大正十四年十二月、山本五十六大佐は駐米武官に任命され、翌年一月二十一日、横浜から米国に旅立った。山本大佐は日本大使館付武官として昭和三年初頭まで米国で勤務を続けた。
山本武官の最初の補佐官だった山本親雄大尉(海兵四六恩賜・海大三〇首席)が、武官事務所で雑談をしていたとき、山本大佐に次の様に言った。
「軍人は政治にかかわらずというのが御勅諭の精神ですから、自分は政治のことには、あんまり関心を払わないことにします。新聞も政治面はあまり読みません」
すると山本大佐は「ばか者。政治にかかわらずというのは、知らんでいいということじゃない。そんな心掛けでどうするか」と叱りつけたという。
「人間提督山本五十六」(戸川幸夫・光人社NF文庫)によると、山本五十六大佐が駐米武官のとき、後任の武官補佐官として三和義勇大尉が米国に赴任してきた。
昭和二年、アメリカのリンドバーグが世界で初めて大西洋横断飛行に成功した。続いてバードが事実上成し遂げた。
ある日、補佐官の三和大尉が武官の山本大佐のところにやってきて次の様に訴えた。
「リンドバーグ並びにバードの大西洋横断飛行について研究していましたところ、気づいた点がありましたので、報告に来ました」
「洋上を長距離飛行するためには絶対に計器飛行によらねばならぬということです。天測航法が絶対に必要であり、米国ではすでにこれに着目して研究し、立派な計器を使用しています。わが国のは、海軍ですらまだセンピル飛行団から教わった勘偏教育の域を脱していません」
「自分は前年、鳳翔で着艦訓練をしていましたが、その時ですら計器はまだ当てにならぬ、勘を養えと教えられました。自分達は一〇式艦上戦闘機4B型では着艦速力五十四ノットと教えられていました」
「ある日、計器どおりに着艦しますと、ある教官から、いまのは一ノットはやいと注意されました。そこで計器の指示通りに合わせて着艦した旨を答えますと、『計器が当てになるか、俺の勘のほうが確かじゃッ、生意気いうな!』と、したたか殴りつけられました」
「自分は殴られた口惜しさよりも、わが海軍機は計器によって正確な飛行ができるようでなければならぬ。計器が発達すれば、錬度の多寡はかなり接近するに違いないと考えました。その考えが誤りでなかったことを今日のリンドバーグやバードが証明したと思います。よろしく勘偏飛行を脱却すべきであります」
これを聞いた山本大佐は「よし、わかった」とにっこり笑って三和大尉の肩をたたいた。山本大佐は三和大尉に意見書を書かせ、それに筆を加えて、強烈な意見書に書き直して海軍省に送った。
昭和二年八月二十四日、連合艦隊の訓練中に艦艇どうしが衝突し多数の死者を出した美保ヶ関事件では、衝突した軽巡洋艦「神通」の艦長、水城圭次大佐(海兵三二・海大一五)は、軍法会議の判決が出る十二月二十六日、自宅で自決した。
米国駐在武官・山本五十六大佐の補佐官、三和大尉が、その美保ヶ関事件の水城大佐について「死んでも仕方あるまい。生きて償いをつけるような働きをされた方が善かったのではないか」という意味のことを言った。
すると山本武官は「何にッ」と言って、三和大尉のほうを睨みつけた。そして次の様に言った。
「死を以って責に任ずるということは、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長として御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派ともいえるし、自分としては当然の事をやったとも考えている」
「君の様な唯物的な考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ。又死を以って責を取った人に対しては、仮にその所業が悪いと見えても、軽々しく批評してはいかぬ」
三和大尉は、自分の頭が唯物的であるか唯心的であるかも気が付かぬ位だったが、とにかく、その考えが真っ向から粉砕されて、腹の底までシーンと寒くなるのを感じた。
その言葉を思い出してようやく腑に落ちたと思われだしたのは、それから十年後だった。
昭和八年十月三日付けで山本五十六少将は第一航空戦隊司令官を命じられた。旗艦は空母赤城で、艦長は塚原二四三大佐(海兵三六・海大一八)だった。
山本司令官は猛訓練を行った。これからの日本を守り通せるものは飛行機しかない。殉職する将兵が続出した。犠牲者の激増に驚いた艦隊司令部から、訓練を緩和してはどうかという伝達があった。だが、山本司令官は次の様に答えた。
「それは命令でしょうか。命令なれば止むをえません。しかし、意見であるなれば不肖山本におまかせください。日本の航空部隊は欧米に遅れて発足したのですから、まだこの程度ではとても一流空軍国にもってゆくことはできません。もっと強化するつもりです。しかし、訓練中の殉職は戦死と同様に扱って下さい。これだけはお願いします」
