陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

80.有末精三陸軍中将(10) もし死のうと決心したら三人一緒に死のうじゃないか

2007年10月05日 | 有末精三陸軍中将
 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月14日朝、有末中将が第二部長室で朝食を採っていたところ、近衛師団長の森赳中将(陸士28期)が突然訪ねてきた。森赳中将は有末中将と中央幼年学校の同期生。有末中将は士官学校では病気のため一期延期で29期となる。

 有末中将の机の側に来て、立ったまま森中将は「オイ!第二部長なんていうものは誰でも出来るよ、わしでも勤まるよ。第一貴様は皇太子様に勝ちもしない戦を勝つ勝つとウソを申し上げたじゃないか」と詰問した。

 有末中将は「わしは何もウソを申し上げたわけじゃない、努力すれば勝つし、また勝つようにしなければならないと申し上げただけだよ」と答えた。

 それから二、三押し問答の後、有末中将が「時に食事は終わったのか?」と聞いたところ、森中将は「貴様はよく飯を食うなあ。死ねよ」とキツイ一言を放った。

 有末中将は「死ぬ死なぬはわしの勝手だ。考えさせてもらう。時に御所の方は大丈夫か」と返事とともに質問した。

 「憚りながら禁闕守衛については指一本指させぬから、その点は心配するな」と言い放って立ち去った。その後味はなんとも言いようの無いものであった。

 朝食を済ませた有末中将は、隣の第一部長室に作戦部長の宮崎周一中将を訪ねた。

 宮崎中将は森中将の同期生であった。「おい、森が来たろう」との有末中将の呼びかけに「ウン来たよ。そして死ね!と言って帰ったよ」と言った。

 「わしのところも同じだったよ」。お互い死んでお詫びをしたものかどうか悩んでいた時でもあり、ことに作戦部長として全作戦の企画・実行に精進していた宮崎中将の苦悩は察するに難くなかった。

 宮崎中将は独り言のように「時に第三部長の磯谷中将(伍郎・有末中将と同期)が近来全然ものも言わずにふさぎこんでいるようだなあ」と洩らした。

 有末中将は「お互いそんな心境にある今日、おい、もし死のうと決心したら三人一緒に死のうじゃないか」などと話して別れた。

 森中将はその夜、宮中へ録音盤を奪回に侵入するため、クーデターを計画した一派が近衛師団の出動命令の発令を強要したのを拒否して射殺された。

 有末中将は終戦後、昭和20年8月厚木進駐部隊受け入れのための連絡委員長、9月対連合軍陸軍連絡委員長(有末機関・東京)等に就任し、マッカーサー進駐軍の受け入れに全力を尽くし、後に米軍顧問となり、日米の橋渡しを行った。

 昭和30年社団法人日本郷友連盟が発足し、連盟参与に就任。翌31年、米軍顧問を辞任した。

 昭和34年から44年にかけて、北米、西ドイツ、イタリア、トルコ、エジプト中近東、イラン各国の情勢視察を行った。

 昭和45年社団法人日本郷友連盟会長に就任。平成4年2月14日死去した。

(「有末精三陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣纏海軍中将」が始まります)