陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

4.佐藤市郎海軍中将(4) 学校をずっと首席で通した秀才だがノートというもの一冊も使ったことがない

2006年04月15日 | 佐藤市郎海軍中将
 昭和2年4月5日の東京日日新聞はジュネーブ軍縮会議随員のゴシップ記事として佐藤中佐を次のように評している「佐藤中佐は学校をずっと首席で通した秀才だがノートというもの一冊も使ったことがない。講義の時は定って居眠りばかりしていたという。今度は居眠りしないと声明」。
 主力艦以外の補助艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の軍縮を行う昭和6年に開催されたロンドン軍縮会議には山本五十六海軍少将が随員として佐藤大佐と共に出席していた。「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、全権団の次席であった山本は外務省や大蔵省を押さえて海軍主導で交渉を進め、ロンドン軍縮会議の調印に大きく貢献している。当時すでに山本は海軍部内でその人望が厚く、軍縮会議随員からも尊敬を一身に集めていたといわれる。佐藤大佐も当時、山本五十六を尊敬していたことが記録に残っている。「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)には「矢っぱり山本さんの下で一番重要な役割を受け持つのだ相だ、之が今日嬉しかった第二」、「しっかりしている山本さんの下なら真に働き甲斐がある」などと記されている。余りの頭脳明晰ゆえに上司にさえ癇癪玉を度々爆発させる海軍の大秀才、佐藤大佐も山本五十六には心酔していた事が記されている。それほど山本五十六は部下から慕われる、指揮官としての度量を充分に備えていたことが分かる。