陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

85.宇垣纏海軍中将(5) 嶋田海相は愛想良くこう答えた。「いやいや、なんでもない」

2007年11月09日 | 宇垣纏海軍中将
 この村から、あまたの著名な陸海軍の将官級の人材の輩出を見ている。宇垣纏の生家の隣家が陸軍大臣を歴任した宇垣一成陸軍大将の生家である。隣家ではあるが纏と一成は直接血のつながりはない。だが、宇垣纏は宇垣一成陸軍大将を終生尊敬していたという。

 この小村からは宇垣一成の甥に当たる海軍中将宇垣莞爾がいる。海軍少将宇垣環、海軍少将宇垣松四郎も、一族である。

 宇垣莞爾と宇垣纏との関係は、莞爾が一歳年上で、中学校も兵学校も一級上級生であった関係上、兄弟のように親密な間柄で結ばれていた。

 宇垣家には、纏自身の綴った海軍兵学校時代の日記など相当未整理のまま残されているものが少なくないが、莞爾とのこまやかな交友関係がにじみ出ている箇所をかなり多くのところで見出すことが出来る。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、野軍令部総長が真珠湾奇襲計画を受け入れたことによって、昭和16年11月3日、ようやく山本長官の原案が認められることになった。

 宇垣参謀長は旗艦長門の艦上で、11月3日、次のように「戦藻録」に記している。

 「夜八時、上京中の長官、明日午後呉着の電あり。本日午後、大臣官邸の会談を了え、予定よりも一日早く帰艦のこととなれる次第、いよいよ決定なれる証左と見るべく、続いて一部長(福留中将)より、陸軍との協定日取りも八乃至十日と決定の通知に接す。万事オーケー、皆死ね、みな死ね、国のため俺も死ぬ」

 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年6月5~7日のミッドウェー海戦後、戦艦大和以下連合艦隊の戦艦群は瀬戸内海の柱島泊地に戻った。結果はすべて裏目に出て、惨敗に終わった。海軍中央は惨敗隠しに必死になった。

 ミッドウェー海戦から約三週間後、6月27日、柱島泊地にいる戦艦大和を嶋田繁太郎海軍大臣が訪ねた。宇垣参謀長が嶋田海相に挨拶に来た。

 宇垣は、ミッドウェー海戦以後、頭を丸めていた。「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないとおもっています」神妙なおももちで、宇垣参謀長は頭を下げた。

 それに対して、嶋田海相は愛想良くこう答えた。「いやいや、なんでもない」。ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか。

 「凡将・山本五十六」(徳間書店)によると、第四艦隊航海参謀の土肥一夫少佐はミッドウェー海戦直後、連合艦隊航海参謀への転勤辞令を受けた。

 土肥少佐はトラック島から内地に帰り、7月4日の日曜日に呉在泊中の大和に着任した。この日は日曜日なので、山本長官以下の幕僚は、当直参謀一人を残して、みな上陸していた。

 当直参謀にその行き先を聞いて、土肥少佐もすぐに上陸した。最初に、宇垣参謀長がいるという割烹旅館吉川に行った。宇垣参謀長はたった一人で、大筆で揮毫中であった。

 土肥少佐が着任挨拶をすると、揮毫の手を休めて、「まあ、まず一杯」と杯をだした。ここで土肥少佐は、宇垣参謀長から連合艦隊参謀の心得といったものを聴いた。

 土肥少佐は、宇垣参謀長がなぜ一人でいるのか、その時は気に留めなかったが、差しで飲んでいるうちに、宇垣参謀長に親しみを覚えた.

 一時間ほどのちに、土肥少佐は山本長官や幕僚たちのいる割烹旅館華山に行った。部屋に入ると山本長官を囲んで幕僚たちが一杯やっていた。山本長官はいい機嫌になっている参謀たちの騒ぎにまじって楽しそうであった。