そこで、サンフランシスコでの歓迎会で鈴木中将は日本語で次の様に演説した。
「その日米戦争ということと、日本人を好戦国民と外国人のいうことと、これは二つながら非常に誤っていることだ。これは日本の歴史に無知なことから起こるのだ。日本の歴史を調べてみれば判ることだ。日本人ほど平和を愛好する人間はほかに世界にはあるまい。日本は三百年間の間一兵も動かさずに天下が治まっている、これは平和を愛好する証拠である」
「しかし日本人が近来の外国との戦争に勇敢に闘ったことは確かなことである。この勇敢さを好戦国というならば我々は甘んじて好戦国民と言われても一向差し支えがない。日本人は平和を愛好する国民だから外国から仕掛けられてもなかなかやらない。敵から挑戦されて止むを得ずやるということであった」
「世界を席捲したジンギスカンの後裔の元のクビライに対してすら彼の挑戦に応じてやった。ヨーロッパを席捲したあの兵力をもって向かって来た、十万の敵と戦って生きて帰る者三人というまでやっつけた。秀吉の朝鮮征伐ということもこちらからアグレシーブにやったのではなく、元がこちらを侵した復讐戦をやったのである。決して侵略したのではない」
「近来支那と戦争したがこれも止むを得ずしてやったのである。日本は戦う時には必ず正しい道をとってやっていた。東洋の歴史を見ても日本と戦ったもの、すなわち元にしても明にしても清にしてもみな日本と戦ったことが原因となって亡びている。いつも日本が戦う時は正義に立脚し神は正義に与するからだ」
「この日米戦争は、アメリカでも日本でもしばしば耳にする、しかしやってはならぬ。いくら戦っても日本の艦隊は敗れたとしても日本人は降伏しない、なお陸上であくまで闘う。もしこれを占領するとしたらアメリカで六千万の人を持って行って日本の六千万と戦争するよりほかにない。アメリカは六千万人を失って日本一国とったとしても、それがカリフォルニア一州のインテレストがあるかどうか」
「日本の艦隊が勝ったとしても、アメリカにはアメリカ魂があるから降伏はしないだろう。ロッキー山までは占領できるかもしれんが、これを越えてワシントン、ニューヨークまで行けるかというに日本の微力では考えられない。そうすると日米戦は考えられないことで、兵力の消耗で日米両国はなんの益もなく、ただ第三国を益するばかりで、こんな馬鹿げたことはない」
「太平洋は太平の海で、神がトレードのために置かれたもので、これは軍隊輸送に使ったなら両国とも天罰を受けるだろう」。
以上のように演説したら、米国人は非常な喝采をした。このテーブル・スピーチは区切りで、参謀の佐藤市郎大尉によって通訳された。佐藤大尉は非常に英語のできる人だった。
その当時のサンフランシスコ総領事・植原正直氏は「実に良いことを言ってくれた。一度はああいうことをアメリカ人に聞かせてやらねばならんのだが、我々が言ったら外交問題になるだろう」と言った。
そして、佐藤大尉の通訳は、彼は最近の新聞などを読んでいて、アメリカ人のよく了解する言葉を用いた。司令官の日本語演説よりは佐藤大尉の英語演説のほうがよほど能弁だったと、大笑いになった。
鈴木中将の演説は、三月二十八日、二十九日の米国の新聞で要約して報じられた。
その後の新聞に、カリフォルニア州の検事総長、J・W・プレストン氏が一ページに渡る論文を掲載した。その新聞が鈴木中将に届けられた。
それによると、検事総長は鈴木中将の意見に大賛成であるという意味のことが書かれていた。全く日米戦争の愚なることを強調した論文だった。
大正九年十二月一日、鈴木貫太郎中将は海軍兵学校長から第二艦隊司令長官に親補された。五十三歳であった。鈴木中将にとっては初めての親補職で喜んで赴任した。
このとき第一艦隊司令長官は栃内曽次郎大将(海兵一三・貴族院議員)で連合艦隊司令長官でもあった。連合艦隊旗艦は戦艦金剛(乗員二三六七名・二六三三〇トン当時)だった。
大正十年秋、日本海で大演習が行われた。赤軍は太平洋から津軽海峡を通って日本海に侵入し、それを連合艦隊が日本海で迎え撃つ演習だった。
鈴木中将は連合艦隊の前衛の指揮官として日本海の能登方面から北のほうへかけて、水雷戦隊と第二艦隊を率いていた。
赤軍の指揮官は鈴木中将と海兵同期の千坂智次郎(ちさか・ちじろう)中将(海兵一四・海兵校長)で侵入軍を率いていた。
ところが、そのときの前衛の水雷戦隊司令官である桑島省三少将(海兵二〇・中将)は、水雷戦術家で、夜を徹して赤軍を攻撃したので、赤軍艦隊は廃艦が多数出た。
その赤軍を、朝方、鈴木中将の第二艦隊で迎え撃った。だが、本来は、本隊である第一艦隊と合同して迎撃する作戦で、第二艦隊は退去しながら、第一艦隊と合する予定だった。
だが、本隊と第二艦隊との間には相当の距離があって、その間に赤軍が入ってきたので、合同するにしても、敵と戦闘しなければならなくなった。
