譲りましょう」と約束した。
ところが、大崎少佐が大村航空隊へ転任が決まると、山本大佐が、まだ荷物も作らぬうちに押しかけてきて、「今日、日がいいから引っ越す、さあ早くあけろ」と言った。一たんこうと決めたらなかなか聞かぬ人だからたまらない。
とうとう大崎少佐はまず、お寺のほうに荷物と自分の体を預かってもらい、山本大佐を自分の家に入れた。山本大佐には、こういう駄々っ子に等しい振る舞いも時々演じられたという。それで部下が気を悪くすることはなかった。
ある夏の日、三和義勇中尉は、独身で、夏休みをもらったが、行くところがなく、相変わらず航空隊住まいをしていた。すると副長の山本五十六大佐が「甲板士官は何処にも行かんのか? ・・・それでは僕の家に避暑に来ないか。ちょうど家族もいない」と、三和中尉を神龍寺という寺の境内の山本の家に誘った。
三和中尉は「避暑とはどういうことか?」と思った。家に着くと山本大佐が「裸になれ」というので、主客とも猿股ひとつになった。
すると山本大佐は「これから特別の避暑法をやる」と宣言し、「水風呂がこしらえてあるから、あれに入って身体をふかずに、この廊下に寝るんだ。涼しいぜ。俺が先にやって見せるから」と水風呂に飛び込んだ。
それから上がって、誰もいない家の戸や障子をみな開け放して、日陰の板廊下に寝そべった。三和中尉もやってみると、なるほど涼しかった。
やがて昼飯になると、いつの間にか、茶の間に昼食の用意ができていた。しかし、それはご飯と茄子の煮付けだけだった。
山本大佐は「この茄子は僕が煮たんだ。少々辛いかも知れんぞ。しかし暑い時は辛いものを食ったほうが、暑さを忘れていいんだ」と言った。
山本大佐に言われて三和中尉が箸をつけてみると、辛いの辛くないのといって、醤油だけでは足らず、これでもかこれでもかと塩を一握りも入れて煮込んだような茄子の煮つけで、その辛さに耐えるだけで、確かに暑さのほうは忘れてしまった。
ところが、食後には、井戸で冷やした大きなスイカが出た。二つに割って、一人が半分ずつ取り、それに葡萄酒と砂糖をたっぷり叩き込んで食った。大変うまかったが、茄子の辛さを消すには、それでも少々の甘さでは足りなかったという。
三和中尉が「副長はずいぶん甘いのがお好きですね」と言うと、山本大佐は「フフン」と笑っているだけで、さっきの茄子が辛すぎたなどとは、一言も言わなかったという。
「人間・山本五十六」(反町栄一・光和堂)によると、当時、霞ヶ浦航空隊に隊付として勤務していた、不敵の豪傑、大西瀧治郎大尉(海兵四〇)が、連日セッセと勉強していた。
三和義勇中尉が聞くと、教育綱領か教務規定だったか、そのようなものの改正案を一生懸命に起案していた。三和中尉が弥次り半分に「ドエライ勉強振りですね」と言ったら、大西大尉は「今度の副長には使い回されるよ、然しこんなに愉快に働くのは初めてだ」と言っていた。
世界で最初に航空母艦として設計され完成した空母鳳翔(基準排水量七四〇〇トン)は、大正十一年十二月二十七日に就役した。
当時航空母艦に配属されるのは、技術抜群の天才的パイロットに限るという意見が支配的だった。三和中尉によると、これに異を唱えた山本大佐は次の様に言った。
「百人の搭乗員中幾人あるかしれぬような天才的な人間でなければ着艦もできぬとすれば、帝国海軍にそんな航空母艦はいらぬ。搭乗員の大多数が着艦できるようにせねばならぬ。素質云々もさることながら、要は訓練方式の改善と、当事者の訓練に対する努力の如何にあると信ずる。試みに次回の母艦搭乗員には技量中級の者を持っていけ」
教育者としての山本五十六の本領が発揮された意見だった。山本五十六は常に部下を育てることに心を砕いていたという。後に連合艦隊司令長官になった山本五十六は、配下の指揮官に、「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かぬ」と訓えたという。
大崎少佐が土浦の神龍寺という寺の境内に地所を借りて家を建てた。この家が完成しないうちに、山本大佐が霞ヶ浦航空隊に着任した。
