陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

84.宇垣纏海軍中将(4) 戦前から戦中にかけて、この小村は県下でも、軍人王国としてもてはやされた

2007年11月02日 | 宇垣纏海軍中将
 もっとも草鹿中将は、宇垣中将の最期の状況を詳しく聞いて、自分がいままで抱いていた憎悪の念もたちまち消えうせて、彼もまた偉い武人であったと感じ入ったと記している。

 だが宇垣と草鹿は性格的に合わないところがあったといわれている。

 伊藤整一少将の後に第八戦隊司令官に就任した宇垣纏少将について、丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で、「印象に残る海軍の諸先輩」と題して元海軍中佐・久住忠男氏が寄稿している。

 久住氏は当時第八戦隊参謀であった。

 当時軍令部作戦部長から第八戦隊司令官に転任してきた宇垣少将は、海軍大学校の教官などが多く、海軍戦術の大家として高名であった。

 宇垣司令官の艦橋での指揮ぶりはものすごかった。自分に自信があるので、人のやることを黙って見ておれない。

 第八戦隊旗艦・利根の艦長は、兵学校トップ卒業の秀才であった。だが赤煉瓦勤務が多かったので、艦隊勤務には不慣れであった。

 艦の出入港時の操艦にまで宇垣司令官が口を出す始末で、艦長の影は薄かった。

 主席参謀は砲術関係出身者であったが、陸上勤務が多かった人で、これもほとんど無視されたという。

 筆者の久住参謀は、無線電話による戦隊内通話を隠語で行うという訓練を重視して、それに没頭、徹底的に行ったという。それが宇垣司令官に認められ、可愛がられた。

 艦隊訓練が終わり、三河湾に入泊して、蒲郡で半舷上陸が行われたとき、久住参謀は宇垣司令官のお供をして鴨猟に行ったこともあったという。

 宇垣司令官から「正奇制敵」と書かれた立派な揮毫ももらった。この揮毫はは額に表装されて久住氏の家の客間を飾っている。

 「実録・参謀たちの戦争学」(立風書房)の中の「戦いの枢機に参じた五人の艦隊参謀」によると、宇垣纏少将が巡洋艦の第八戦隊司令官から連合艦隊参謀長に転補されたのは昭和16年8月1日だった。

 9月24日軍令部において、軍令部からは第一部長・福留繁第一部長以下作戦課全員と連合艦隊から宇垣参謀長以下幕僚が出席して、ハワイ奇襲作戦を実施すべきか否か真剣な討議が行われた。

 「宇垣参謀長は開戦日を一ヶ月遅らせるようなことがあっても、ハワイ作戦はやったほうが全般作戦を進捗させて有利」と発言した。

 だが、会議終了後、福留第一部長に「自分は着任後日が浅く、確たる自信はないのだが」と漏らしている。

 福留と宇垣は海軍兵学校四〇期の同期。福留は卒業成績が8番、宇垣は9番で恩賜組ではなかったが、席次が隣り合う良きライバルだった。

 どういう理由か不明だが、青年士官時代に福留はハンモックナンバー(席次)がずるずる下がり大尉の中頃には17番まで落ち込んでしまった。

 だが、大正15年12月、海軍大学校甲種学生を恩賜の長剣・2番で卒業すると、順位を回復し、昭和2年には10番、6年には6番に上がり、宇垣の次位を占めるようになった。

 海軍大学校入学は宇垣のほうが2年早い。甲種学生卒業と同時に少佐に進級している。

 その後宇垣は軽巡大井砲術長、軍令部参謀、ドイツ駐在、第五戦隊参謀、第二艦隊参謀、海軍大学校戦術教官を経て、昭和10年10月、連合艦隊先任参謀のエリート街道をまっしぐらに歩んでいる。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、宇垣纏は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村の正木に生まれた。正木は吉井川と裏山に取り囲まれている小村である。現在の地名は瀬戸町大内である。

 この小村の農家のほとんどは驚くべきことに宇垣の姓である。戦前から戦中にかけて、この小村は県下でも、軍人王国としてもてはやされた。そして多くの人々の注目を引いてきた。