「その日米戦争ということと、日本人を好戦国民と外国人のいうことと、これは二つながら非常に誤っていることだ。これは日本の歴史に無知なことから起こるのだ。日本の歴史を調べてみれば判ることだ。日本人ほど平和を愛好する人間はほかに世界にはあるまい。日本は三百年間の間一兵も動かさずに天下が治まっている、これは平和を愛好する証拠である」
「しかし日本人が近来の外国との戦争に勇敢に闘ったことは確かなことである。この勇敢さを好戦国というならば我々は甘んじて好戦国民と言われても一向差し支えがない。日本人は平和を愛好する国民だから外国から仕掛けられてもなかなかやらない。敵から挑戦されて止むを得ずやるということであった」
「世界を席捲したジンギスカンの後裔の元のクビライに対してすら彼の挑戦に応じてやった。ヨーロッパを席捲したあの兵力をもって向かって来た、十万の敵と戦って生きて帰る者三人というまでやっつけた。秀吉の朝鮮征伐ということもこちらからアグレシーブにやったのではなく、元がこちらを侵した復讐戦をやったのである。決して侵略したのではない」
「近来支那と戦争したがこれも止むを得ずしてやったのである。日本は戦う時には必ず正しい道をとってやっていた。東洋の歴史を見ても日本と戦ったもの、すなわち元にしても明にしても清にしてもみな日本と戦ったことが原因となって亡びている。いつも日本が戦う時は正義に立脚し神は正義に与するからだ」
「この日米戦争は、アメリカでも日本でもしばしば耳にする、しかしやってはならぬ。いくら戦っても日本の艦隊は敗れたとしても日本人は降伏しない、なお陸上であくまで闘う。もしこれを占領するとしたらアメリカで六千万の人を持って行って日本の六千万と戦争するよりほかにない。アメリカは六千万人を失って日本一国とったとしても、それがカリフォルニア一州のインテレストがあるかどうか」
「日本の艦隊が勝ったとしても、アメリカにはアメリカ魂があるから降伏はしないだろう。ロッキー山までは占領できるかもしれんが、これを越えてワシントン、ニューヨークまで行けるかというに日本の微力では考えられない。そうすると日米戦は考えられないことで、兵力の消耗で日米両国はなんの益もなく、ただ第三国を益するばかりで、こんな馬鹿げたことはない」
「太平洋は太平の海で、神がトレードのために置かれたもので、これは軍隊輸送に使ったなら両国とも天罰を受けるだろう」。
以上のように演説したら、米国人は非常な喝采をした。このテーブル・スピーチは区切りで、参謀の佐藤市郎大尉によって通訳された。佐藤大尉は非常に英語のできる人だった。
その当時のサンフランシスコ総領事・植原正直氏は「実に良いことを言ってくれた。一度はああいうことをアメリカ人に聞かせてやらねばならんのだが、我々が言ったら外交問題になるだろう」と言った。
そして、佐藤大尉の通訳は、彼は最近の新聞などを読んでいて、アメリカ人のよく了解する言葉を用いた。司令官の日本語演説よりは佐藤大尉の英語演説のほうがよほど能弁だったと、大笑いになった。
鈴木中将の演説は、三月二十八日、二十九日の米国の新聞で要約して報じられた。
その後の新聞に、カリフォルニア州の検事総長、J・W・プレストン氏が一ページに渡る論文を掲載した。その新聞が鈴木中将に届けられた。
それによると、検事総長は鈴木中将の意見に大賛成であるという意味のことが書かれていた。全く日米戦争の愚なることを強調した論文だった。
大正九年十二月一日、鈴木貫太郎中将は海軍兵学校長から第二艦隊司令長官に親補された。五十三歳であった。鈴木中将にとっては初めての親補職で喜んで赴任した。
このとき第一艦隊司令長官は栃内曽次郎大将(海兵一三・貴族院議員)で連合艦隊司令長官でもあった。連合艦隊旗艦は戦艦金剛(乗員二三六七名・二六三三〇トン当時)だった。
大正十年秋、日本海で大演習が行われた。赤軍は太平洋から津軽海峡を通って日本海に侵入し、それを連合艦隊が日本海で迎え撃つ演習だった。
鈴木中将は連合艦隊の前衛の指揮官として日本海の能登方面から北のほうへかけて、水雷戦隊と第二艦隊を率いていた。
赤軍の指揮官は鈴木中将と海兵同期の千坂智次郎(ちさか・ちじろう)中将(海兵一四・海兵校長)で侵入軍を率いていた。
ところが、そのときの前衛の水雷戦隊司令官である桑島省三少将(海兵二〇・中将)は、水雷戦術家で、夜を徹して赤軍を攻撃したので、赤軍艦隊は廃艦が多数出た。
その赤軍を、朝方、鈴木中将の第二艦隊で迎え撃った。だが、本来は、本隊である第一艦隊と合同して迎撃する作戦で、第二艦隊は退去しながら、第一艦隊と合する予定だった。
だが、本隊と第二艦隊との間には相当の距離があって、その間に赤軍が入ってきたので、合同するにしても、敵と戦闘しなければならなくなった。