五月二十八日、桂大将は参内して、伊藤博文に留任の大命を下されるよう請うた。
五月二十九日、伊藤博文と桂大将は、ともに明治天皇に拝謁して、伊藤自身から留任の意思のないことが上奏された。桂大将は、もう辞退することはできなかった。伊藤が辞表を提出してから二十七日目であった。桂大将は五十五歳だった。
五月三十日、桂大将は組閣に着手した。組閣は、諸元老から側面の援助があり、三日間で選考が終わった。
明治三十四年六月二日親任式が挙行せられた。実現した内閣の顔ぶれは、山縣有朋元帥系の官僚かそれに近いものが多かった。留任は、海軍大臣・山本権兵衛海軍中将、陸軍大臣・児玉源太郎陸軍中将だった。
だが、外務大臣には、陸奥宗光亡き後の、外務省のエース、駐清公使・小村壽太郎(こむら・じゅたろう・宮崎・大学南校<東京大学の前身>・第一回文部省海外留学生・ハーバード大学・司法省・大審院判事・外務省・清国代理公使・駐韓弁理公使・外務次官・駐米公使・駐露公使・外務大臣・男爵・ポーツマス条約調印・伯爵・外務大臣・日米通商航海条約調印・韓国併合・侯爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・英国ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス等)が任命されたことは、桂内閣に安定感を与えた。
明治以来の各内閣を見れば、元老とか老政治家の入閣が多かったが、桂内閣では、それらは一切除かれていた。
それで、世間では、どことなく軽量の内閣という印象を与えた。ひどいのになると、「第二流内閣」、「三日天下」、「緞帳内閣」、「小山縣内閣」などと呼んで、冷評する評論家もいた。
政党側の反応としては、政友会以外は、桂内閣に対して特に甚だしい反感を持つ者はいなかった。お手並み拝見という態度だった。
非政党派の中には、桂首相がいちはやく、「立憲君主主義でいく」と声明したことに、好感と同情を以て迎えた者もあった。
桂内閣の大きな政治問題は二つあった。一つは、前内閣が崩壊の原因であった財政問題である。もう一つは、北清事変にともなって起こっていた支那問題であった。
ともに重大で困難な問題だった。これらの解決の重責を担っていたのが、桂内閣だった。桂太郎首相としては生涯を通じて、最も大きな第一試練に立った。
明治三十四年十二月、第十六帝国議会が開会されることになっていた。桂内閣としては、まず、政友会対策に頭を悩ました。
伊藤内閣は快く退陣したのではなかった。財政問題の行き詰まりで、進退きわまって、心ならずも辞したのだ。そのあとを継いだのが、桂内閣である。政友会としては、感情的にも桂内閣に反感を持っていた。
当時、伊藤博文は外遊中だった。伊藤は、桂内閣が成立した時、また、今回外遊に出る時も、政友会の党員に「決して派閥や感情をもって政府に反対するようなことがあってはならぬ」と言っている。
だが、政友会は、主義の上から、桂内閣とは相容れないものがあった。政友会は政党主義をとっているから、当然の理論から政党内閣を要求する。
ところが、桂内閣は超然主義の内閣である。超然内閣は、議会の支持なしに組閣される内閣で、政府が政党の意向にとらわれずに、”超然“として公正な政治を行うべきであるという主義の内閣。
大日本帝国憲法は、一八八九年二月十一日、明治天皇により公布され、一八九〇年十一月二十九日に施行された欽定憲法だ。
超然内閣は、この大日本帝国憲法公布の翌日、鹿鳴館で、当時の黒田清隆(くろだ・きよたか)首相(鹿児島・薩摩藩士・薩英戦争・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後開拓次官・欧米旅行・開拓使長官・陸軍中将・参議兼開拓長官・全権弁理大使・日朝修好条規締結・西南戦争・征討参軍・開拓長官・農商務大臣・内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)が、前述の超然主義としての内閣を演説したことから、こう呼ぶようになった。
この超然主義である桂内閣は、政党内閣を受け容れることはできなかったし、桂内閣の閣員の中には、前内閣の時、貴族院にいて財政問題等で散々伊藤内閣をいじめつけた者が多かった。
だから政友会としては、面白くなかった。政友会の内部は、統一されたものではなかった。伊藤博文は模範的政党ということを説いていたが、実際はそうはいかなかった。
伊東の片腕となってその政治的才腕を発揮していた星亨が暗殺された後、政友会内部では、派閥の争いが顕著になってきたのだ。
星亨は、とかく批判の多かった政治家だったが、その政治力は抜群で、政友党党内の各派をよく統一して、兎に角一大政党としての態を保たしめていた。また、山縣内閣の時も星は政府と政党の間に立ち、提携させていた。
桂太郎内閣では、その星亨は、もういなかったし、伊藤博文も外遊中であり、政府と政友会が、議会で激突することは事前から想像に難くなかった。
