陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

599.桂太郎陸軍大将(19)実際には二条例をそのまま実現させたことで、陸軍主流派の勝利だった

2017年09月15日 | 桂太郎陸軍大将
 こうした状況の中で、大山巌陸軍大臣は、条例の実現のため、大臣辞任の覚悟を示して強硬に抵抗した。

 伊藤博文首相は、この問題を解決するため、二条例は明治十九年七月二十六日に公布することとし、監軍部再設置の方向でメッケル少佐に調査させることにした。

 同時に三浦中将の改革意見の一つである全国教育会議の設置を容れた形で陸軍教育会議条例を公布した。

 これによって、明治天皇や、参謀本部、さらに反主流派の三浦中将の意向に配慮したように見える。だが、実際には二条例をそのまま実現させたことで、陸軍主流派の勝利だった。

 大山陸軍大臣の強硬姿勢の背後には、陸軍内部だけではなく、薩長閥主流派の結束と、陸軍次官・桂太郎少将の組織力があったからである。

 伊藤首相から探査を依頼された、内閣書記官長・田中光顕(たなか・みつあき)陸軍少将(高知・戊辰戦争・岩倉使節団・西南戦争で征討軍会計部長・陸軍省会計局長<三十六歳>・少将・初代内閣書記官長・警視総監<四十六歳>・学習院長・子爵・宮内大臣<五十五歳>・伯爵・従一位・勲一等)は、七月二十三日の書簡で次のように報告している。

 「桂殿の方にては、川上(操六)少将、川崎(祐名)監督長、仁礼(景範)中将、樺山(資紀)中将等の薩人と結び、青木(周蔵)外務次官、野村(靖)逓信次官等と共に、屡々小集を催し、万事相談致居候由にこれあり」。

 事実、桂少将は、仁礼や樺山ら薩派の海軍将官や、青木、野村ら長州藩出身の有力官僚を結集して、支援体制をとっていた。

 明治十九年七月十日、反主流派の、近衛歩兵第一旅団長・堀江芳介(ほりえ・よしすけ)少将(山口・戊辰戦争・別働第二旅団参謀長・陸軍大佐<三十三歳>・参謀本部管東局長・兼近衛参謀長・戸山学校次長・少将<三十八歳>・戸山学校長・近衛歩兵第一旅団長・歩兵第六旅団長・欧州出張・予備役・元老院議官<四十四歳>・衆議院議員・錦鵄間祗侯<四十五歳>・阿月村(山口県柳井市)村長・従三位・旭日重光章)が名古屋鎮台の歩兵第六旅団長に左遷された。

 また、七月二十六日、陸軍士官学校校長から東京鎮台司令官に就任していた三浦梧楼中将が熊本鎮台司令官に左遷された。

 さらに、七月二十九日、参謀本部次長・曽我祐準中将が陸軍士官学校校長にされた。

 堀江少将と、曽我中将は、病気を理由に、三浦中将は戦術の早い変化について行けないことを理由に、転任を辞退した。

 明治天皇は、これを認めず、療養して服務するよう沙汰があった。だが、三人は再度辞表を提出したため、参謀本部長と陸軍大臣が連署して辞任願を受理するという手続きを経て休職となった。

 明治天皇が三人の辞任をすぐに認めなかったことは、陸軍主流派の左遷人事に異議を表明したことを意味している。

 だが、陸軍次官・桂太郎少将が密接にかかわった監軍廃止と二条例をめぐる事件は、陸軍内の批判派を要職から排除して、陸軍主流派が陸軍における主導権を確保したものであり、薩長両藩出身の特定の陸軍将官を頂点とする支配体制が整った。
 
 さらに明治二十二年二月十一日には、大日本帝国憲法が公布され、その第十一条で、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され、いわゆる統帥大権が明記され、さらに第十二条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」の条文で、天皇が軍隊の編制と軍事費の決定に大きな発言権を持つことが明示された。日本の軍隊が天皇の軍隊であるという位置づけがされたのだ。

 また、明治二十三年の帝国議会の開設、立憲体制に移行する以前に、陸軍次官・桂太郎少将が処理しなければならない課題が残っていた。

 その一つは、陸軍内で大きな組織になっていた「月曜会」をどうするかということだった。

 「月曜会」は明治十七年に趣意書を頒布して以後、会員が急増し、翌年、機関誌として「月曜会記事」を創刊、東京では毎月会合を開いて研究発表や討議を重ねていた。

 地方に各支部も組織され、自主的な運営で、メッケル少佐の著述や兵術関係書なども発行し、若い将校らの研究意欲を刺激する集団だった。

 明治二十一年に曽我祐準中将が「月曜会」幹事に就任すると、休職中の三浦梧楼中将や予備役の谷干城中将、鳥尾小弥太中将も入会し、反主流派と目されていた四中将が勢揃いすることになった。

 明治二十一年二月における会員は、中将八名、少将十七名の名誉会員をはじめ、大佐級二十四名、中佐級三十二名、少佐級百三十一名、大尉級四十名、中尉級、少尉級を合わせて総計千六百七十名の多数が入会していた。

 「月曜会」は、学術団体として自主的に運用され、その人数の多さと佐官級、尉官九の横断的な組織と自由な活動は、陸軍主流派としては、無視し難いものだった。