戦後軍が国を誤ったといわれ、その要因は皇道派と統制派の派閥争いに始まり、統制派の総帥が永田であり、その後を受けた東條、武藤らの幕僚ファッショの勢力が増大して大東亜戦争にエスカレートして遂に敗戦に導いたという説がある。
片倉氏はこの説に猛反対した。永田少将は派閥的な考え方は全くなかったし、片倉氏ら中央省部の幕僚も統制派の一員であると考えたことはなかった。
「統制派という言葉は憲兵隊の造語である。中央省部の幕僚の中では、戦後池田純久氏だけが自称しているようだが、他の幕僚たちは統制派と自覚し、また意識したこともかってなかった」。
「特に皇道派に対する統制派と意識したことはなかった。統制派という派閥はなかった。だから東條首相の失敗が永田軍務局長に起因するが如きは全くの逆説である」。このように片倉氏は述べている。
昭和11年2月26日、皇道派青年将校による2.26事件が起こった。
事件当日、真崎大将が川島陸相と会談して、伏見宮海軍軍令部総長宮に会うために陸相官邸を出て、陸軍省の玄関にさしかかった時、1つの事件が起こった。片倉衷少佐がこめかみを拳銃で撃たれたのだ。
撃ったのは皇道派青年将校の首謀者、磯部浅一である。片倉が関与した十一月事件で免官になった磯部は片倉少佐に遺恨を持ち注目していた。
磯部の「行動記」によると、磯部らのグループは陸軍省を占拠していた。玄関には幕僚将校が多数詰めかけていた。その中に片倉少佐がいた。
片倉少佐は石原莞爾作戦課長に「課長殿、話があります」と石原大佐を詰問するような態度を示した。
それを見ていた磯部は「エイッこの野郎、ウルサイ奴だ、まだクヅクヅと文句を言うのか!」と思い、いきなりピストルを握って片倉少佐のこめかみ部に銃口を当てて発砲した。
撃たれた片倉少佐はよろめいて四、五歩引き下がった。磯部は止めを刺そうと軍刀を抜き、倒れるのを待った。血が顔面にたれて、片倉少佐の顔は悪魔の形相になっていた。
片倉少佐は「撃たんでも分かる」と言いながら傍らの大尉に支えられていた。そこに居合わせた真崎大将と古荘陸軍次官が「皇軍同士撃ち合ってはいかん」と諌めた。
磯部は切るのを止めた。片倉少佐は「ヤルナラ天皇陛下の命令でやれ」と怒号して、支えられて去った。
この事件で今まで玄関に詰めかけて鼻息の荒かった幕僚たちはすっかりおじけづいた。磯部はあとで片倉少佐を殺さなかったことを後悔している。
片倉少佐は撃たれて入院中だったが、病室から、第二師団長の梅津美治郎中将を陸軍次官に、磯谷廉介少将を軍務局長にと、意見具申した。梅津中将は閥に属さず公平な見方をする人であったからである。
昭和11年3月23日、2.26事件後、梅津美治郎中将が陸軍次官に補任された。
ところが、後に林内閣の陸相人選では、梅津次官が押す中村孝太郎中将に対して参謀本部作戦部長心得の石原大佐と片倉少佐らは、関東軍参謀長の板垣征四郎中将を押した。それで感情の行き違いが生じた。
片倉氏はこの説に猛反対した。永田少将は派閥的な考え方は全くなかったし、片倉氏ら中央省部の幕僚も統制派の一員であると考えたことはなかった。
「統制派という言葉は憲兵隊の造語である。中央省部の幕僚の中では、戦後池田純久氏だけが自称しているようだが、他の幕僚たちは統制派と自覚し、また意識したこともかってなかった」。
「特に皇道派に対する統制派と意識したことはなかった。統制派という派閥はなかった。だから東條首相の失敗が永田軍務局長に起因するが如きは全くの逆説である」。このように片倉氏は述べている。
昭和11年2月26日、皇道派青年将校による2.26事件が起こった。
事件当日、真崎大将が川島陸相と会談して、伏見宮海軍軍令部総長宮に会うために陸相官邸を出て、陸軍省の玄関にさしかかった時、1つの事件が起こった。片倉衷少佐がこめかみを拳銃で撃たれたのだ。
撃ったのは皇道派青年将校の首謀者、磯部浅一である。片倉が関与した十一月事件で免官になった磯部は片倉少佐に遺恨を持ち注目していた。
磯部の「行動記」によると、磯部らのグループは陸軍省を占拠していた。玄関には幕僚将校が多数詰めかけていた。その中に片倉少佐がいた。
片倉少佐は石原莞爾作戦課長に「課長殿、話があります」と石原大佐を詰問するような態度を示した。
それを見ていた磯部は「エイッこの野郎、ウルサイ奴だ、まだクヅクヅと文句を言うのか!」と思い、いきなりピストルを握って片倉少佐のこめかみ部に銃口を当てて発砲した。
撃たれた片倉少佐はよろめいて四、五歩引き下がった。磯部は止めを刺そうと軍刀を抜き、倒れるのを待った。血が顔面にたれて、片倉少佐の顔は悪魔の形相になっていた。
片倉少佐は「撃たんでも分かる」と言いながら傍らの大尉に支えられていた。そこに居合わせた真崎大将と古荘陸軍次官が「皇軍同士撃ち合ってはいかん」と諌めた。
磯部は切るのを止めた。片倉少佐は「ヤルナラ天皇陛下の命令でやれ」と怒号して、支えられて去った。
この事件で今まで玄関に詰めかけて鼻息の荒かった幕僚たちはすっかりおじけづいた。磯部はあとで片倉少佐を殺さなかったことを後悔している。
片倉少佐は撃たれて入院中だったが、病室から、第二師団長の梅津美治郎中将を陸軍次官に、磯谷廉介少将を軍務局長にと、意見具申した。梅津中将は閥に属さず公平な見方をする人であったからである。
昭和11年3月23日、2.26事件後、梅津美治郎中将が陸軍次官に補任された。
ところが、後に林内閣の陸相人選では、梅津次官が押す中村孝太郎中将に対して参謀本部作戦部長心得の石原大佐と片倉少佐らは、関東軍参謀長の板垣征四郎中将を押した。それで感情の行き違いが生じた。