見たところ、山本長官はじめ誰にもミッドウェー海戦のショックなどはないようで、土肥少佐は不思議に思えるほどであった。
8月7日、米軍が突然ガダルカナル島に上陸を開始したという緊急電報が大和の連合艦隊司令部にとびこんできた。ところがほとんどの参謀が、ひろげた海図を前にして、「ガダルカナルってどこだ?」と言っている。
土肥少佐が「ここですよ」と指差した。それにしても土肥少佐は驚いた。連合艦隊参謀といえば、誰でもよく勉強していて、たいていのことはよく知っているだろうと思っていた。
ところが、米豪遮断作戦の要地で、海軍航空基地もまさに完成しようとしているガダルカナル島を知らないとは、これはなんにも勉強していないのだと分かった。連合艦隊参謀陣とはこんな程度だったのか、と土肥少佐は思った。
参謀たちは、ミッドウェー海戦での大敗についても、とくに反省している様子はなかった。どの参謀に聴いても、「あ~、あれは運が悪かったんだ」と、たいしたことでもないように言うだけだった。
これでは、大事な仕事はできないと土肥少佐は思った。ところがその大事な仕事は、どうやら、山本長官と黒島亀人先任参謀の二人だけでやっているようであった。あとの参謀は大事ではないことしかさせられていないようであった。
戦艦日向の艦長・松田千秋大佐は昭和17年12月に戦艦大和艦長として着任した。宇垣参謀長はこの松田夫妻の仲人であった。
着任後、松田艦長は宇垣参謀長に仕事について聴いてみた。すると宇垣参謀長は「おれは参謀長だけれどね、ここでただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ」と、わびしげに言ったという。
山本長官は、ハワイ作戦以来、宇垣参謀長と黒島先任参謀の意見が対立したとき、ほとんど黒島先任参謀の意見をとり、宇垣参謀長の意見をしりぞけている。
「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年11月12日から13日にかけての第三次ソロモン海戦が行われた。
前日の11月11日、アメリカの巡洋艦五隻、駆逐艦十一隻、輸送船六隻がガダルカナル島の泊地に入ってきた。
報告を受けた宇垣参謀長は、この敵集団は粘ると判断して、とっさに計画の変更を思い立った。高速戦艦比叡や霧島は、飛行場砲撃に向かうため砲撃用の焼夷弾と近距離の陸上射撃に使う特別の火薬を用意しているため、艦船攻撃には無力に近い。
比叡、霧島を中心にした十一戦隊を下げ、重巡戦隊をまず突入させ、敵集団に当たらせ、状況を見て比叡、霧島に飛行場攻撃をやらせようとしたのだ。宇垣参謀長はこの計画変更案を作戦参謀たちに検討させた。
ところが黒島先任参謀は宇垣参謀長の案を一蹴した。「なあに、夜になったら敵は逃げますよ。いつもの通りです。水雷戦隊(駆逐艦部隊)を前衛に出しておけば十分です。原案通りにお願いします」
この黒島先任参謀の判断に対して、上司である宇垣参謀長はそれ以上自分の案に固執しなかった。
その結果はどうなったか。十一戦隊は不意を打たれた。深夜東京湾の広さで、日米両艦隊は大乱戦となったのである。
海戦はわずか三十五分間で終わり、アメリカは巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が沈没し、無傷なのは駆逐艦一隻だけという壊滅的な打撃を受けた。
一方日本側は駆逐艦二隻が沈没しただけで夜戦に強いことを証明した。ところが、高速戦艦比叡が舵機室をやられ、同じところをグルグル回るという最悪の事態になった。
主機械やボイラーは無傷で、三十ノットという高速が出せるにもかかわらず、舵がとれずに同一円周上を回るだけという惨状を呈したのである。
阿部十一戦隊司令官はとうてい持ちこたえられないと判断して、比叡の処分の了解を連合艦隊司令部に求めてきた。
8月7日、米軍が突然ガダルカナル島に上陸を開始したという緊急電報が大和の連合艦隊司令部にとびこんできた。ところがほとんどの参謀が、ひろげた海図を前にして、「ガダルカナルってどこだ?」と言っている。
土肥少佐が「ここですよ」と指差した。それにしても土肥少佐は驚いた。連合艦隊参謀といえば、誰でもよく勉強していて、たいていのことはよく知っているだろうと思っていた。
ところが、米豪遮断作戦の要地で、海軍航空基地もまさに完成しようとしているガダルカナル島を知らないとは、これはなんにも勉強していないのだと分かった。連合艦隊参謀陣とはこんな程度だったのか、と土肥少佐は思った。
参謀たちは、ミッドウェー海戦での大敗についても、とくに反省している様子はなかった。どの参謀に聴いても、「あ~、あれは運が悪かったんだ」と、たいしたことでもないように言うだけだった。
これでは、大事な仕事はできないと土肥少佐は思った。ところがその大事な仕事は、どうやら、山本長官と黒島亀人先任参謀の二人だけでやっているようであった。あとの参謀は大事ではないことしかさせられていないようであった。
戦艦日向の艦長・松田千秋大佐は昭和17年12月に戦艦大和艦長として着任した。宇垣参謀長はこの松田夫妻の仲人であった。
着任後、松田艦長は宇垣参謀長に仕事について聴いてみた。すると宇垣参謀長は「おれは参謀長だけれどね、ここでただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ」と、わびしげに言ったという。
山本長官は、ハワイ作戦以来、宇垣参謀長と黒島先任参謀の意見が対立したとき、ほとんど黒島先任参謀の意見をとり、宇垣参謀長の意見をしりぞけている。
「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年11月12日から13日にかけての第三次ソロモン海戦が行われた。
前日の11月11日、アメリカの巡洋艦五隻、駆逐艦十一隻、輸送船六隻がガダルカナル島の泊地に入ってきた。
報告を受けた宇垣参謀長は、この敵集団は粘ると判断して、とっさに計画の変更を思い立った。高速戦艦比叡や霧島は、飛行場砲撃に向かうため砲撃用の焼夷弾と近距離の陸上射撃に使う特別の火薬を用意しているため、艦船攻撃には無力に近い。
比叡、霧島を中心にした十一戦隊を下げ、重巡戦隊をまず突入させ、敵集団に当たらせ、状況を見て比叡、霧島に飛行場攻撃をやらせようとしたのだ。宇垣参謀長はこの計画変更案を作戦参謀たちに検討させた。
ところが黒島先任参謀は宇垣参謀長の案を一蹴した。「なあに、夜になったら敵は逃げますよ。いつもの通りです。水雷戦隊(駆逐艦部隊)を前衛に出しておけば十分です。原案通りにお願いします」
この黒島先任参謀の判断に対して、上司である宇垣参謀長はそれ以上自分の案に固執しなかった。
その結果はどうなったか。十一戦隊は不意を打たれた。深夜東京湾の広さで、日米両艦隊は大乱戦となったのである。
海戦はわずか三十五分間で終わり、アメリカは巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が沈没し、無傷なのは駆逐艦一隻だけという壊滅的な打撃を受けた。
一方日本側は駆逐艦二隻が沈没しただけで夜戦に強いことを証明した。ところが、高速戦艦比叡が舵機室をやられ、同じところをグルグル回るという最悪の事態になった。
主機械やボイラーは無傷で、三十ノットという高速が出せるにもかかわらず、舵がとれずに同一円周上を回るだけという惨状を呈したのである。
阿部十一戦隊司令官はとうてい持ちこたえられないと判断して、比叡の処分の了解を連合艦隊司令部に求めてきた。