陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

659.山本権兵衛海軍大将(39)児玉中将は、「万事休す」とつぶやくと、腕を組み瞑目し、涙を落した

2018年11月09日 | 山本権兵衛海軍大将
 だが、山本海相は「允裁」と言われても屈せず、鷲のような眼で一同を睨み、憤然として、次の様に言った。

 「台湾からの出兵をそのままにしておけば、必ず国際問題を引き起こし、容易ならぬことになる。かかる命令はすみやかに取り消さねばなりません」

 「もし、我が軍艦が、厦門方面の海上で、武装兵を乗せた怪しい船に出会った場合、これを海賊船と見なして、撃沈するかもしれない。国際法では、海軍が海賊船を処分することを正当としておりますぞ」。

 山縣首相、桂陸相、大山参謀総長らは、山本海相の主張は間違いではないし、味方の船を沈める訳はないが、海軍が陸軍に非協力となる恐れが多分にあると見て、とりなしにかかった。

 それにもかかわらず、山本海相は承服せず、陸軍側は、遂に、ひとまず出兵を見合わせることに方針を変更した。

 桂陸相から出兵中止の電命を受けた台湾総督・児玉源太郎中将は、しばらく電文を凝視していた。その後、児玉中将は、「万事休す」とつぶやくと、腕を組み瞑目し、涙を落した。

 八月三十日、台湾総督・児玉中将は、土壇場で自分を裏切った山縣有朋首相あてに「病気重シ、本官ヲ免ゼラレタシ」と電報を打った。

 さすがに老獪な山縣首相も慌てた。黙していれば、台湾総督・児玉中将は辞めるに違いなく、辞めれば台湾経営は瓦壊する。

 山縣首相は、とりあえず遺留の返電を打ち、内務大臣・西郷従道元帥に頼み、台湾へ行って直接慰留してもらうことにした。

 だが、大貧乏徳利の内務大臣・西郷元帥をもってしても、台湾総督・児玉中将の意思をひるがえすことはできなかった。

 台湾総督・児玉中将は、孫文(辛亥革命・中国の政治家・革命家・初代中華民国臨時大統領・中国国民党総理・中国革命の父)らの革命運動を援助し、成功させ、日中両国の独立と生存を確保することに、一身を賭していたのである。

 日頃、台湾総督・児玉中将は、秘書官に「わしの親父は座敷牢で憤死したんじゃが、そういう場合がわしに無いとも限らぬ。注意していてくれ」と言っていたが、今がその状態に近かった。

 遂に、勅使・米田虎男(こめだ・とらお)男爵(熊本・熊本藩家老長岡是容の次男・戊辰戦争・熊本藩大参事・維新後宮内省侍従番長・陸軍中佐・主猟官・侍従長・男爵・宮中顧問官・主猟頭・明治天皇の側近・子爵・従二位・勲一等旭日大綬章・大清帝国勲二等第一双竜宝星等)が派遣された。

 明治三十三年九月二十日、台北の総督官舎で、台湾総督・児玉源太郎中将は、米田男爵から次の勅語を伝えられた。

 「惟フニ台湾ノ事業多々卿ノ経営ニ頼リ、漸次ソノ緒ニ就カントス 朕ハ卿ガ任地ニオイテ病ヲ勉メテ事ヲ見ンコトヲ望ム」。

 重病人のような台湾総督・児玉中将も、さすがに辞職を思いとどまらざるを得なかった。

 台湾総督・児玉中将の挫折に続き、山縣有朋内閣が九月二十六日に総辞職し、第四次伊藤博文内閣が十月十九日に発足すると、伊藤首相は、台湾総督・児玉中将に、孫文に対する支援と武器輸出を厳禁した。

 孫文らは天を仰ぎ、不運を嘆いたが、革命も挫折するほかはなかった。厦門出兵、孫文支援は、海軍大臣・山本権兵衛中将と伊藤博文首相の反対で、無に帰した。

 山本権兵衛中将と児玉源太郎中将は、ともに一八五二年生まれで、同い年である。誕生日は、山本権兵衛が十一月二十六日、児玉源太郎が四月十四日。

 第二次山縣有朋内閣の司法大臣だった清浦奎吾(きようら・けいご・熊本・埼玉県十四等出仕・司法省・検事・内務省小書記官・内務省警保局長・司法次官・司法大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官・枢密院副議長・内閣総理大臣・新聞協会会長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア等)は、昭和九年六月、次のような逸話を語った。

 ある時、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将が、樟脳の結晶をガラス箱に入れ、閣僚たちに分配した。

 数日後、清浦司法大臣が、内閣控室で、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将と雑談をしていると、海軍大臣・山本権兵衛中将が現れて次の様に言った。

 「お~児玉、この間、台湾からのみやげ有難う。あれは匂いが大変いいが、雪隠にでも置くのかなあ」。

 無遠慮で、放っておけば喧嘩になりかねないと感じた、清浦司法大臣は、海軍大臣・山本権兵衛中将に次の様に言ってやった。

 「ああ、山本、君の家はよほど贅沢と見えるな。俺の家では座敷の床の間の飾りにしようと思っているよ」。

 当時(明治三十三年第二次山縣内閣時代)、海軍大臣・山本権兵衛中将は四十七歳、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は四十八歳、清浦奎吾司法大臣は五十歳だった。