陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

99.片倉衷陸軍少将(9) オイ!生意気なことをいうな!貴様こそ赤を白にすぐ変えてしまうではないか

2008年02月14日 | 片倉衷陸軍少将
 昭和12年11月に第三課高級参謀竹下義晴、経済担当参謀国分新七郎らが相次いで関東軍から転出した。

 この竹下大佐の後任に塩沢宣一、岩畔豪男の名前が上がっていたが、なかなかまとまらなかった。

 ある日、片倉少佐は東條、石原の両名に招致せられた。「お前、竹下大佐の後をやらんか」と聞かれた。

 片倉少佐は「お引き受けすることは私としては光栄で、少しも支障ありません。しかし私は現在、少佐です(課長は大佐クラスの人が任じられていた)。また、部内には、私の同期生で、私より序列が上位のものが三名おります。軍の統制上支障がねければよろしいですが」と辞退した。

 ところが東條中将も石原少将も「そんあことは気にするな、しっかり頼む」と言った。片倉少佐は、これを引き受けた。

 東條夫人が内地の国防婦人会を真似て作った国防婦女会の顧問に就任するという懸案が上がってきた。

 石原副長は「東條が自分の女房を使って、余計なことをして資金まで援助している」などと批判するようになり、益々東條参謀長と石原副長の仲は険悪化していった。

 片倉少佐は「石原少将は知能は非常に秀でていて、作戦的にあるいは戦争哲学に関しては素晴らしいものがあったが、軍政に対する施策において、その素質に欠ける面があった」と述べている。

 石原副長は最初は作戦以外にはタッチしないと言明していたが、かって石原自らが主張していた治外法権撤廃の政策に難癖をつけた。

 また満州五ヵ年計画の実施に当たっては、参謀本部時代自ら提唱し、軍務局をして提唱せしめた問題に対し、その実施にあたっての若干の意見の相違に対して強く論難するなど、傍若無人の荒れ方になった。

 そこで片倉少佐はある日、石原副長の部屋を訪ねた。そして次のように進言した。

 「副長、貴方の言うことは、赤を白に、黄を青にと鮮明に着色している。このような高等数学では実行する者がついてゆけなくなります。やはり赤から桃色、桃色から薄桃色、、そして白というように、逐次変えてゆく方法でなければ、今日の満州問題でも、うまく目的を果たすことができなくなります」

 すると石原副長は「オイ!生意気なことをいうな!貴様こそ赤を白にすぐ変えてしまうではないか」と全然取り合わなかった。この辺りに石原の欠陥があったように片倉少佐は思った。

 だが片倉はその後も石原とは心を通じるものがあり、終戦後、東京裁判のための石原の検事調査が山形県の酒田で行なわれたが、この時の石原の陳述書の原案は片倉が作成し、山田半蔵弁護士に持たせ石原に届けた。石原はそれを修正し発表した。

 片倉は「石原莞爾は功罪は別として、私が尊敬してやまぬ昭和期の名将であった」と述べている。