第二艦隊は劣勢ではあったが、戦闘位置が善かったので、攻撃を開始した。鈴木中将は戦闘しつつ本隊と合同しようとしたが、本体と合流しないうちに、戦闘中止を命ぜられて、演習が終結した。
気の毒なことに、第一艦隊はなにもせずに終わった。もう二、三十分すれば、本隊の第一艦隊も戦闘に間に合ったが、燃料が浪費なので、審判官の判断で中止された。
講評では、第二艦隊は本隊と合しないうちに戦闘したのは良くないと批評された。だが、鈴木中将は、劣勢であったが、位置がよかったので、敵の廃残艦を叩き潰す自信はあった。
鈴木中将の第二艦隊には審判官として名和又八郎(なわ・またはちろう)大将(東京・海兵一〇・厳島艦長・第三艦隊司令官・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将)が乗艦していた。遠慮の無い性格の軍人だった。
演習後、慰労会が行われた。その席に演習統監である軍令部長・山下源太郎大将(山形・海兵一〇・英国留学・軍令部第一班長・磐手艦長・海軍兵学校長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)が出席していた。
その席で、名和大将は山下大将に「お前の講評は間違っている」と言った。そして「第二艦隊が合同前に戦闘したというが、あの位置にあって戦闘しない司令官は卑怯者だ、お前の講評は盲目だよ」と続けた。
だが、山下大将はニヤリニヤリと笑って返事をしなかった。この二人の提督は海軍兵学校同期で、日頃は仲の良い友人であった。鈴木中将はその問答を見ていて、両提督の性格が露骨に顕れていると思った。
大正十年十一月、進級会議があり、終わった後に、海軍大臣・加藤友三郎大将(東京・海兵七・海大一・海軍次官・功二級金鵄勲章・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・勲一等瑞宝章・海軍大臣・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・首相・子爵・元帥)の招待があった。
その場で加藤大臣は「海軍の経費が膨大になったから節約していかねばならぬ、できるだけその積もりでやってもらいたい」と訓論を述べた。
そのあと、加藤大臣は「長官で意見があれば、遠慮なく述べよ」と言った。だが、誰も意見を言う者はいなかった。
第二艦隊司令長官・鈴木中将は、その席では一番後任だった。鈴木中将は「上の人から意見を言えば、下の者は言えなくなるから、後任者から発言するのが慣例にでもなっているのかと考えた。それで、次の様に意見を述べた。
「誠に節約のことはごもっともで、できるだけ努力して後趣意に添いたいと思っている。ただ一つ、私の申し上げたいことは、海軍の力のあるのは艦隊の実力のあることである、艦隊の訓練が基である」
「もう訓練をやるにしては今の艦隊の編制が小さ過ぎる、第二艦隊が二隻である、二隻というのは二点で直線か曲線か判りません。三隻なければ物を正して行くことができない、もう少し艦隊訓練に力を入れていただきたい。これは大臣の節約と反対のことになるならば、できれば第一艦隊に集めてしまったら良いかもしれない」。
すると加藤大臣はいやな顔をしてジッと鈴木中将の顔を見て、しばらくして「君の意見はもっともだ。これから第二艦隊を止めてしまう。その船を第一艦隊に一緒にして訓練しよう。そうすると君は待命だ」と笑いながら言った。
鈴木中将は「それは結構です。私は兵学校を出てから今日まで休息したことがない。待命なら休息ができるから結構です」と言った。
この言葉に加藤大臣は笑って「まあ、食事ができた、食堂へ行こう」と言った。
その年の十二月、編制替えが行われ、第二艦隊は一時中止となった。鈴木中将は待命にはならず、十二月一日第三艦隊司令長官に親補された。
親補式に出るため鈴木中将が家を出ようとすると、新聞記者が写真を撮った。それから高輪の御殿へ行って親補式に出た。
そのとき侍立したのは高橋是清(たかはし・これきよ)首相(東京・ヘボン夫人家塾生・渡米し奴隷労働をしながら勉学・大学南校・東京英語学校教員・東京大学予備門英語教員・農商務省書記官・商標登録所長・特許局長・日本銀行副総裁・貴族院議員・男爵・日本銀行総裁・大蔵大臣・子爵・首相・衆議院議員・大蔵大臣・首相・大蔵大臣・大勲位菊花大綬章)だった。
その二ヵ月後、鈴木中将のもとにワシントンから新聞を送ってきた。ワシントン・ポストだった。それを見ると、鈴木中将が親補式に出るときの服装の写真が写っていた。
その写真の下に「この人の容貌は平和的でない」と記してあった。鈴木中将が練習艦隊司令官として遠洋航海でサンフランシスコに行き、日米戦争の演説をしたことをアメリカの新聞は記憶していた。日本の将官の行動を彼らは注目していたのである。
大正十四年四月十五日、鈴木貫太郎大将は海軍軍令部長という最高要職に就任した。五十八歳だった。
当時の軍令部次長は斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)中将(宮城・海兵二〇恩賜・海大四首席・英国駐在・装甲巡洋艦八雲艦長・軍令部一部長・練習艦隊司令官・軍令部次長)だった。
第一班長は、原敢二郎(はら・かんじろう)少将(岩手・海兵二八・海大九・中将・東亜研究所理事)、第二班長は嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)少将(東京・海兵三二・海大一三・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・軍令部総長)、第三班長は米内光政少将(岩手・海兵二九・海大一二・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・首相)だった。