山本武官の最初の補佐官だった山本親雄大尉(海兵四六恩賜・海大三〇首席)が、武官事務所で雑談をしていたとき、山本大佐に次の様に言った。
「軍人は政治にかかわらずというのが御勅諭の精神ですから、自分は政治のことには、あんまり関心を払わないことにします。新聞も政治面はあまり読みません」
すると山本大佐は「ばか者。政治にかかわらずというのは、知らんでいいということじゃない。そんな心掛けでどうするか」と叱りつけたという。
「人間提督山本五十六」(戸川幸夫・光人社NF文庫)によると、山本五十六大佐が駐米武官のとき、後任の武官補佐官として三和義勇大尉が米国に赴任してきた。
昭和二年、アメリカのリンドバーグが世界で初めて大西洋横断飛行に成功した。続いてバードが事実上成し遂げた。
ある日、補佐官の三和大尉が武官の山本大佐のところにやってきて次の様に訴えた。
「リンドバーグ並びにバードの大西洋横断飛行について研究していましたところ、気づいた点がありましたので、報告に来ました」
「洋上を長距離飛行するためには絶対に計器飛行によらねばならぬということです。天測航法が絶対に必要であり、米国ではすでにこれに着目して研究し、立派な計器を使用しています。わが国のは、海軍ですらまだセンピル飛行団から教わった勘偏教育の域を脱していません」
「自分は前年、鳳翔で着艦訓練をしていましたが、その時ですら計器はまだ当てにならぬ、勘を養えと教えられました。自分達は一〇式艦上戦闘機4B型では着艦速力五十四ノットと教えられていました」
「ある日、計器どおりに着艦しますと、ある教官から、いまのは一ノットはやいと注意されました。そこで計器の指示通りに合わせて着艦した旨を答えますと、『計器が当てになるか、俺の勘のほうが確かじゃッ、生意気いうな!』と、したたか殴りつけられました」
「自分は殴られた口惜しさよりも、わが海軍機は計器によって正確な飛行ができるようでなければならぬ。計器が発達すれば、錬度の多寡はかなり接近するに違いないと考えました。その考えが誤りでなかったことを今日のリンドバーグやバードが証明したと思います。よろしく勘偏飛行を脱却すべきであります」
これを聞いた山本大佐は「よし、わかった」とにっこり笑って三和大尉の肩をたたいた。山本大佐は三和大尉に意見書を書かせ、それに筆を加えて、強烈な意見書に書き直して海軍省に送った。
昭和二年八月二十四日、連合艦隊の訓練中に艦艇どうしが衝突し多数の死者を出した美保ヶ関事件では、衝突した軽巡洋艦「神通」の艦長、水城圭次大佐(海兵三二・海大一五)は、軍法会議の判決が出る十二月二十六日、自宅で自決した。
米国駐在武官・山本五十六大佐の補佐官、三和大尉が、その美保ヶ関事件の水城大佐について「死んでも仕方あるまい。生きて償いをつけるような働きをされた方が善かったのではないか」という意味のことを言った。
すると山本武官は「何にッ」と言って、三和大尉のほうを睨みつけた。そして次の様に言った。
「死を以って責に任ずるということは、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長として御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派ともいえるし、自分としては当然の事をやったとも考えている」
「君の様な唯物的な考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ。又死を以って責を取った人に対しては、仮にその所業が悪いと見えても、軽々しく批評してはいかぬ」
三和大尉は、自分の頭が唯物的であるか唯心的であるかも気が付かぬ位だったが、とにかく、その考えが真っ向から粉砕されて、腹の底までシーンと寒くなるのを感じた。
その言葉を思い出してようやく腑に落ちたと思われだしたのは、それから十年後だった。
昭和八年十月三日付けで山本五十六少将は第一航空戦隊司令官を命じられた。旗艦は空母赤城で、艦長は塚原二四三大佐(海兵三六・海大一八)だった。
山本司令官は猛訓練を行った。これからの日本を守り通せるものは飛行機しかない。殉職する将兵が続出した。犠牲者の激増に驚いた艦隊司令部から、訓練を緩和してはどうかという伝達があった。だが、山本司令官は次の様に答えた。
「それは命令でしょうか。命令なれば止むをえません。しかし、意見であるなれば不肖山本におまかせください。日本の航空部隊は欧米に遅れて発足したのですから、まだこの程度ではとても一流空軍国にもってゆくことはできません。もっと強化するつもりです。しかし、訓練中の殉職は戦死と同様に扱って下さい。これだけはお願いします」