陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

9.佐藤市郎海軍中将(9)  大馬鹿大将と云われても勘づかなかった

2006年05月19日 | 佐藤市郎海軍中将
ロンドン軍縮会議での昭和5年1月15日の佐藤大佐の日記には全権の財部彪海軍大将(海軍大臣)がロンドンで海軍関係者を食事に招待したことが書いてあり、佐藤大佐も招待された。
 
財部大将と島津武官は夫妻で出席した。食事が始まり四方山話のうちに、財部大将が「佐藤大佐も奥さんを連れてくればいいじゃないか」と聞いた。

佐藤大佐が「今は巴里で留守をさせています」と答えると、また大将が「連れて来ればいいじゃないか」と重ねて言った。

佐藤大佐はこれに答えて「実は妻に聞いたところ、私が参りましてもおじゃまになります。皆様がそれこそ命がけのお仕事の最中に夫の仕事の邪魔に少しでもなっては何で済みましょうか。と言ったので留守をさせています」という趣旨の事をわざと永たらしく大将に言った。
 
そのあと「殆ど面と向かって山本(五十六)さんから自分のことを大馬鹿大将と云われても勘づかなかった大将もこう長々と云われては流石にテレ臭かったと見えて『そう云われるとわし達がきまりが悪いな』と白状したがこちらは黙ったままでソーダと云う意を表示した」と記している。
 
全権の海軍の大先輩に対して、余りにも辛らつな態度であると、思った同僚もいたが、佐藤は相手が海軍大臣、海軍大将でも、正しいと思ったら直言するということを実行した。
 
そういう生き方を生涯断固として貫くことが、彼の信条であった。佐藤市郎は軍縮会議ではその能力を駆使して起案主任として主要な仕事をしている。
 
佐藤はロンドン軍縮会議が終わって帰国して三ヶ月経たないうちに国際連盟のリットン支那調査団の日本海軍側随員として調査団とともに中国に渡り、4月に奉天で肺炎にかかり二ヶ月入院した。帰国後も保養地で休養した。