先任副官は津田静枝大佐(福井・海兵三一・第二外遣艦隊司令官・旅順要塞司令官・軍令部第三部長・中将・駐満州国海軍部司令官・興亜院華中連絡部長官)だった。
気の毒なことに、第一艦隊はなにもせずに終わった。もう二、三十分すれば、本隊の第一艦隊も戦闘に間に合ったが、燃料が浪費なので、審判官の判断で中止された。
講評では、第二艦隊は本隊と合しないうちに戦闘したのは良くないと批評された。だが、鈴木中将は、劣勢であったが、位置がよかったので、敵の廃残艦を叩き潰す自信はあった。
鈴木中将の第二艦隊には審判官として名和又八郎(なわ・またはちろう)大将(東京・海兵一〇・厳島艦長・第三艦隊司令官・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将)が乗艦していた。遠慮の無い性格の軍人だった。
演習後、慰労会が行われた。その席に演習統監である軍令部長・山下源太郎大将(山形・海兵一〇・英国留学・軍令部第一班長・磐手艦長・海軍兵学校長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)が出席していた。
その席で、名和大将は山下大将に「お前の講評は間違っている」と言った。そして「第二艦隊が合同前に戦闘したというが、あの位置にあって戦闘しない司令官は卑怯者だ、お前の講評は盲目だよ」と続けた。
だが、山下大将はニヤリニヤリと笑って返事をしなかった。この二人の提督は海軍兵学校同期で、日頃は仲の良い友人であった。鈴木中将はその問答を見ていて、両提督の性格が露骨に顕れていると思った。
大正十年十一月、進級会議があり、終わった後に、海軍大臣・加藤友三郎大将(東京・海兵七・海大一・海軍次官・功二級金鵄勲章・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・勲一等瑞宝章・海軍大臣・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・首相・子爵・元帥)の招待があった。
その場で加藤大臣は「海軍の経費が膨大になったから節約していかねばならぬ、できるだけその積もりでやってもらいたい」と訓論を述べた。
そのあと、加藤大臣は「長官で意見があれば、遠慮なく述べよ」と言った。だが、誰も意見を言う者はいなかった。
第二艦隊司令長官・鈴木中将は、その席では一番後任だった。鈴木中将は「上の人から意見を言えば、下の者は言えなくなるから、後任者から発言するのが慣例にでもなっているのかと考えた。それで、次の様に意見を述べた。
「誠に節約のことはごもっともで、できるだけ努力して後趣意に添いたいと思っている。ただ一つ、私の申し上げたいことは、海軍の力のあるのは艦隊の実力のあることである、艦隊の訓練が基である」
「もう訓練をやるにしては今の艦隊の編制が小さ過ぎる、第二艦隊が二隻である、二隻というのは二点で直線か曲線か判りません。三隻なければ物を正して行くことができない、もう少し艦隊訓練に力を入れていただきたい。これは大臣の節約と反対のことになるならば、できれば第一艦隊に集めてしまったら良いかもしれない」。
すると加藤大臣はいやな顔をしてジッと鈴木中将の顔を見て、しばらくして「君の意見はもっともだ。これから第二艦隊を止めてしまう。その船を第一艦隊に一緒にして訓練しよう。そうすると君は待命だ」と笑いながら言った。
鈴木中将は「それは結構です。私は兵学校を出てから今日まで休息したことがない。待命なら休息ができるから結構です」と言った。
この言葉に加藤大臣は笑って「まあ、食事ができた、食堂へ行こう」と言った。
その年の十二月、編制替えが行われ、第二艦隊は一時中止となった。鈴木中将は待命にはならず、十二月一日第三艦隊司令長官に親補された。
親補式に出るため鈴木中将が家を出ようとすると、新聞記者が写真を撮った。それから高輪の御殿へ行って親補式に出た。
そのとき侍立したのは高橋是清(たかはし・これきよ)首相(東京・ヘボン夫人家塾生・渡米し奴隷労働をしながら勉学・大学南校・東京英語学校教員・東京大学予備門英語教員・農商務省書記官・商標登録所長・特許局長・日本銀行副総裁・貴族院議員・男爵・日本銀行総裁・大蔵大臣・子爵・首相・衆議院議員・大蔵大臣・首相・大蔵大臣・大勲位菊花大綬章)だった。
その二ヵ月後、鈴木中将のもとにワシントンから新聞を送ってきた。ワシントン・ポストだった。それを見ると、鈴木中将が親補式に出るときの服装の写真が写っていた。
その写真の下に「この人の容貌は平和的でない」と記してあった。鈴木中将が練習艦隊司令官として遠洋航海でサンフランシスコに行き、日米戦争の演説をしたことをアメリカの新聞は記憶していた。日本の将官の行動を彼らは注目していたのである。
大正十四年四月十五日、鈴木貫太郎大将は海軍軍令部長という最高要職に就任した。五十八歳だった。
当時の軍令部次長は斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)中将(宮城・海兵二〇恩賜・海大四首席・英国駐在・装甲巡洋艦八雲艦長・軍令部一部長・練習艦隊司令官・軍令部次長)だった。
第一班長は、原敢二郎(はら・かんじろう)少将(岩手・海兵二八・海大九・中将・東亜研究所理事)、第二班長は嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)少将(東京・海兵三二・海大一三・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・軍令部総長)、第三班長は米内光政少将(岩手・海兵二九・海大一二・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・首相)だった。
先任副官は津田静枝大佐(福井・海兵三一・第二外遣艦隊司令官・旅順要塞司令官・軍令部第三部長・中将・駐満州国海軍部司令官・興亜院華中連絡部長官)だった。