五月二十九日、伊藤博文と桂大将は、ともに明治天皇に拝謁して、伊藤自身から留任の意思のないことが上奏された。桂大将は、もう辞退することはできなかった。伊藤が辞表を提出してから二十七日目であった。桂大将は五十五歳だった。
五月三十日、桂大将は組閣に着手した。組閣は、諸元老から側面の援助があり、三日間で選考が終わった。
明治三十四年六月二日親任式が挙行せられた。実現した内閣の顔ぶれは、山縣有朋元帥系の官僚かそれに近いものが多かった。留任は、海軍大臣・山本権兵衛海軍中将、陸軍大臣・児玉源太郎陸軍中将だった。
だが、外務大臣には、陸奥宗光亡き後の、外務省のエース、駐清公使・小村壽太郎(こむら・じゅたろう・宮崎・大学南校<東京大学の前身>・第一回文部省海外留学生・ハーバード大学・司法省・大審院判事・外務省・清国代理公使・駐韓弁理公使・外務次官・駐米公使・駐露公使・外務大臣・男爵・ポーツマス条約調印・伯爵・外務大臣・日米通商航海条約調印・韓国併合・侯爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・英国ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス等)が任命されたことは、桂内閣に安定感を与えた。
明治以来の各内閣を見れば、元老とか老政治家の入閣が多かったが、桂内閣では、それらは一切除かれていた。
それで、世間では、どことなく軽量の内閣という印象を与えた。ひどいのになると、「第二流内閣」、「三日天下」、「緞帳内閣」、「小山縣内閣」などと呼んで、冷評する評論家もいた。
政党側の反応としては、政友会以外は、桂内閣に対して特に甚だしい反感を持つ者はいなかった。お手並み拝見という態度だった。
非政党派の中には、桂首相がいちはやく、「立憲君主主義でいく」と声明したことに、好感と同情を以て迎えた者もあった。
桂内閣の大きな政治問題は二つあった。一つは、前内閣が崩壊の原因であった財政問題である。もう一つは、北清事変にともなって起こっていた支那問題であった。
ともに重大で困難な問題だった。これらの解決の重責を担っていたのが、桂内閣だった。桂太郎首相としては生涯を通じて、最も大きな第一試練に立った。
明治三十四年十二月、第十六帝国議会が開会されることになっていた。桂内閣としては、まず、政友会対策に頭を悩ました。
伊藤内閣は快く退陣したのではなかった。財政問題の行き詰まりで、進退きわまって、心ならずも辞したのだ。そのあとを継いだのが、桂内閣である。政友会としては、感情的にも桂内閣に反感を持っていた。
当時、伊藤博文は外遊中だった。伊藤は、桂内閣が成立した時、また、今回外遊に出る時も、政友会の党員に「決して派閥や感情をもって政府に反対するようなことがあってはならぬ」と言っている。
だが、政友会は、主義の上から、桂内閣とは相容れないものがあった。政友会は政党主義をとっているから、当然の理論から政党内閣を要求する。
ところが、桂内閣は超然主義の内閣である。超然内閣は、議会の支持なしに組閣される内閣で、政府が政党の意向にとらわれずに、”超然“として公正な政治を行うべきであるという主義の内閣。
大日本帝国憲法は、一八八九年二月十一日、明治天皇により公布され、一八九〇年十一月二十九日に施行された欽定憲法だ。
超然内閣は、この大日本帝国憲法公布の翌日、鹿鳴館で、当時の黒田清隆(くろだ・きよたか)首相(鹿児島・薩摩藩士・薩英戦争・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後開拓次官・欧米旅行・開拓使長官・陸軍中将・参議兼開拓長官・全権弁理大使・日朝修好条規締結・西南戦争・征討参軍・開拓長官・農商務大臣・内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)が、前述の超然主義としての内閣を演説したことから、こう呼ぶようになった。
この超然主義である桂内閣は、政党内閣を受け容れることはできなかったし、桂内閣の閣員の中には、前内閣の時、貴族院にいて財政問題等で散々伊藤内閣をいじめつけた者が多かった。
だから政友会としては、面白くなかった。政友会の内部は、統一されたものではなかった。伊藤博文は模範的政党ということを説いていたが、実際はそうはいかなかった。
伊東の片腕となってその政治的才腕を発揮していた星亨が暗殺された後、政友会内部では、派閥の争いが顕著になってきたのだ。
星亨は、とかく批判の多かった政治家だったが、その政治力は抜群で、政友党党内の各派をよく統一して、兎に角一大政党としての態を保たしめていた。また、山縣内閣の時も星は政府と政党の間に立ち、提携させていた。
桂太郎内閣では、その星亨は、もういなかったし、伊藤博文も外遊中であり、政府と政友会が、議会で激突することは事前から想像に難くなかった。