この家が出来上がるという時に、山本大佐は大崎少佐に、同郷同窓という懇意さから、「大崎、貴様は少佐のくせに、家を建てるのは生意気だ、俺に譲らんか」と言った。
大崎少佐も初めて建てた家だから、暫くは住みたい。それで「自分が転任する時はきっと譲りましょう」と約束した。
ところが、大崎少佐が大村航空隊へ転任が決まると、山本大佐が、まだ荷物も作らぬうちに押しかけてきて、「今日、日がいいから引っ越す、さあ早くあけろ」と言った。一たんこうと決めたらなかなか聞かぬ人だからたまらない。
とうとう大崎少佐はまず、お寺のほうに荷物と自分の体を預かってもらい、山本大佐を自分の家に入れた。山本大佐には、こういう駄々っ子に等しい振る舞いも時々演じられたという。それで部下が気を悪くすることはなかった。
ある夏の日、三和義勇中尉は、独身で、夏休みをもらったが、行くところがなく、相変わらず航空隊住まいをしていた。すると副長の山本五十六大佐が「甲板士官は何処にも行かんのか? ・・・それでは僕の家に避暑に来ないか。ちょうど家族もいない」と、三和中尉を神龍寺という寺の境内の山本の家に誘った。
三和中尉は「避暑とはどういうことか?」と思った。家に着くと山本大佐が「裸になれ」というので、主客とも猿股ひとつになった。
すると山本大佐は「これから特別の避暑法をやる」と宣言し、「水風呂がこしらえてあるから、あれに入って身体をふかずに、この廊下に寝るんだ。涼しいぜ。俺が先にやって見せるから」と水風呂に飛び込んだ。
それから上がって、誰もいない家の戸や障子をみな開け放して、日陰の板廊下に寝そべった。三和中尉もやってみると、なるほど涼しかった。
やがて昼飯になると、いつの間にか、茶の間に昼食の用意ができていた。しかし、それはご飯と茄子の煮付けだけだった。
山本大佐は「この茄子は僕が煮たんだ。少々辛いかも知れんぞ。しかし暑い時は辛いものを食ったほうが、暑さを忘れていいんだ」と言った。
山本大佐に言われて三和中尉が箸をつけてみると、辛いの辛くないのといって、醤油だけでは足らず、これでもかこれでもかと塩を一握りも入れて煮込んだような茄子の煮つけで、その辛さに耐えるだけで、確かに暑さのほうは忘れてしまった。
ところが、食後には、井戸で冷やした大きなスイカが出た。二つに割って、一人が半分ずつ取り、それに葡萄酒と砂糖をたっぷり叩き込んで食った。大変うまかったが、茄子の辛さを消すには、それでも少々の甘さでは足りなかったという。
三和中尉が「副長はずいぶん甘いのがお好きですね」と言うと、山本大佐は「フフン」と笑っているだけで、さっきの茄子が辛すぎたなどとは、一言も言わなかったという。
「人間・山本五十六」(反町栄一・光和堂)によると、当時、霞ヶ浦航空隊に隊付として勤務していた、不敵の豪傑、大西瀧治郎大尉(海兵四〇)が、連日セッセと勉強していた。
三和義勇中尉が聞くと、教育綱領か教務規定だったか、そのようなものの改正案を一生懸命に起案していた。三和中尉が弥次り半分に「ドエライ勉強振りですね」と言ったら、大西大尉は「今度の副長には使い回されるよ、然しこんなに愉快に働くのは初めてだ」と言っていた。
世界で最初に航空母艦として設計され完成した空母鳳翔(基準排水量七四〇〇トン)は、大正十一年十二月二十七日に就役した。
当時航空母艦に配属されるのは、技術抜群の天才的パイロットに限るという意見が支配的だった。三和中尉によると、これに異を唱えた山本大佐は次の様に言った。
「百人の搭乗員中幾人あるかしれぬような天才的な人間でなければ着艦もできぬとすれば、帝国海軍にそんな航空母艦はいらぬ。搭乗員の大多数が着艦できるようにせねばならぬ。素質云々もさることながら、要は訓練方式の改善と、当事者の訓練に対する努力の如何にあると信ずる。試みに次回の母艦搭乗員には技量中級の者を持っていけ」
教育者としての山本五十六の本領が発揮された意見だった。山本五十六は常に部下を育てることに心を砕いていたという。後に連合艦隊司令長官になった山本五十六は、配下の指揮官に、「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かぬ」と訓えたという。